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第499回 株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏
update 15/09/08
株式会社メティウスフーズ
松澤 俊氏
株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏
生年月日 1972年3月28日
プロフィール 東京都杉並区生まれ。中学卒業後、「ホテル龍名館東京」に就職。洋食部に配属され、料理の腕を磨く。21歳。「龍名館」を退職し、ルクセンブルク大公国に1年間滞在。イタリア料理との出会いは、その時。帰国後、イタリア料理店を渡り歩くなか、ピッツア専門店を経営する株式会社「メティウスフーズ」に興味を持ち、入社。創業社長、故岡本英氏(ジャスダックに上場する株式会社「ラ・アトレ」創業者でもある)と出会い、人生が急角度で変化する。2001年9月、同社、社長に就任。
主な業態 「ピッツェリアドォーロ」「エノテカドォーロ」他
企業HP http://www.metius-foods.com/

人生を開くカギとなった、「ルクセンブルク」。

「ルクセンブルク」は通称で、ただしくは「ルクセンブルク大公国」という。ドイツとフランス、ベルギに囲まれた小国だ。面積は神奈川県と同規模にすぎず、人口も10分の1に満たない。とはいえ、ヨーロッパのなかでも経済的に恵まれた国で、豊かさは「世界最高水準」と言われているそうだ。
「ルクセンブルクは、移民の国なんだそうです。なかでもドイツ人が多くを占めていましたので、料理はドイツ料理。そう、ソーセージとかです(笑)」。
今回、ご登場いただく松澤 俊氏が、単身「ルクセンブルク」に渡ったのは、氏がまだ21歳の時である。
「母や、世話になったチーフに背中を押された」とのことだが、21歳の青年にとっては、大きな決断である。
滞在はわずか1年だったが、この1年が松澤氏の人生を開く一つのカギになったことは疑いない事実である。
ところで、松澤氏が21と言えば1993年のことである。バブルが崩壊し、日本経済が長いトンネルの入り口にたたずんでいた時である。

「チューバ」を吹きながら、独立を考えた少年時代。

松澤氏が、生まれたのは1972年3月28日。
「生まれは、東京都の杉並区ですが、北海道の『さまに』町でも暮らしていました」と松澤氏。「さまに」は漢字で「様似」と書くそうだ。初めて聞く地名だったので、調べてみると、「日高本線」の終着駅が「様似」駅だった。北海道の「襟裳岬」にある町と言えばイメージが湧くだろうか。
中学生になった松澤氏は、様似ではなく、東京の多摩にいた。そして、「チューバ」を吹いていた。
「チューバ」は、トランペットを大型にしたような金管楽器である。金管楽器のなかでは、もっとも大きいそうだ。この「チューバ」を少年、松澤は、吹いた。チューバ独特の低音が、流れ出す。
「中学生の頃は、吹奏楽に没頭しました。演奏していたのは、チューバ。そう、あのでかい奴です(笑)」。「吹奏楽に没頭した」と松澤氏は言うが、「時折、サッカー部にも顔をだしていた」そうだ。たんなる「気まぐれ」かもしれないが、「音楽」と「スポーツ」の両方に才能があったのは確かである、
ちなみに、松澤氏は中学を卒業後、就職する。そのあたりの理由を知りたくて、「独立志向はその頃からですか?」と質問してみた。中学時代から「独立」を具体的にイメージしていたという経営者とも少なからずお会いしてきたからだ。
「そうですね。私も中学くらいにはもう、『独立しよう』と決めていました。だから、中学を卒業してすぐにはたらくつもりだったんです」。
両親に反対されたそうだが、松澤氏の意志は固かった。中学卒業と同時にはたらき始める。むろん、道はそれほど多くない。飲食は、独立志向の強い松澤氏にとって、格好の選択肢だったはずだ。
就職先は、東京駅八重洲口にある「ホテル龍名館東京」。ちなみに、今も健在で、ミシュランガイドに4年連続(2012 年〜2015 年)で掲載されている。外国人にも人気のホテルだという。

「ホテル龍名館東京」から「ルクセンブルク」へ。

「当時、いくつか内定はもらっていたんですが、お断りして、『ホテル龍名館』でお世話になろうと決めました。面接官が料理部門のチーフで、それが決め手になりました。同期は3人。中卒は、むろん私1人。私がもちろん最年少です(笑)」。
中卒。まだ15歳である。しかし、社会はそうはみてくれない。
「そうですね。中卒であろうが、まだ子どもだろうが、就職すれば、ほかの人とおなじ扱いです。ただし、素直な性格が幸いしてか、結構、可愛がっていただけました」。
仕事は朝7時に始まり、深夜1時にまで及んだそうだ。それでも月収は10万にも満たなかった。住み込みでなければやっていけない金額だろう。
「当時は、どこもこんなもんでしょ。比較するだけの知識もなかったし。それに、貯まりはしなかったですが、お金が足りないということもなかった。そもそも、暇もないし、お金を使った遊びなんて、知らないわけですから」。
松澤氏は、「ホテル龍名館東京」で6年間、勤務している。下地のすべてがここでつくられた。6年後、21歳になった松澤氏は、冒頭で書いた「ルクセンブルク」に渡るのだが、そのチャンスを拾ったのも、このホテルのなかだった。
「『龍名館』に勤めていた時ですね。同僚から、『オレの身内が、向こうで日本料理店を経営していて、料理人を探しているから、どうだ?』と誘われたんです。ホテルがイヤだったわけじゃないし、仕事もキライだったわけじゃない。そもそも、海外なんて頭がなかった。でも、母に相談してみたら、めずらしく強い口調で『行きなさい』っていうんです。普段、そういう言い方はしない人なんで、これは何か意味があるのかなと思って。それで、ルクセンブルク行を決意したんです」。
「龍名館」に入社した時、面接官として出会い、その後も世話になったチーフも背中を押してくれた。
「もっとも、同僚の話では『経営している』だったんですが、行ってみたら経営者ではなく、『店長』だったんですが(笑)」。
海の向こう。「ルクセンブルク」での生活がスタートする。

イタリアで食べた、パスタの味。

人気店だった。「ルクセンブルク」で勤務した料理店のことだ。
「日本料理店です。お客様は、日本人だけじゃなく、向こうの人も少なくなかったですね。経済的にも豊かな国ですから、『食』に関心がある方が多かったのでしょう」。
アメリカもそうだが、ヨーロッパ諸国も「チップ」の国である。その点も伺ってみた。「そうですね。チップはスタッフにとって貴重な収入源なんです。私もチップが主な収入源でした(笑)」。
1日3000円〜4000円のチップをいただけたそうだ。しかし、それが主な収入源とは、心もとなくなかったのだろうか。
「だいたい、そういう薄給には慣れています(笑)。ちゃんと寝るところはあったし、食事にもお金がかからなかったから、別段、問題はありませんした」。
「おかしかったのは、日本にいた時は洋食部門にいたでしょ。だから、外国の料理をつくっていたわけです。で、こちらに来てからは、日本料理でしょ。向こうの人からすればやはり外国の料理です。食だけではなく、異国の文化を、料理を通して紹介する。そういうミッションを、いつのまにか私が担っていたんです」。
「にもかかわらず、言葉はまったくできなかった。日本人は、店長と私の2人だけ。あとはフィリピン人とかね、そういう人たちだったんです。結局、1年いて、相手にギリギリ伝わるかどうかくらいまでしか上達しませんでした(笑)」。 すでに書いた通り、「ルクセンブルク」での料理は主に、ドイツ料理である。
「ドイツ料理はどうも旨いとは思わなかった。でも、イタリアに寄った際に、食べた一皿のパスタ、アレにすっかり参ってしまって。当時、日本にもスパゲティはありましたよ。でも、日本のとは、ぜんぜん違ったんです」。

ピッツア専門店にひかれて。

「初めて食べた本国イタリア料理です。日本で食べたのとは、まったく違いました」。一口食べ、「店をつくるなら、イタリア料理で」と考えたほどの衝撃だったらしい。
ともあれ、そういった衝撃も受けつつ、松澤氏の旅は終わる。
松澤氏、22歳の時だった。
母やチーフに背中を押されてから1年しか経っていなかったが、松澤氏にとっては、様々な経験を積んだ、長い、長い1年だったかもしれない。
「日本にもどってからは、起業に向けまっしぐらです。料理はイタリアンと決めていましたから、都内にある色々なイタリア料理店を渡り歩きました。『メティウスフーズ』に出会ったのも、その頃で、同社はめずらしい『ピッツア専門店』だったんです」。
「当時、ピッツア専門店は日本に何店だったと思います? わずか3店です(笑)。興味がそそられ就職しました。最初は、2店舗目の料理長という肩書きでした」。
今の松澤氏からは、料理人や職人というより敏腕な経営者という印象を受ける。しかし、入社した時はイタリア料理を追う根っからの料理人だったに違いない。その真摯な姿が経営者の岡本英氏の目に止まったのではないだろうか。
「岡本英社長は、経営されていた不動産会社をジャスダックに上場するまで育てられた優秀な社長さんです。当時、『メティウスフーズ』はまだなくって、その会社の飲食部門だったんです」。
「すべてが新鮮でした。社長といっしょになってオープンのチラシをつくったのもいい思い出です。社長と私は、10歳違うだけなんですが、私にとっては兄のような存在でした」。
いつしか岡本氏の行くところ、行くところに、松澤氏も同行した。
「海外にも行きましたし、ね。10歳違いですから、実兄とそうかわらないわけですが。端からみても、兄弟みたいな感じだったと思いますよ。それほど、社長はできる人間だったんです」。
むろん、岡本氏の本業は不動産事業である。本業の事業が拡大すればするほどイタリア料理店の運営は、腹心の部下でもある松澤氏に託されていくことになる。
「やがて、飲食部門を切り離して『メティウスフーズ』を設立します。設立当時から運営はすべて私に任せてくださいました」。
ちなみに、岡本氏の会社、株式会社ラ・アトレは、設立15年目の2006年6月に大証ヘラクレスに上場(現在はジャスダック上場)する。
松澤氏は、岡本氏のことを「知的で情熱的な人」と表現する。上場した会社を部下に任せ、大学院に進むなど、その生き様も松澤氏を魅了したに違いない。

いつの日か、株式を上場する。

公私ともに深くかかわった岡本氏が、帰らぬ人となった。
「生前、増資の話をいただきました。私の持ち株が50%を超えるように配慮いただいたのだと思います」。
岡本氏は次の次を見通されていたのだろう。
「社長は私に『メティウスフーズを上場させてくれ』という言葉を残されています。いまはまだその段階ではありませんが、いつの日か社長の恩に報いるためにも、上場しようと思っています」。
松澤氏は、そう力強く断言した。

以下は、このインタビューのために直接、松澤氏が書かれた文章に一部である。原文のまま掲載する。

≪ビジョン≫
「飲食から企業へ」組織や思考、仕組みなど改革をし、社会への役割を担える会社に。そして多様化する時代に対応した多業態ポートフォリオで50億を目指す。

≪人材に対する考え(教育・評価・風土)≫
レストラン業としてのソムリエや専門技術教育や資格支援を行うと同時に、セオリー実践を重視した経営を通じてビジネススキルの向上を実感して頂く。企業と人間の相互関係を中心とした理解を深め自分(人)の意義と役割を高めて自己実現(満足)につなげてほしい。しかしながら、勤続10年以上のスタッフも多く在籍するファミリー的側面も持つ。

≪会社を支える人材に対してどのような育成をしているのか≫
・主に自身で考える制度と教育(課題と自己統制による目標管理)、バックアップ(フォロー)
・自尊心、共同体感覚の促進
・外部による社内研修及び社外研修

≪どんな人材に期待しているのか、またどのような人材が活躍出来るのか≫
同じ目的を持ち集団維持に協力できる全ての人、またロワーマネジャーからトップマネジャーのリーダーまで。
※「すべては人の上に成り立つ」、「従業員と家族の幸せ」

≪企業理念≫
『食』は人間にとって幸せの中の一つの選択肢と考えております。様々な時代の中で「レストラン(食)」を通じ少しでもお客様を中心とする関わる全ての方々の心の中を癒し、社会に貢献することそれが私たちの思う理想のメティウスフーズです。

そして、理念が生まれた背景として次のように語られている。
「自身が人生を通し恩恵を受けて来た外食産業(社会)の全てに対して貢献と奉仕をしたいという思いから」。

この思いは、松澤氏が父と慕う、岡本氏に捧げる言葉のようにも聞こえた。

思い出のアルバム
 
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