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第496回 株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏
update 15/08/18
株式会社ハブ
太田 剛氏
株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏
生年月日 1961年1月4日
プロフィール 神戸市に生まれる。3人兄弟の次男。父は公務員一筋。大阪経済大学卒業後、ダイエーの子会社である株式会社ハブ(旧)に就職。公務員と民間という違いはあるが、父同様、「ハブ」一筋。中内功氏(株式会社ダイエー創業者)をはじめ様々な人から薫風を受け、2009年、現在の株式会社ハブの代表取締役社長に就任する。
主なブランド 「HUB」「82」
企業HP http://www.pub-hub.co.jp/

1961年生まれ。

父は公務員一筋。息子2人にもできれば「公務員になって欲しい」と思われていたそうだ。そんな息子の1人、次男の太田氏が生まれたのは1961年のことである。
「父は公務員として、バスの整備士を務めていました。私も何度か事務所におじゃまして、卓球台を拝借してこっそり卓球を楽しんだりしていました」。今思えば、当時は高度成長期で日本人は「エコノミックアニマル」と揶揄されたりもしていたが、おおらかな時代でもあったようだ。
「兄は、両親の自慢の息子でした。小学校から野球をはじめエースで4番。当時、甲子園出場の常連校だった『東洋大姫路』に進みます。う〜ん。比較されたわけではありませんが、3つしか違わないわけですからコンプレックスみたいなのはたしかにありました。私も、小学校から野球を始めたんですが、ぜんぜんダメでしたし(笑)」。
今は私学で校長をされているという太田氏の兄は、甲子園に出場するために「東洋大姫路」に進学されたが、「兄の代だけ、『報徳学園』に負けてしまった。だから、甲子園には行けてないんです」ということだ。
兄を追いかけ、野球を始めた太田氏だが、野球には見切りをつけ、中学で陸上に転向する。長距離ランナーだ。
「それで、私は兄とは逆に『報徳学園』に進むんです。当時、駅伝で言えばナンバー1の高校です。実際、私の卒業後、全国3連覇しています。今では、県立の『西脇工業』が有名ですが、当時は、『報徳』と『西脇』が兵庫県で交互に優勝し、そのまま全国を制覇していました。兵庫県で優勝するということは、全国大会で優勝するのとある意味、同じだったんです。練習も、戦いも、そりゃ過酷でした」。

痛恨の一敗。

「30年間くらいね、頭から離れなかったことがあるんです」と太田氏は当時のことをふり返る。「私が3年生の時です。駅伝はレギュラーが7人、補欠が3人の計10人で試合に臨みます。3年まで続けたのは4人で、私もそのうちの1人だったんですが、最後の大会で私はレギュラーから外されてしまったんです。代わりに1年生の名が呼ばれました」。
3年、最後の大会。実は、大会前の選考会で、その1年生に数秒の差をつけられていた。
「言い訳になりますが、その時は調子が悪くてスピードがのらなかったんです。それまでのタイムなら私のほうが速かった。もちろん、負けたこともなかった。しかも、相手は1年でしょ。悔しかった。思っちゃいけないけれど『怪我しろ』って」。
痛恨の一敗。しかし、この一敗が、太田氏を奮い立たせる起爆剤ともなった。大学で駅伝をつづけたのも、この一敗があったからである。

大阪経済大学、陸上部。

だいたい長距離選手の練習とはどんなものかと思って、聞いてみた。「午前に30キロ、午後に30キロ。もちろん、毎日じゃないですが…」と太田氏はさらりと答える。聞けば高校時代で20キロだったそうだ。
「当時、『大阪経済大学』っていうのは、全国に出場できるかどうかのギリギリのレベルでした。関西では3番目くらいには位置づけられていたんです。私が2年、3年、4年の時に3年連続で、全日本駅伝大会に出場することができました」。
高校時代のリベンジである。
太田氏は、とにかく走りつづけた。
「中学の時からそうですが、とにかく走ること一筋です。雨の日も、風の日も。そりゃ、母親には感謝です。朝早くから起きて、ずっと弁当つくってくれて。でも、それだけに高校3年の時の最後の大会は悔しくて、応援してくれた父や母にも申し訳なかったんです。でも、それがあったから大学でもつづけられたんだと思います」。
悔しさは、バネになった。
余談になるが、太田氏がOB会に初めて参加したのは、卒業して26年経ったある日のことだ。
「監督が第55回全国高校駅伝を最後に退任されるのを新聞で読んで、なぜか、どうしても会いたくなったんです。それで、監督に『なんであの時、ぼくじゃなかったんですか?』とたずねてみたんです。そうしたら『勝負に負けたからや』と一言。そう、単純なことだったんです。『負けたから』、そうあっけらかんと言われて、26年間モヤモヤしていたのが、はじめて解消されました」。
26年と言えば、太田氏が44歳の話である。

就職先、「HUB」の話。

さて、太田氏と「HUB」の話に進めよう。「私が『HUB』と出会ったのは、就職活動中のことでした」。仲間と連れ立って向かった神戸・三宮の「HUB」1号店。
「衝撃的でしたね。三宮ということもあって、半分くらいのお客様が外国人でした。ビールが一杯180円。セルフサービスのキャッシュ・オン・デリバリー(COD)です」。
「その時はダイエーが親会社として経営しているとは知らなかったんですが…。大学時代も唯一、ダイエーの倉庫でバイトをしていたもんですから、そういう縁だったのかもしれません。とにかく、後日、会社説明会があるのをみつけて、参加します。創業したのが、1980年で、私が説明会に参加したのは1982年。バリバリの創業期です。スタッフも正社員は、まだ13名しかいなかった。目標は10年1000店舗。こりゃ、私にもチャンスがあるんじゃないか、と。それに、神戸に住む私たちにとって、ダイエーの創業者である中内さんは神様みたいな人でしたから」。
その神様と直接、語り合ったのは太田氏が「HUB」に就職して、20年ちかく経った頃だった。とにかく「HUB」でも、一筋。「キャッシュ・オン・デリバリーが一般的ではなかった頃には、財布を投げられたこともある」という。創業当時の熱気を知る数少ないスタッフでもあったことだろう。その太田氏が、神様と話した。
「むろん、それまでもお会いはしていました。中内さんは『HUB』のことが大好きで、店にもちょくちょく来られていましたから。ただ、直接、本音の話をぶつけるチャンスはなかった。いつもお付の人がいらっしゃいましたし」。
「あれは、私が浅草の店にいた時です。はじめて、お1人でフラリとおいでになったんです。それで『帰るわ』と言って席を立たれたんですが、誰もいない。『運転手は?』と聞くと、歩いて100メートルくらい先に止めてあるというんです。これは、チャンスだと思いまして。車までお送りするというのを口実に、何故、英国パブなのか、を伺ったんです。そうしたら、パブの歴史を語られ、日本の居酒屋との違いも含め、中内さんが考えるパブ文化についても語っていただけました」。
何故、英国パブなのかの、明確な答えが、尊敬する経営者の口から放たれた。初めて、神様の熱に触れた気がした。
「中内さんが好きなイギリスのパブは、サラリーマンが会社帰りに、1杯か2杯のお酒を飲んで、1日をリセットする店として利用されているんです。居酒屋のように『食べながら、飲む』じゃなくて、『飲みながら、会話する』。それが正しいパブの利用方法です。会話はあるが、愚痴はない(笑)。潤滑油として、暮らしを豊かにする。そういう場であり、文化なんです」。「だから、最後にこう言われました。『食事メニューには手をだすなよ』って。これはむろん飲食店にとっては、とんでもない決断です。それを貫くには、売上を捨てることにほかならないからです。しかし、中内さんの覚悟は、まさにその一言に凝縮されていたと思うんです」。
英国パブを日本に。それを太田氏は、「中内さんの遺言」だと語っている。

ダイエーから加ト吉、そしてロイヤルホールディングスへ。

「夕食の時間帯である7〜9時までは、捨てているんです」と太田氏は笑う。食事メニューがないから、食事の時間帯に客はこない。いまでも中内氏の言いつけを守っている。「だって、これで食事をだせば、洋風居酒屋とかわらなくなっちゃうでしょ」。
「しかし、経営的には…」と言いかけたが、経営的な側面から「HUB」をみれば、親会社が3社かわっていることからも波乱万丈だったことが伺える。だから口をつぐんだ。太田氏は、そのなかで生き残ってきたのだ。
流通業界ナンバー1となり、日本の盟主ともなった「中内ダイエー」だが、バブル崩壊とともにそれまでの拡大路線が、事業に影を落とすようになる。スーパーだけではない。フード事業においても苦しい展開が強いられた。「ビッグボーイ」「ウェンディ―ズ」「フォルクス」しかりである。
「HUB」もまた、一度は、清算される。「加ト吉」、「ロイヤルHD」と親会社や大株主がかわるなか、「HUB」も、太田氏も生き残ってきたのである。しかも、純度を高めながら、である。
「親会社等がかわりましたが、私は『HUB』は中内さんの店だと言いつづけてきました。中内さんの遺伝子がすべてです。幸い、加ト吉さんも、ロイヤルさんも、そういう私たちの思いを汲んでくだいました。もっとも、『HUB』も、時代に流されたこともあるんです。しかし、1995年、ダイエーから来た金鹿研一が社長に就任し、一変します。ただ、赴任された当時は、『スーパーをやっていた人間に我々の事業がわかるか!』と、罵っていた気もします(笑)」。
しかし、この金鹿研一氏は太田氏にとって、中内氏同様、人生の師ともなる。
「面談で、『これから先HUBをどうしたいんだ?』って聞かれたんです。一瞬、言葉に詰まりました。当時は、それほど事業を見失っていたんです」。
かろうじて、「パブ文化を日本に広めたい」と太田氏は答えたが、では「本場のパブを観たことがあるのか?」という質問が飛んできた。
何度も想像はしたが、観たことなどない。だいいち、観に行こうと決意しても、そもそも、休みもまともに取れないのだ。そう反論しかけた矢先、「この際、英国に観に行ってきてはどうだ」と金鹿氏が言った。

英国パブの文化を日本に。

「それから英国に行き10日間かけ、英国のパブを、そうですね、100軒くらいは観て回りました」。
英国人たちが、店のあちこちで、お酒片手に語り合っている。行く先々で、屈託のない笑い声が聞こえる。
「これが中内さんが言っていた文化なんだと、私も感銘を受けました。パブがなかったら、英国はつまらない国だなって真剣に思ったほどです(笑)」。
帰国して1年かけ、すべてを再構築した。1年かけ、今の原型をつくったことになる。コンセプトは、いうまでもなく中内氏の意志の具現化である。
「ハブ」が株式を上場したのは、それから10年ちかくたった2006年である。初日から買いが殺到し、値がつかない。翌日になってようやく初値がついたそうだ。
それはともかく、「ハブ」は、「英国パブ文化」を広めるというミッションを担いながら、いまも躍進をつづけている。ただし、「急激な店舗拡大はしない」と太田氏は明言している。氏が代表取締役に就任したのは、2009年のことだ。
太田氏同様、社員たちも英国を訪れているのだろうか? と水を向けてみた。「うちは内定者を連れて行っていますから。そうですね、98%の人間は向こうで英国パブを体験しているはずです」とさらりという。莫大な経費がかかるのに、と思ってしまったが、太田氏にとって、それは当然のことなのだ。そうしないと「文化」の意味がわからない。「文化の意味がわからなければ、中内さんの意志を継げません。そうすると、うちは、うちでなくなってしまうんです」。業績のいいうちに、パブ以外の業態をだしておいたほうがいい、という先輩経営者もいるそうだ。しかし、太田氏は、いっさい心を動かさない。

とにかく、「家へ帰れ」。

最後に蛇足かもしれないが、ユニークな制度についてもお伝えしておこうと思う。一口に言えば「家へ帰れ。」制度である。
「私たちは1時まで営業しています。昔は3時くらいまで営業していました。そういう時間に仕事が終わっても『帰る手段』がないわけです。それで、始発までぼっ〜としているのがあたり前だったんです。でも、金鹿さんが赴任され、『そりゃおかしい』と。全員にタクシー代を支給し始めたんです」。
もちろん、終電がなくなったスタッフだけが対象だ。しかし、正社員だけではなくアルバイトにも全員支給される。
「とにかく、『家へ帰れ。』です」と太田氏。経費はかかるが、元気な顔で出勤するようになったスタッフの笑顔には、それ以上の価値がある。
休みも多い。「年間休日は120日くらい」というから、一般企業と比較してもそん色ない。「夏休みは9連休で、冬は5連休。これなら、海外にも行けるでしょ」と太田氏は笑う。がむしゃらに働きつづけた時代とは違うのだと言いたそうだ。
ともかく、紳士の国が生んだ「英国パブ」とその文化。
その文化は会社のなかでもまた息づき始めているのかもしれない。
「私の代だけじゃ無理だと思っています。文化を根付かせるには時間がかかりますから」。ゆっくり、じっくり。焦らないのも、英国風だと思った。

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