株式会社フォーユー 代表取締役 諏訪下正俊氏 | |
生年月日 | 1975年8月4日 |
プロフィール | 鹿児島県鹿児島市生まれ。北九州大学卒業後、鹿児島に本社を置く「酒のキンコー」に就職。バイヤーなどを経験し、平成14年、飲食部門に異動し、執行役員に就く。その後、飲食部門の事業譲渡に合わせ、フォーユーに転籍。2015年4月、現職の社長に就任する。 |
主な業態 | 「博多一番どり」「博多餃子舎603」他 |
企業HP | http://www.for-you.ne.jp/ |
「博多一番どり」や「大阪王将」などのフランチャイズ店に自社ブランドを加え、九州や東京に38店舗の飲食店を出店しているのが、株式会社フォーユー。
創業は2001年となっている。ただし、今回ご登場いただく諏訪下正俊氏が、フォーユーに参画するのは2013年から。元々、勤めていた会社が飲食部門を「フォーユー」に譲渡した時に、諏訪下も同社に転籍することになる。
元々、諏訪下氏自身が、執行役員として取り組んでいた飲食部門ということもあって、入社後も譲渡した店舗の責任者となり、更に、フォーユーがそれまで運営してきた店舗も含め、すべて諏訪下氏の管理下に置かれた。そして、2015年4月、晴れて社長に就任。
「今期は東京、九州に4〜5店舗出店する」と、鼻息も荒い。鼻息という言葉を使ったが、諏訪下氏の話を聞いていると、極めてスマート。情熱をスーツの下に隠しながら、淡々とビジネスを語る、クレバーな経営者という印象である。
諏訪下氏が、生まれたのは1975年8月4日。鹿児島市内の生まれである。「父は公務員。兄弟は男3人で私は真ん中です」と諏訪下氏。小学3年〜6年までは、父親の仕事で大阪でも暮らしていたそうだ。
運動が大好きで、野球やサッカーは特に大好きだった。「小・中はサッカー少年でした。高校でもサッカーはつづけましたが、それまでのようにはいかなかった。なんだか、ぜんぶが『めんどくさい』なと思うようになったのは、この頃です」。
北九州大学に進学する。「私は、高校の卒業式にも出ていないんです。大学にも進学はするんですが、ぜんぜん学校には行ってなかった。ちゃらんぽらん、ですよね(笑)」。
大学に進学しても、授業には出席しない。だからといって代わりに没頭するものもなかった。
「ただ一つ、バイトですね。大学1年から4年まで、バイトするんですが、大学に行かなかったのも、退学せずに4年間で大学を卒業できたのも、このバイトのおかげだと思っています」。
諏訪下氏がいうバイト。最初は、レストランバーだった
「最初は、地元のケーキ屋さん、といっても5〜6店舗を持つ会社が経営しているレストランバーだったんです。その店に、8歳年上の先輩がいらして、私が2年生の時に独立されて、洋酒をメインしたバーをオープンされるんです。私の師匠みたいなもんですから、私も連れてってくださいと、そちらの店に移りました。ウイスキーにこだわったお店。いまもまだありますよ。結構、有名なバーですから」。
店名を聞いたので、ネットで検索すると、たしかにいまも健在で、口コミのグルメサイトでも高い評価を獲得されていた。
「いまでも年に何度かは海外に買い付けに行かれているんじゃないですかね」と諏訪下氏。諏訪下氏が、その店の店主をいまも師匠と呼ぶのは、バーの運営を2人で行い、いろいろと教えてもらったからだけではない。むしろ、それ以前、レストランバーの時代に、師匠の手によって、社会人の意識を叩き込まれたからだ。
「それまでの私は、すでにお話したように、ちゃらんぽらんだった。だから『だめ』なんですが、なかなか改まらない。師匠のゲンコツが、その姿勢を正してくれたんです」。
殴られる、蹴られるのが日常茶飯事だったそうだ。それでも、師匠の人間性に魅了され、卒業するまでつづけた。「1度だけ、逃げ出して。でも、すぐに連れ戻されました。懇々と説教までされて(笑)」。
師匠との出会いは、諏訪下氏の「人生の扉」をひとつ開けたとも言える。いつか、師匠のように独立しようと考えるようになったからだ。
「でもね。こればっかりは親父のOKがでなかったんです。水商売をするなら『親子の縁を切る』。そうまで言われたもんですから、では、ひとまず大人しく田舎に帰って就職しようと思ったわけです。それでも、いつか独立というのは頭から離れない。それで、独立時にも役立つだろうと、酒販会社に就職するんです。たまたま鹿児島に帰った時に参加した合同説明会に、その会社も参加していたんですね」。
この会社が、諏訪下氏のそれからの人生のコアともなる。社名は「酒のキンコー」。鹿児島本社の会社である。
「私が、入社したのは平成8年です。当時から鹿児島ではリーディングカンパニーでした。私が入社した頃は、ディスカウントショップの経営が中心だったんですが、やがて飲食店相手にお酒を卸す事業の比率がアップします。そして、平成13年に飲食店の経営にも踏み出したんです。もっとも鹿児島ではまずかろうということで、熊本が中心となります。私は、事業がスタートした翌年の平成14年から、この事業に関わります。入社、当時に「飲食で独立したい」と私が言っていたことを社長が記憶してくださっていたんだと思います。入社当時より当然、酒のことにも詳しくなっていましたし、ちょうどバイヤーをやっていましたから、買い付け方法もルートもわかるようになっていました」。
ちなみに、「酒のキンコー」の企業規模は、入社当時で約100億円。正社員だけでも100名くらいいたということだ。同期は10名。諏訪下氏は、同期のなかでも、出世が早かったほうだろう。やがて、執行役員にまで登っている。
「フォーユー」への事業譲渡。これが行われたのは、2013年2月のことである。
「元々、フォーユーという会社があって、そちらに酒のキンコーの飲食事業を譲渡したんです。その時に私もフォーユーに移りました。舞台も、鹿児島から東京中心に移っていきます。もっとも、フォーユーは飲食事業を行っていましたが、規模的には譲渡した部門のほうが大きかったこともあって、私が最初から指揮を執らせてもらいました」。
それから2年後の2015年4月、諏訪下氏は、予定通り社長に就任する。
22歳、いつしか独立すると志し、もう何年経つのだろうか。「独立」という言葉は正確ではないが、それでも経営者にはなった。アルバイト含め500名のスタッフたちの未来も背負うようになった。
「来期は4〜5店の出店」を実現すると諏訪下氏。すでにこれは、絵に描いた未来図だ。4年後には、売上35億円、経常利益3億円という目標も掲げている。しかし、それができるかどうか、すべては、諏訪下氏の手腕にかかっているといっても過言ではないだろう。
ただし、それほど心配する必要はない。「酒」という媒体を通して、諏訪下氏は、すでに何年もの社会経験を積み、ビジネスの方法を勉強してきたと思うから。
これからますます、フォーユーが大きな仕事をすることに期待したい。ちなみに、「フォーユー」の経営理念に「私たちは、酒食文化を高める努力を通して、地域社会に貢献します。」という一文がある。
いつか起業したかったBarとは異なるが、「酒食文化」という4文字に、諏訪下氏の志が表れているような気がした。
学生時代に慣れ親しんだ、酒とネオン街とそれを取り巻く文化。これが、諏訪下氏の原点である。
バイヤー時代・フランスにて | バイヤー時代・CHムートンロートシルトにて | バイヤー時代・ヴァランドローオーナーと |
バイヤー時代・ミュンヘンにて | バイヤー時代・ロマネコンティにて | バイヤー時代・買付けの試飲会場にて |
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