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第506回 株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏
update 15/11/02
株式会社オー・エム・フードサービス
山本義之氏
株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏
生年月日 1975年9月25日
プロフィール 愛知県名古屋市生まれ。高校時代に、すでに起業を目標に人生を選択。大学には進学せず、建設会社に就職。その後、ディベロッパーを経て、「飲食」での独立を志し、料理店で修業。30歳で、独立。以来、名古屋市内で出店を重ね、2015年8月現在、23店舗を展開する。
主な業態 「しゃなりしゃなり」「しゃなり庵」「鬼ひげ屋」「まとい膳」他
企業HP http://om-food.jp/

目立つことも大好きな少年、山本。

山本氏が生まれたのは、1975年。父は、公務員。兄弟は男ばかりの3人で、山本氏は次男。小さい頃から、運動も勉強も人並み以上だったそうで、「家に近い」という理由だけで受けた高校は、地元でも有数の進学校だった。
「父と母がケンカをしているのをみたことがないんです。父は、温厚で、子どもたちに対しても怒ったことがありません。私は、高校在学中に『起業しよう』『社長になろう』と決めていましたから、大学に進学するつもりはぜんぜんなかったんですが、それに対しても何も言わず、温かく見守ってくれる人でした」。
「どうして、そんなに早く社長になりたかったんですか?」と直裁に聞いてみた。
「音楽をやっていたこともあって、ミュージシャンになろうと思っていたんですが、冷静に考えれば無理だな、と(笑)。でも、人に使われるのはイヤだったんで、残された道は社長しかないと思ったんです」と言って笑う。
目立つことも大好きだった少年の選択は、「社長」と言う職業を選択するに至った。ちなみに、その高校から、就職を希望・選択した生徒は400名中、数名だったそうだ。

100万円超の月収と、小っちゃいお山の大将という危機感。

「最初に就職したのは、建設関係の会社です。就職情報誌で、いちばん給料が良さそうな会社を選びました」。
雑誌には20〜50万円以上という風に書かれていたらしい。面接に行くと「もちろん、最初は20万からだ」と言われた。それで、「50万円になるのはいつ頃かと」聞く。
「資金を貯めるのが目的だから、聞かずにはおれなかったんです。すると、2〜3年くらいと言われ、よし、だったら俺は半年で50万円もらえるようになってやろうと思ったわけです」。
資金を貯めるという目的もあったが、金遣いもハンパではなかった。カマロをキャッシュで買ったのも、この頃。
「有言実行通り、仕事を徹底的に覚え、半年で親方の立場になり、50万円程稼げるようになりました。更に2年後には、独立して仕事を請け負うというかたちで、100万円を超える月も少なくありませんでした」。
たしかに、収入は高かった。20歳で、100万円。天狗になっても可笑しくない。しかし、山本氏は、危機意識を持ち続けていたそうだ。
「このままでは、小っちゃいお山の大将にしかなれない」。

文字通り、人の3倍やり抜いたディベロッパー時代。

名古屋でも有数のディベロパーに転職したのは、もう少しダイナミックな仕事をしたかったからだ。「ディベロッパー」という言葉には、山本氏が求める大きさがあった。
「23歳の頃です。営業という仕事は、やったこともない。だから、一度挑戦だという思いもあったんです」。
驚くことに、このディベロッパーでも、すぐに頭角を現す。サポートは仰いだが、1ヵ月目に初契約をいただいてから、退職するまでのおよそ3年。一度も契約がゼロの月がなかったそうだ。むろん、記録的な実績である。
「給与は、固定給が16万円。あとは、歩合です。私の場合は、契約をたくさんいただけたんで、給与もそれなりに良かったです」。才能というのもあったのだろう。ただし、それだけではない。陰の努力もある。
「ほかの営業マンが、300枚のチラシを刷っているところを、私は1000枚刷って撒いていました」。夜、1000枚のチラシを持って、ポストに向かう。いわゆるポスティング。
 地道な努力は、お金になって返ってきた。
3年後の25歳、「飲食」と心に決め、独立のため会社を辞めた時には2000万円くらい貯まっていたそうだ。

「失敗の確率をゼロにしよう」。4年半の修業開始。

「私にとっては実力主義で、いい会社だったんですが、40人の営業マンでそのうち約半分が1年で入れ替わるのを観てきましたから、不動産で独立とは思いませんでした。もちろん、社員、会社の、どちらか一方が悪いわけではない。ただ、使い捨てのような経営はしたくありませんでした。もっとチーム一丸となってやる仕事。そういう経営が『飲食』ならできると思ったんです。」。
「飲食」での独立・起業を志した山本氏は、それから4年半、修業のため、ある料理店で勤務する。「いろんな店をみて回る方法もあるかと思いますが、私は一つの店で、料理長から、店長まで経験させてもらいました。立場が上がらないとみえないこともありますから」。
「失敗の確率をゼロにする」。そのために、勉強した。しかし、まったく経験のない人間が「飲食」と言うある意味、険しい道を選び、いさぎく、その道を極めたものだ。ここに山本氏の凄さをみる。「覚悟」の、ある人だ。

30歳、起業の時がくる。

高校時代、「ミュージシャンは無理だから、社長になろう」と決め、だれにも頼らず1人歩みつづけた起業への道、その一つ目のゴールに着いた。
「『しゃなりしゃなり』という錦のお店が1号店です」。
初月から黒字だったというから、またまた驚かされる。
「実績はなかったんですが、営業時代のプレゼン能力を活かして、人気物件を確保できたのが、成功の一つの要因だったと思います」。
むろん、新規開拓はお手のものだ。ポスティングに、チラシ配り。オープン当初から次々、客は集まってきた。
山本氏の「思い」が客を集めたのだろうか。山本氏が集めたのは、客ばかりではなかった。最後に、その点にも触れておこう。

およそ9年で、23店舗出店。撤退店は、ゼロ。

創業からおよそ9年。店舗数は、23店舗になった。1軒1軒、店名も違う。「ダイヤモンドダイニングに似た路線ですね」と問いかけると、「社長の松村さんを尊敬している」という言葉が返ってきた。
それはともあれ、名古屋で、9年で23店舗を展開。資本力のあるチェーン店でも、むずかしい数字ではないだろうか。それをなんなく達成している。話を聞いていても、気負った様子もない。むしろ、自然体。
そんな氏の話のなかで、もう一つ驚かされたのは「この9年、採用に困ったことがない」という言葉だった。
名古屋は、飲食やサービス業にとって、人材採用が極めて困難な土地柄である。しかも、ここ数年でいえば、すべてのサービス業が「採用困難」という事態に直面している。
「秘訣は」と問うたが、「秘訣というのはないですね。アルバイトが社員になってくれたり、後輩のアルバイターを紹介してくれたり」という解答。むろん、それができないから多くの飲食店は困っているのだが。
具体的に数字に落とし込んでみよう、と、大まかな採用コストを投げかけてみた。ふつう23店舗ともなれば、社員、アルバイト含め、年間数百万円の採用コストがかかっている。
「年間10万円くらいです」と山本氏。他社が聞いたら、怒りだすのではないか、という気がしてきた。
しかし、冷静に考えれば、これこそ、山本氏が最初に掲げた「チームという発想から生まれた産物」なのだ、という気がしてきた。
23店舗のうち、いまだ撤退店ゼロ。スタッフの定着率は言うまでもなく高い。週末ともなれば、店舗に入り、スタッフと一緒に汗を流している。
外からみるだけでは、なかなかわからないが、名古屋にまた一つ、働くうえでも素敵な店があった。

思い出のアルバム
 

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