株式会社ことこと屋 代表取締役 都外川景司氏 | |
生年月日 | 1960年8月22日 |
プロフィール | 福岡県生まれ。大学卒業後、スポーツ用品店に就職。更に制御センサの大手、株式会社キーエンスに転職。ビジネスマンとして頭角を現す。ところが、39歳。突然、退職届を出し、起業に踏み切る。それが「ことこと屋」の始まり。超人気メニュー「トロトロオムライス」が誕生したのは、オープンして2年後のことである。 |
主な業態 | 「洋食&CAFEのことこと屋」「KOTOKOTO CAFE」「ことことキッチン 」「珈琲屋 桜さくら」他 |
企業HP | http://www.kotokoto-cafe.com/ |
2015年5月16日、17日東京スカイツリータウンで開催された、オムライス日本一を決める「カゴメ オムライススタジアム」。
事前のWEB投票と当日の投票で争われたなかで、東海地区代表の「ことこと屋」が見事、グランプリを獲得した。2日間で、つくったオムライスの数は3000食にのぼるというから驚かされる。スタッフの息の合った見事なオペレーションも高く評価された理由の一つではないだろうか。
では、今回は、その「カゴメ オムライススタジアム」で見事優勝された「ことこと屋」の創業者、都外川景司氏に登場いただこう。
都外川氏は、1960年(昭和35年)、福岡県に生まれている。男兄弟の次男坊で、料理が好きな少年だったそうである。
「小学校の時、お菓子をつくるのが好きだったんです。自宅でクッキーやケーキをつくっては、翌日学校に持っていくんです」。
評判は良かったんだろうか。
「そうですね。みんな『おいしい』って言ってくれました。そう言われるのが嬉しくって、つくっていたのかもしれませんね(笑)」。
「母から教わったわけじゃなく、本とかですね。レシピをみて、ま、意味のわからないことは母に聞いていたかもしれませんが…」。
少年がだれに教わることもなく、本を片手に、クッキーやケーキづくりに取り組む。微笑ましくもあるし、いまの都外川氏の人生を示唆しているようにも思える話である。
大学卒業まで話が飛ぶ。中京大学を卒業した都外川氏は、岐阜県にあるスポーツ用品店に入社する。
「大学じゃなく『専門学校に』という思いもあったんですが、通っていた高校が進学校だったもんですから、国立に行く生徒も多く、全員、大学へという風潮だったんです。そういう風潮に流されて、私も大学生になりました(笑)」。
飲食店との接点はどうだったんだろう。
「高校の時、1ヵ月くらい焼肉店でバイトしていました。大学では4年になって1年間、カフェのバイトを経験。飲食も悪くないなと思っていました」。
それでも当時、大学を出て飲食を選択する人はまずいなかった。都外川氏もとにかく一般企業ということで、岐阜県にあるスポーツ用品店に就職したのである。
「テニス用品を担当していたんですが、なかなか売れない。それで、ちょっと頭をつかって、実験的にですが年配向けの品揃えを強化したんです」。
「すると客がドンドン増えていったんです。そりゃ、そうです。ウエスト80cmのスコートなんて置いている店はほかにはない。狙い通り、口コミでうちの店のことが広がっていったんです。この時ですね、仕事でも『喜んでいただけることが楽しい』と心から思えるようになったのは」。
しかし、退職。「大卒、50人いて全員辞めてしまったような、当時でいえば斜陽産業だったんでしょうね。とにかく、給料も低くって生活できなかった(笑)。背に腹は代えられず転職していった人もいたんじゃないでしょうか」。
都外川氏は、「ビジネス」という言葉を良く使用する。ビジネスとして通用するかどうか。成立するかどうか。そういう観点を植え付けられたのは、次の会社、株式会社キーエンスでの日々だった。。
「案外、いい成績だったんですよ。国際会議場になるような会場の檀上にも何回も上げていただきました。当時、私は、工場を自動化するための計測機器などを販売していました。お客様のご要望に一つひとつ対応していくというのが、当時、私が編み出したオリジナルな方法です。すべてに対応できた時には、当然、受注もいただけます(笑)」。
なるほど、シンプルだけど、奥が深い気もする。
「当時はね。どうすれば、喜んでもらえるのか。売れない時には、どうすれば売れるのか。ということをつねに考えていました」。
「頭を使っていた」と表現する。この頭を使うことが、いまにつながっている。ところで、キーエンスといえば、いうまでもなく制御センサのガリバー企業だ。
そうした有名な企業で認められ、給料も良かったにも関わらず、39歳になった都外川氏は、ある日、あっさり退職を決意する。
「マンションを購入したんです。それで自宅付近を散歩していたら、偶然、空き物件をみつけたんですね」。
まさかと思いつつ話を聞いていると、思わず、「ハァ?」と感嘆詞に似たため息がでた。
「不動産屋に行って、確認を済ませ、翌日ですね。辞表を出しました」。
人生、たしかに「いきおい」は大事である。しかし、あまりに加速度がつき過ぎてはいないか。
そもそも飲食の経験といっても大学の4年生の1年、しかもバイトである。
「でも、まぁ、もう40歳だったし、そろそろ人生考えるでしょ。で、好きなことをしようとひらめいたわけです」。
あとは電光石火というわけか。
「サラリーマン時代。料理をする時間はなかったですが、好きだったもんですから、NHKの料理番組はビデオに撮っていました。このビデオと料理本があればなんとかなるだろうと、確信めいたものがあったんです」。
で、どうだったんだろう?
「ハイ、ご想像通り、さっぱりだめでした(笑)」。
「だいたい40歳で修業というのは無理でしょ。どこも雇ってくれない。だから、修業もなし。レシピのみを頼りに、妻と2人で始めたんですが、予想外になんともならなかったんですね。一品だけならなんとかなった。しかし、そういうわけにはいきませんよね。素人だから、たくさんつくれないんです。店にもお金をかけていましたから、最初の1ヵ月は、フンイキだけで行列ができていたんです。でも2ヵ月目からは、ガラガラ(笑)。1日2万円の時もありました」。
「遅いし、まずい」。客から観ればそうなる。店から観れば、客が多くなる→料理が遅れる→急いでつくる→クオリティも下がる、という悪循環に陥ったわけだ。
「喜んでいただくのが、天職だ」と安定した職を投げ捨て、スタートしたにも関わらず、「客」は見事にそっぽを向いた。当時の月商は24席の店で、65万円にいくかどうかだったそうである。
「オープンから2年ですね。あのオムライスができたのは…」。
「あのオムライス」と都外川氏がいうのは、いうまでもなく超人気メニューの「トロトロオムライス」である。
今回、グランプリを受賞した「オムハヤチーズ」のむろん原型でもある。
「基本、1人でしょ。オムライスをレシピ通り巻いてつくると時間がかかってしまうんです。で、いろいろ研究を重ねて…、つまり手っ取り早くしたのが、トロトロオムライスの始まりなんです(笑)」。
その手っ取り早いメニューが人気化する。月商は650万円にもなった。オープン当時の数字と比較すれば、月商が10倍となったことになる。一つのメニューがいかに客の心をとらえたか、の証明だろう。
それからも人気は衰えず、店舗数も拡大し、今現在では12店舗になる。しかし、もうそろそろ出店は打ち止めらしい。「15店舗までですね。それからはクオリティーアップに注力します」。
クオリティーアップとは、どうやら人材育成でもあるようだ。
「いまは出店に関しても、交渉ごとはすべて私がしているんです。次世代の人間を育て、そういうこともできるようにしていきたいんです。そうしなければ、次がないですから」。
「次世代」と都外川氏はいう。もうそういうことを意識する年代なのだろうか。まだ、55歳でもある。
「あと5年くらいやって、もう一回、ジブンの好きな店をやりたいと思っているんです。だから、ね」と笑う。
一杯のオムライスから始まった物語りは、どうやら、2つに枝分かれていくようだ。1つは、次世代の人間に引き継がれる「ことこと屋」の物語りとして。そして、もう1つは、創業者都外川氏の、もう一つ物語りとして。
その、いずれの物語りも興味深い。いずれも日本一のオムライスの、物語りでもあるからだ。
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