なすび亭 店主 吉岡英尋氏 | |
生年月日 | 1971年2月6日 |
プロフィール | 東京都清瀬市生まれ。料理学校卒業後、静岡・東伊豆の「つるやホテル」に入社。様々な出会いを重ね、修業先の一つひとつで貴重な時を刻む。神奈川・鎌倉の懐石料理「山椒洞」、東京・新宿の日本料理「蝦夷御殿」、銀座のふぐ料理「山田屋」など、名店を渡り歩き足跡を残す。2000年、29歳で東京・恵比寿に「なすび亭」を開店。2012年、旧店舗から移転し30席に増床。メディアにも多数登場。主な著書には『サッと作れる極うま和食』(旭屋出版刊)、『吉岡英尋のだしを使わないおいしい和食』(家の光協会刊)がある。いまや日本を代表する「和食」料理人。「敷居の高い日本料理をもっと気軽に楽しんでもらいたい」という心意気もいい。 |
主な業態 | 「なすび亭」 |
企業HP | http://www.nasubitei.com/ |
2013年12月4日、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録された。
ただし、「和食」とは何かの定義が難しいように思う。
もっとも「日本人の伝統的な食文化」が登録されたのであり、「和食」という料理のカテゴリーが登録されたわけではないそうだ。
ともあれ、ここでは料理のカテゴリーである「和食」についてである。「和食」や「日本料理」と言われるとアッパーな日本料理店を連想してしまいがち。
その意味では、庶民にとって「和食」料理は高嶺の花である。
もちろん、我が家でつくっても「和食」には違いないのだが、レシピ本と格闘しつつ、作った料理を「和食」と呼ぶのは気がひけてしまう。
なぜなら「和食」には厳しい修業を重ねてきた「職人たちの矜持」が詰まっていると思うからだ。少なくとも、現代に至るまで和食、また日本料理が脈々と受け継がれてきたのは、この「職人たちの矜持」があったからだろう。
今回、ご登場いただく「なすび亭」の店主、吉岡英尋氏も、その矜持を胸にした1人。TVにもたびたび登場している「旬」の料理人でもある。
吉岡は1971年2月6日、東京都清瀬市に生まれる。2人兄弟。吉岡が1歳の時に両親が離婚し、弟の吉岡は母の元に引き取られた。
母の兄夫婦、弟夫婦との3世帯同居。総勢11人というから驚き。もっとも吉岡は「従兄弟全員男だったので、仲が良くって楽しかった」と語っている。
夏休みになると、愛媛県の小さな島にある祖父母の別荘に預けられた。テレビはあったが、映るのはNHKのみ。だが、不便とは思わなかった。吉岡らは毎日、海に出かけて泳ぎ、糸を垂らして釣りに興じた。釣った魚は、もちろんその日のうちに食卓に上った。
「だから毎日、魚ばかり食べていた」と吉岡。むろん、旨い。
「外食ですか? 外食は『すかいら〜く』一本でした。入学式のお祝いも『すかいら〜く』(笑)」。
一方、父については、「死んだと言われていた」という。しかし、小学校も高学年になると墓も無いのにおかしいと気づき、離婚したと何となくわかったそう。だが、意識して聞かないようにしていた。子ども心に母への思いやりがあった。
小学校の頃は、弱小少年野球チームに所属。中学になってバスケットボールを始め、高校生では、硬式野球部に入った。ポジションは、セカンド。
「中学の時は、勉強もできてバスケも私なんかより断然巧い従兄弟と比較もされるもんですから、劣等感を抱いていました。勉強やスポーツだけではなく、従兄弟は女の子にもモテたから。それが、高校生になって、自分はダメなほうではなく、「普通」ということに気付いたんです。悪くもなく良くもなくいわゆる「凡人」なんではないかと」。
「当時は、料理人なんて全然頭に無かったです。何をしたいかもわからず、高校卒業の時も、進路をなかなか決められなかった。やりたいこともないくせに、大学進学にも漠然とした抵抗感があって…。それで、大学に行かなくても将来、一流大学に行った人と肩を並べられる仕事がないだろうかって考えたんです」。
「手に職をつけよう」。
技術職が頭に浮かんだ。ただし、技術職といっても、幅は広い。リクルートが発行する雑誌で調理師学校をみつけ、「料理なら頑張れる」「何とかなる」と調理師という技術職に目を向けた。いったん「こうだ」と思うと、決意は揺るぎない。母親の反対を振り切って、新宿にある調理師専門学校に進んだ。
これが、いまや日本料理の若手料理人の代表でもある吉岡の、調理もしくは飲食との出会いだった。
調理師専門学校への進学は、吉岡の人生を決定するターニングポイントとなる。友人とも出会った。同じクラスに「オステリア・ルッカ」のオーナーシェフ桝谷周一郎氏もいた。同氏とは、調理実習で一緒のグループ。野球部にも一緒に入った。卒業制作も、共同で行ったそうだ。
「最後の学生生活と思い、悔いの無いよう毎日遊びまくった1年間だった」と吉岡は振り返っている。卒業を間近に控え、進路を聞かれた時、吉岡は「給料が低くてもいいので、技術がつくところへ」とそう告げたそうだ。
紹介されたのは、静岡にある有名ホテル「つるやホテル」だった。
「東京で皿洗いをするより、静岡で沢山魚を触ったほうがいい、3年も経てば魚も下ろせるようになるから」というのが先生の推薦理由だった。
ホテルでの修業の日々が始まった。
朝、6時には調理場に入った。200人ほどの朝食を準備するためである。数をこなすことはある意味、大きな力となる。
不平を言わず、吉岡は黙々と仕事をこなした。「料理漬けの生活で、実家に帰ることもできなかった」と言っている。3年。思い決めていた月日が過ぎた。
たまたまホテルの客として来られていた、とある店の料理長に紹介され、鎌倉に移ったのはそれからしばらくしてから。
紹介されたのは、「鎌倉山に鬼がいる」とまで言われた店主がいる店だった。鬼の気迫に若い連中はすぐに逃げ出す、というのが定説だった。
それでも吉岡は「お前は3年働いていたが、それは3年間の遅れを取ったと同じこと。本当に技術のあるその店で1年でも働ければ遅れを取り戻せる」と言われ、覚悟を決めて暖簾を潜った。
「やっぱり怖かった。半端なく仕事ができる人で、隙がまったくないんです。私が動く度に怒られていました(笑)」。
1年続けばと言われていたが、残念なことに1年も持たなかった。店主が怖いからではない。些細なことで、当時の2番手と喧嘩してしまったから。
「もう東京に戻るしかないと思ったんですが、とりあえずゴールデンウィークも近かったので、その期間だけどこかで働こうと、『るるぶ』に載っていた温泉宿に電話をしました。一度は断られたのですが、強引に押し掛け、その店の料理長に湯河原のホテルを紹介してもらったんです。そして再度そこから紹介され、結局、熱海の旅館に行くことになりました(笑)」。
流転といえばいいのか、これもまた修業といえばいいのか。もがくように、吉岡の旅は続く。
熱海の旅館で1年働いた吉岡は、ついに東京に戻り、永田町の「瓢亭」や新宿の日本料理「蝦夷御殿」、銀座のふぐ料理「山田屋」で腕を磨いていくことになる。
料理の世界につきものといえば語弊があるかもしれないが、厳しい徒弟制度のなか、理不尽な思いをしたこともあった。
賭け事はしない吉岡が競馬を覚えたのも、先輩の目を気にしてのこと。ただし、いくら徒弟という制度が幅を利かせても、吉岡は料理という一点から目を離すことはなかった。
いっさいの付き合いをリセットし、再出発もしたのも、料理を追及するためである。
吉岡の足跡を辿れば、料理人のひとつの軌跡が見えてくる。
料理人の良し悪しはやはりセンスですか? というこちらの問い掛けに、吉岡は首を振った。
「センスのあるなしということよりも、ちゃんと続けることのほうが大事です」。どの店でも、料理から逃げず真っ直ぐに進んできた吉岡だから言える貴重な一言だ。
ただし、吉岡は「オレは天才だと思っていた」という一言も語っている。独立を前に、ともかくそういうだけの自信が付いていたことの表れでもある。
「独立の前に、ふぐ料理の名店で働きました。ふぐの季節が終わるのを待って、退職し、独立しました」。
2000年、恵比寿に店を構えた。最初から大々的にアピールするつもりはなかった。それでも客は来る、という自信があったからだ。
しかし、「笑っちゃうほど、ですね。1週間に、3組って時もあった。近所の子がバイトに来てくれたんですが、暇すぎて辞めていきました(笑)」。「リピートしてくださるお客様は少なくなかった。そりゃそうですよね。お客様が少ないから、1組、1組のお客様に全力投球です。それでも、なかなか食べていけるだけの売上を上げられませんでした」。
「夫婦2人でやっていたから、なんとかなった、というのが正直なところです」。
当時のコースは、3800円。のれんを潜りやすい価格帯である。
この価格帯はある意味功を奏し、ある意味、なかなか浮上できない原因もつくった。「ようやく、一息つけるようになったのは3ヵ月目ぐらいです。雑誌の取材も受けるようになりました。しかし、思ったほど売上が上がりませんでした。何しろ、3800円ですから」。
そんな時に、子どもを授かった。貴重な働き手である奥様が店に出られなくなる。かわりのスタッフの人件費を払うためにランチをはじめた。
「ランチでいらしてくださったお客様が、ご友人の方を連れてきてくださって、いい具合に軌道に乗り始めました。そして1年半くらいの時に、ふぐを始めました。5800円のコースです。これが、爆発的にヒットしたんです。オープン当初、月に数十万円だった売上が10倍以上になりました」。
ここで目標を見失い、何かやらなくてはと2店舗目を作ってしまった。
「広尾に2店舗目を構えたんです」。2店舗目だけではない。「1店舗目も赤字すれすれで、2店舗目は、大赤字です。もうスタッフも抱えていたから、給料を払わなきゃいけない」。
借金もした。貸してくれる相手は限られている。「当時の記憶は、正直いってないんです」。それほど厳しい状況に置かれていたことの証である。
「そんな時に、『オステリア・ルッカ』の桝谷が、店に来たんです」。桝谷氏とは、すでに述べた通り、専門学校時代の友人である。気の許せる友人である。状況を正直に語った。「その時、桝谷の提案もあって、2店舗目を『こんや』というネーミングでリニューアルしたんです」。店のコンセプトは、若手料理人4人が賄料理を披露する店だった。吉岡に、桝谷、残り2人もいまや知らない人がいないくらいの料理人である。
「ひっそりとやっていく」、もうそんな悠長なことは言っていられなかった。マスコミに、ダイレクトメールを送った。すると、たちまち「こんや」は人気店となった。
「もしあの時、桝谷がやろうと言ってくれなかったら、どうなっていただろうっていまも思います。この店は結局、7年間続けました。閉店する時も、流行ってはいたのですが、みんなの名もあったから、流行っているうちに惜しまれて閉めたほうがいいだろうと判断して、閉店させました。借金も、すべて返済できたというのもきっかけとなりました」。
勢いに乗って、出店した。それが、重石になった。だが7年、惜しまれる店にまでなった。計算せずに出店したことは後悔の一つだが、いまとなれば、再びネットワークを広げ、料理の楽しさを堪能できたのも、この店を出店したからである。
名店にいた時のこと。吉岡は、その時のことを話しながら、ホツリと漏らした言葉がある。
「私たちが精魂を傾けてつくった料理です。にもかかわらず、まったく手がつけられず厨房まで戻ってくることもしばしばありました」。
接待にも使われる名店である。およそ、どのような話が行われていたか、想像がつく。いくら美味しい料理をつくっても食べられなければ意味がない。「美味しい」と食べられてこそ、本望。それが料理人というものだ。
その料理人の喜びを改めて吉岡は実感したのではないか。天才といくらいきがっても、またそう言われたとしても、「美味しいね」と言われた時の喜びにはかなわない、ということも含めて。
「『こんや』を閉店した時ですね。本店を現在の場所に移転しました。ある意味、再出発です。でも、もう揺るぎはしませんでした」。
「なすび亭」。名前を聞く度に、ひょうたんのような、あの独特のユニークな形が、頭に浮かぶ。シャープでもない。いま流に言えばエッジもきいていない。だが、それがいい。どこかで、「格式」というものを笑っているようにも聴こえる。それでいて、料理は気高く、鋭い刃のように客の心に突き刺さる。
「日本料理の敷居を下げたいと思ったから」。吉岡は、命名の理由をそう語っている。その思いこそ、「なすび」に託された心である。
料理人、吉岡。いまやメディアにひっぱりだこである。しかし、それに浮かれるような吉岡ではない。まだまだ吉岡の前には、料理人の道が続いているからである。今後のことを尋ねると、「料理で社会貢献ができる人物になりたい」とのこと。
「和食」。この日本人の食文化を継承すること。これもまた吉岡のいう社会貢献の一つとなるだろう。
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