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第502回 株式会社一歩一歩 代表取締役 大谷順一氏
update 15/10/06
株式会社一歩一歩
大谷順一氏
株式会社一歩一歩 代表取締役 大谷順一氏
生年月日 1974年3月24日
プロフィール 東京葛飾区の亀有で生まれる。母の家系は商売人ばかり。大谷も触発され、子どもの頃から社長になろうと考えていた。16歳から親戚の八百屋でアルバイトを開始。20歳で飲食業に入り、懐石料理店で修業を積み、転職。23歳で料理長に就任する。手作りにこだわることで800万円から1200万円まで月商をアップさせ、商売人の実力を証明する。
主な業態 「一歩一歩」「もうひとつの家一歩一歩」「てまえの一歩」「にぎりの一歩」
企業HP http://www.ippoippo.co.jp/

ジャイアン、大谷。

「商店街のみんなに育てられた」と株式会社一歩一歩の大谷社長はいう。団子屋さん、パチンコ店…商店街の店は、たいてい大谷の標的となり、餌食となった。「今でも帰るでしょ。すると、商店街のみんなが『ジャイアン』ってぼくのことを呼ぶんです」。
 友人たちが誘ってもいないのに、大谷の周りにたむろするようになる。外からみれば、大谷がメンバーたちを引き連れているように観えたのだろう。だから、「ジャイアン」。
とにかく、亀有のジャイアンは行為がひどかったそうだ。本人がちゃんと認識しているから救われるが、新築マンションができた時にも、マンション内に秘密基地をつくってしまったという。「商店街のおじさんやおばさんたちに怒られ、怒鳴られてぼくは大きくなった」。言葉のトーンから大谷の感謝の心が伺えた。「父という存在をぼくは知らないんです。ぼくが4才の時にいなくなったから」。大谷にすれば、町のみんなが大谷の保護者が代わりだった。まだ、そういう時代でもあったのだろう。

ブレない、成績。

「まったくブレなかったね」と大谷は笑う。中学3年間の成績のことである。「英語が『1』。それ以外は『2』。3年間、まったくブレなかった(笑)」。成績など本人はまったく意に介していない。母親もそうだったようだ。「母方は、商売家系なんです。だから、親戚の叔父さんたちも学校の勉強なんてできなくていい、という考えかたで、たぶん、うちの母もそうだったんだと思います」。
ともかく、中学になっても自由奔放。ただ、だれかに迷惑をかけるようなタイプではなかったそうである。ともあれ3年間、低空飛行ながら、飛びつづけた。ということは、卒業である。
「周りの奴らが推薦でポツポツ決まっていくんです。でも、ぼくには推薦が全然、こない。先生に文句言ったら、『一つだけ、あるにはある』という返事でした。『なんだ、あるんじゃないか』って喜んだんです。でも、高校名を聞いて、『う〜ん』ってなっちゃった。だって、当時、ここらあたりではもっともヤバイ私学の高校だったからです。しかも、先生がいうには『そこだって、絶対とはいえない』って」。
結局、親戚の叔父さんからも「その高校だけはやめておけ」と待ったがかかり、断念。推薦以外では、進学できっこなかった。
「それで、苦肉の策というか。一計を案じて、ぼくよりできる友人を巻き込んだんです。『いっしょにあの高校を受けようぜ』って。『あいうえお』順でいえば、ちょうどぼくの前」。計画通り、受験会場でも前後になり、見事、合格。「いま思えばおなじ答案が2つあったんですが…。先生たちも目をつぶってくれたんでしょうか(笑)」。
授業の成績は悪かったが、戦略を立てるのは昔からうまかった。

問題児、大谷。

高校には進学したが、もちろん学業に専念する生徒ではなかった。とはいえ、高校生になったジャイアンは、案外真面目に人生を考えていた。「ぼくは16歳から叔父さんの八百屋でバイトを始めています。うちの家系は商売人が多いから、商売人というのが格好いいなと思っていたんです。だから、なるなら、ぼくも商売人いなって社長になろうと決めていたんです」。
だからといって、商売の勉強をする大谷ではない。いきなり無期停学にもなったこともある。
「修学旅行の時の話です。夜行列車で、京都に向かったんですね。酒を持ち込んでいて…。そうヘロヘロになって、女子のところにという話になって。向かっている時に、先生たちと衝突したんです」。
大谷自身は「まったく記憶にない」というが、いきおいで先生を殴ってしまったそうだ。それで無期停学。もっとも退学という話もあったそうだ。
「でも、その時、ぼくが殴った先生が『あいつはいい奴だから、退学は許してやって欲しい』っていってくれたそうなんです」。この時の先生たちとも「今は、飲み友だち」と言って大谷は笑う。飲んだ席で、不思議に思っていたことも聞いてみたことがあったそうだ。
「なんで、ぼくはちゃんと進学も、卒業もできたんですか?」。すると先生たちは大谷を不思議そうにみつめ、「だって、お前。お前が留年したら、こっちがたいへんだろ。とにかく、はやく追い出したかったんだ。お前、そういうオレたちの気持ちわかってなかったんだ?!」と言われたそうである。
もし、大谷が単なる不良だったとしたら、どうだったのだろう。
成績も素行も褒められたものではなかったが、大谷は間違いなく、先生たちの心を捉えていたに違いない。逆にいえば、さすが先生である。人を見抜く力を持っておられると感心もさせられた。

20歳。飲食の道がスタートする。

アルバイトの延長で高校卒業後も八百屋で勤務した。野菜を納品する飲食店の店主たちが可愛がってくれた。紹介で新たな取引先も開拓できた。「仕事はイヤじゃなかったんですが、このままじゃオレ、社長になれないなと思うんです。それで退職しました」。
「退職して、どうするか」と考えた時に、納品先の飲食店が頭に浮かんだ。
「よし、オレも飲食で、社長になってやろう」。これが、大谷、20歳の決断である。まず料理だと思い、いきなり懐石料理の店の門を潜った。
「殴られないのは、休みの日くらい」と大谷は笑う。初日から、殴られ、包丁のツカじゃなく、先で脅かされたこともある。「それでも、全然、辞めようとは思わなかった。怒られても逆に、ありがたくてね。だって、箸の持ち方から食器の片づけまで文句を言ってくるんですよ。でも、ぼくは母親だけで育ったでしょ。甘やかされていたんだね。そういう部分が全然できてなかった。人に対する気づきもなかった。それをすべて、この店の店主が教えてくれたんです。ある意味、父のような存在だったかもしれません。ぼくにとっては」。
ところで、今でも大谷は「飲食は、気づきを教える」という。それは、この時の体験があったからだろう。

23歳の、料理長。

料理人として認められはじめた大谷は、客の吐息が聴こえる距離で仕事をしたいと思うようになる。それで転職。しかし、業界の知識は乏しい。またまた、アッパーな店に転職してしまった。客単価、昼は1000円だったが、夜は1万円である。
「ただし、まったく流行っていなかったんです(笑)。客単1万円の夜で5〜6万円。昼は1万円です」。どうしようもない店に入ってしまったと思ったことだろう。だが、長い目でみれば、それが幸いした。すぐに料理長に抜擢され、店を任されるようになったからだ。
「最初は手作り弁当をやりました。700円です」。すべて手作り。不味いはずがない。これがバタバタと音を立てるように売れて行ったそうだ。「弁当が美味しいでしょ。予約まで入るようになった。それでランチが成功して、夜も満席になっていきました」。結果、昼だけで15万円を売り上げ、夜は30万円にもなった。日商たった6〜7万円だった店が、大谷が入ることで45万円にもなったのである。
 すし職人も入ってきた。大谷は、頭を下げ、魚について教えを乞うた。4年間が過ぎる。店は順調だったし、学べることも少ない環境だったが、大谷は、それでは満足しなかった。
「もっと客との距離を縮めたかったんです。それで、今度は、居酒屋がいいだろうと舵を切ったんです。客単価3500円くらいの創作居酒屋です」。
思い通りの店に転職でき、よし、思ったことだろう。だが、すぐに辞めたくなったという。
「化学調味料だったんです。そりゃ、誤魔化せますよ。でもぼくは『出汁をひいて、はじめて料理に味がでる』と言われて育ってきたわけでしょ。だから…」。
とにかく調味料とオリーブオイルのオンパレード。
 それでも、いったん入店したからにはと頑張った。2ヵ月目、「調理場の責任者になってくれないか」とオーナーから言われた。「それではじめて、良かったら辞めさせてもらっていいですか、って言ったんです。理由も言いました。すると、全部、好きにしていいという返事だったんです」。頼まれるとイヤとは言えない性格である。ただし、出汁一つとっても、すべて昆布からひくこと。それが条件だった。
「この店はもともと月商で800万円くらいはあったんですが、それでも1200万円くらいにアップしました。客は正直だし、良くわかっていらしたんです」。
この事実は、自ら学んできた料理に対する自信ともなった。

ジャイアンの選択。

北千住。大人になったジャイアンのホームグラウンドは、この東京のはずれにある町だ。創作居酒屋では、3年勤務した。「1000万円を超える店があると話題にもなった3年間だった」と大谷は振り返っている。
辞める気はさらさらなかったが、あるオーナーから同様の店をしたいからと申し出があり、大谷が責任者として乗り込むことになった。
 こちらも北千住にある店だった。それから3年後、大谷は独立することになる。株式会社一歩一歩のはじまりだ。
「すべてはお客様の喜びのために」。理念も掲げた。むろん、人に言えぬ苦しみもあったが、ひたすら客のためにという思いで頑張っているうちに、周りの人たちの、大谷をみる目がかわった。「私はいまこの町のことを考えています。町の人たちが、どうすれば楽しい暮らしができるだろうって。そのためにどんな店があればいいんだろうって」。
大谷の「町を想う」思いが一つひとつかたちとなり、店となってきた。客との距離はもちろん、町で暮らすすべての人との距離がなくなっている。
「今度、本格的な寿司屋なんですが、寿司だけじゃなくって、子どもたちが楽しめる料理も出す、親子3代で楽しめる本格的な店をやろうと思っているんです」と大谷は、まるでその店でくつろいでくれているお客様が目の前にいるかのように、語る。
「胃袋の争奪戦は、もう終わりました。これからは価値の争奪戦です。私は、この町で必要とされる店を作っていくことで、価値争奪戦を生き残っていこうと考えているんです」。
有名な商業施設からもオファーがあった。だが、大谷は関心を寄せない。町に息づくことが、すべてであるかのように。大きくなってもジャイアンは、ジャイアン。もしかすれば、ジャイアンは、だれよりも仲間のことを、町のことをいちばん考えている人の名称かもしれない。いずれにせよ、北千住という町で、仲間たちと生きる。これが、大人のジャイアンの選択である。

思い出のアルバム
 
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