有限会社いっとく 代表取締役社長 山根浩揮氏 | |
生年月日 | 1974年9月11日 |
プロフィール | 広島県尾道市生まれ。調理師専門学校卒。19歳で古着の販売事業で起業し、23歳の時、古着屋と飲食店をコラボした店舗をつくる。仲間とともに企業規模、事業エリアを拡大し、現在に至る。「居酒屋甲子園」の4代目理事長。広島県尾道をベースに活動を続ける新進気鋭の経営者である。 |
主な業態 | 「いっとく」「あかぼし」「やまねこカフェ」「ばくだん酒場」「あかぼしかくれ家」他 |
企業HP | http://ittoku-go.com/ |
「コンビニもない時代だった」と「いっとく」の山根氏。コンビニもないその時代に、父親が持ち帰り鮨の店を開いた。広島県尾道市での話である。
「オープンしてすぐに人気になって、行列もできたそうです。うちの家には、酢飯の匂いが漂っていました(笑)」。
兄弟は、兄が1人。1才違いである。「2人一緒に、朝から親父にたたき起こされ、市場に連れて行かれたりしました。そうやって、『中学を出たら鮨屋になれ』と脅かされていたんです(笑)」。
山根氏は、笑いながら言うが、結構、マジメな話でもあったようだ。
「電話に出ても、『いつもお世話になっております。山根でございます』って、ちゃんと言わないと怒られるんです。鮨屋の仕事を継がせるための、躾です」。
「そういうこともあって、私たち兄弟は、自然と『店を継ぐんだ』と思っていました。もっとも私は、次男だから兄の背中をそっと押していたんです。なるべく、こちらにお鉢が回ってこないようにと祈りながら(笑)」。
将来を父親に握られた格好の山根兄弟だったが、それでも2人は活発な少年で、近所では有名な、勉強もスポーツもできる兄弟だったそうだ。
「頭も良かったし、スポーツもできたからね。特に兄貴は足が速くて県大会にも出場しています。習い事もようしよったね。私は8つ掛け持ちしていました。公文が3つ。それにソロバン、ピアノ、習字、水泳、お絵描き教室にも通っていた。兄貴はたしか7つだったから、習い事の数なら兄貴に負けてなかったんやね」。
兄ほどではないが、山根氏本人も足が速く市大会には毎回出場していたそうだ。その快足を活かして、中学からサッカーを始めている。
「結局ね、勉強はせんようになってしまうんですが、それでもヤンチャにもならず、まっとうな学生時代を送れたんはサッカーのおかげやと思っています。親父が亡くなっても、グレんかったしね」。
中学ではキャプテン、高校では副キャプテンを務めた。大学に進学していたら、もう一つ役職をもらっていたかも知れない。
山根氏の父親が亡くなったのは、氏が中学2年生のことである。父が経営していた鮨屋は、母が引き継いだ。
だから、山根氏にとっては、母親が店の代表という時期のほうが長い。
「私が中2の時からおかんが代表です」と言って笑う。
いま、母から譲り受け山根氏自身が3代目の代表となっている。こちらは今回の「有限会社いっとく」とは別の話だが、つながってはいる。
「子どもの頃から、店の跡取りのように躾られてきたこともあって、いつかはと思っていたんですが、母一人でも店は順調でした。だから、甘えていたんでしょう。サッカーは楽しいし、できればもうちょっと遊んでいたかった。それで、大学に進学しようと画策するんです」。
小学校の頃は、優秀な方だったが、サッカーに明け暮れ、勉強とはずいぶん遠ざかっている。学力で勝負しても勝ち目はない。
「だから、日本で偏差値がいちばん低い大学と2番目の大学を、サッカーの推薦もあって受けたんです。しかし、腹が立つことに2つとも不合格です。信じられず、当時は、『この、バカヤロー』と叫んでいました。いま考えると、落としてくれて『ありがとう』なんですがね。そのおかげで道も広がったわけですから」。
山根氏が、料理もしくは飲食事業というものを修業したのは、わずか1年半くらいの話である。しかし、飲食のノウハウはからだに染み付いている。いつか父の店を継ぐという意識でいたからだ。
大学進学をあきらめるしかなかった山根氏は、大阪に向かい、調理師の専門学校の門を叩いた。
飲食店の息子だから、既定路線ではある。しかし、「学校は…」と言って口をつぐむ。どうも、つまらなかったようだ。代わりに、学校から紹介されたアルバイト先の居酒屋。こちらが、山根氏の人生を動かした。
「この前、大阪に行った時に、ふらっと行ってみたんやけど、大手の居酒屋チェーンにかわっとった。ちょっとさみしかったな」と山根氏。
山根氏が修業した店は大阪市の福島の駅近くにあったそうだ。「とにかく、威勢がいいんですよ。ホールで『鶏カラ一丁』って言うでしょ。すると厨房から『あいよ〜』って元気な返事が返ってくる。もう、はたらくのも楽しくてね」と当時を回顧する。
「店にいたのは、たった半年やけど、包丁の使い方も学校じゃなく、こっちで教えてもらいました。私にとっては、こっちがほんとの学校だった。尾道にも、こんな風な、元気な店があったらええな、と思った。この時の思いが、いまうちの店になっているんです」。
「とにかく、学校を卒業して、バイトも辞めて、いったん尾道にもどりました。それで、母親が経営している和食店に入るんです。しかし、長く続かんかった。大好きな女の子にフラれたこともあって、尾道を逃げ出すんです。『こんな腐った町にいてられるか』、なんて叫びながら。まるで、尾崎豊ですよね。背中にギターしょって、バイクで。まぁ、実際にはすぐにもどって、実家で、古着屋を始めるんですが(笑)」。
「母親の店を辞めたから、もう跡取りやなく、ただのフリーター。その当時は、古着が好きでね。だから、古着屋さんの仕事を探していました。でも、ぜんぜんなかった。そうしたら友だちが『山根さん、ジブンでやったらええんや』って教えてくれたんです。『そうか! 目からうろこや!』いうて、さっそく事業を開始したんです。いま考えれば、アドバイスした方も、それを聞いて、素直に始める私も、怖いもの知らずでした」。
資金はなかったが、エネルギーはあった。
「最初の店は、ジブンの部屋です。フリーマーケットで、合計2万円で買ってきた古着と、親の古着、親戚やら友だちやらからももろうて、もちろんジブンの古着も合わせて部屋に飾ってみたんです。すると、まぁ、店みたいに思えなくはないんですね。それで、チラシつくってね。下校の時間狙って高校に行って、配りました」。
山根氏、19歳の話である。
「月8万くらいにしかならなかったけど、たのしかった。私は、お金に困ったことがないんです。月に8万円でも、それで充分やと思えたから」。
チラシのおかげもあって、客はやってきた。「でも、一緒に住んでいたじぃちゃん、ばぁちゃんからクレームが入るんです。だって、しょっちゅうピンポーンって鳴って、『おじゃましま〜す』って言いながら、高校生が階段を上がってくるんです。さすがに、『まずいな』と、それでちゃんと店を出すことにしました」。
いまや居酒屋を代表する経営者の一人である山根氏だが、最初の商売は、飲食とは無縁の古着屋だった。それが、興味深い。1号店は、1995年にオープンした「USED SHOP いっとく」。最初は、長江口にオープンしたが、のちに尾道駅の近くに移転。この移転が、飲食業に再挑戦するきっかけとなった。
もちろん、今度は、経営者としての挑戦である。やるからには、逃げ道もない。
「22歳の時です。古着屋を始めてもう3年経っていました。『USED SHOP いっとく』を駅前に移転させたんですが、1Fと2Fがあって。それで、2Fを古着屋にして、1Fを最初はバーにしようと思っていたんですが、おかんのアドバイスもあって、鉄板焼きのブランドにしたんです。これがいまの『遊食楽酒 いっとく』です」。
威勢のいい店だった。専門学校時代、バイトで通った店を頭に描きつつ、山根氏らしさを加えていった。それはたぶん、「チーム」という発想である。
「私はサッカーという競技自体も好きなんですが、サッカーチームという一つの軍団。そういうカタマリも好きなんです。そのカタマリという発想を店作りにも、会社作りにも取り入れていきました」。
ゴールを奪うための「戦術」の話ではない。プレイヤー個々が存在することによって、チームが成立しているような、いわば、人ありきの戦術。どこに向かうかは、人によって決まる。
教科書通りではない。だから、なんだか、危うい気もするが、おそらくこの発想が「プレイヤーであるスタッフの自発的な行動を促し、喜びを生み出している」のだろう。
「多様性というのをね、いま大事にしようって言うているんです。『多様性のある会社』ですね。人間、いろんな人がいるわけやから、これだ、と会社が決めつけるのはいけない。ジブンでね。やんないと。そういうことは。だから、うちではそれぞれが勝手に好きなことをやっている。それでいい、と思っているんです」。
「もちろん、いざって時には、一つにならんといかん。仲間やからね。一つになるっちゅうんは、心のいちばん底でつながっていないとできないことなんです。うちには、そういうつながりがある。だから、多様性も、生まれる。『チームカフェ』とか、農業も始めたんで、『チーム農業』とか、そういうチームをいくつもつくってやっているわけです。これだけで楽しいですよ」。
スタッフには「自らが源になって動こう」と言っているそうだ。「気づきと環境しか与えてやれない」と山根氏は割り切っている。
「だからね。どうしたらいいんですか? と聞かれても、それは君の宿題だろって。それは、君が『決めなきゃ』っていうんです」。
この目線もいい。山根氏はリーダーだが、そういう意味では異質。お山の大将ではない。だから、みんなが素直に惹かれる。
1号店がオープンしてから、もう20年近くになる。尾道ではちょっと知られた店になっている。会社も、山根氏も、有名だ。
なんと「バイトで13年」というスタッフもいるそうだ。ビックリするのは、離職率の低さ。逆に言えば「絆」の強さである。
スタッフの引越しに合わせて店をつくったり、スタッフのやりたいことに合わせ新業態にチャレンジしたり。それができるのも、絆が強いからではないだろうか。
いま山根氏は、尾道のさまざまなプロジェクトにも参加している。「空き家再生プロジェクト」もその一つで、副代表として参加している。
山根氏らの活動もあって、尾道はいま若者が、住みたい街に生まれ変わりつつあるそうだ。「尾道という街が好きやから」。山根氏も1人のプレイヤーとして、仕事を楽しんでいる。
「したいことは一杯ありますが、そうですね。居酒屋でミシュラン取ろうよって言っているんです。ホンキで、やろうよと。ミシュランです。ホンキで取りに行こうと思えば、いろんなことをしなくちゃいけない。たいへんだけど、おもしろいでしょ。要は、このおもしろさなんです。大事なことは」。
山根氏は、インタビューの冒頭でおもしろいことを言っている。
「恋でしょ、大事なことはね。ドキドキしたり、ウキウキしたりさ。男だったら、女の子かも知れないし、ね。対象は。なんでもいいんです。でも、恋することを忘れちゃあかん。私は生涯現役でいようと思っています」。
恋する対象は、人でもいい、店でもいいのだそうだ。むろん仕事でもいい。たしかに、山根氏の下にいれば、恋することから逃げられないかも知れない。何しろ、仕事にも、会社にも、人にも恋する山根という、お手本が近くにいるからだ。
刺激されないはずがない。もちろん、山根氏は、「これを好きになれ」とは言わない。見つけるのはあくまでジブンである。それが、山根氏という人の、人に対する、スタッフに対するたぶん愛なのだろう。
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