有限会社サンカンパニー 代表取締役 山川大輔氏 | |
生年月日 | 1975年2月13日 |
プロフィール | 埼玉県深谷市に生まれる。高校卒業後、大手メーカーに就職。1年で退職し、料理人の父とともに中華調理店を開業。しかし、意見が合わず店を離れオーストラリアへ向かう。オーストラリアで1年間、自らを見詰め直し、20代での起業を決意する。現在、埼玉県北部で6店舗を展開。いずれも地元住民から支持される繁盛店である。 |
主な業態 | 「だるま山」「三好屋商店酒場」「いろはのゐ」「北海」「はまぐりや」 |
深谷市は、埼玉県の北部にある。この市に山川が生まれたのは1975年のこと。父は料理人で、山川が小学6年生の時にこの地に中華料理店を開業している。
「私は長男で、妹が2人います。男は私だけですが昔から跡取りということは考えていませんでした。ただ、料理人の父の背中をみて育ちましたので料理には関心があった。といっても、料理を勉強しようと思うのは、まだまだ後の話です」。
小学校の頃の山川は、サッカー少年だった。中学生になってバレーボールに転向する。学業の成績は、平均レベル。つまり、真ん中くらい。「高校生を卒業する時期になって初めて、父といっしょに店をやろうということになったんです」。
高校を卒業後は静岡にある、大手メーカーに就職し、1年間勤務した。
「別にどこでも良かったんです。親父が2人で始める新しい店をみつけるまでという期限付きの就職でしたから」。
1年後、父から「店がみつかった」と連絡が入った。親子2人、ちからを合わせてスタートした。
「でも、親父は職人気質です。料理の腕は凄いんですが、経営にはそれほど関心がなかった。それで、衝突することも多くなって、結局、私は店を離れます」。
思い入れもあった。父を立てなければいけないことも理解していた。でも、店のことを考えると、意見を曲げられなかった。「それで、いったんすべてをリセットしようとオーストラリアに向かいました。一度、行ってみたいと思っていたんです」。
山川が向かったのは、オーストラリア大陸の北東岸にある、海に面するケアンズという港湾都市である。
「たくさんお金があったわけじゃないから、アルバイトしながら生活していました。現地の人たちと交流したことも、海外から日本という国をみたことも、いい経験になりました」。
滞在したのは1年ほど。山川は「オーストラリアで20代での起業を決意した」と言っている。
数ある転機のうちの一つ。「帰国し、とりあえず『資金だ』と思って、食料品の移動販売を始めました」。
1年間、海の向こうで存分にリフレッシュした後である。やる気も、満々。「人の3倍は働く」と決意し、目標に向かって、がむしゃらに突き進んだ。
2年間で2000万円貯蓄したというから驚きだ。
「そのうち1000万円は結婚資金に充てて、残り1000万円で開業する腹積もりでいました」。この時、山川はまだ23歳である。
結局、山川は27歳で独立する。父の店を引き継いだ格好である。
「移動販売を辞めてから、数ヵ月、いろいろな料理店を食べ歩きました。イタリアンにも興味があったものですから、都内にもひんぱんに出かけました。でも、ここだと思ったのは都内ではなく、熊谷にあるイタリアレストランでした」。
「そちらで3年間、修業させていただきました。ちょうど3年経った頃、親父が『店を建てた時に借りた融資もすべて返済した』というんです。それで『店を手放して農業をしたい』と。ただ、契約を解除するには、いったんスケルトンにしなければなりません。それだけのお金はなかったんですね。で、私にどうだ、と」。
「タイミングが良かったです。幸い、資金もあったので、『じゃぁ、そうするよ』って。もともと親父と2人でやろうと思って作った店です。私が、ちゃんとするまで親父が守り抜いてくれていたのかもしれません」。
うがった見方をすれば、父は、息子に譲るために「農業をしたい」と言ったのかもしれない。同じ店に2人いれば、また衝突するかもしれないと考えて。
ともあれ、山川は父から店を譲り受けた。もっとも大半は改装した。山川27歳、2002年のことである。店名は「楽食空間 山」。中華とイタリアンの創作料理店である。
ほどなくして、「楽食空間 山」は、街の人々の心をつかみ繁盛店となった。
都会より店の数は圧倒的に少ない。代わりに人も少ないのがローカルである。フラリと立ち寄る客も、そう多くないだろう。都会とは、異なり経営が難しいローカルエリアで、山川は着実にファンの気持ちをつかまえた。
1年も経たないうちに、2号店目の焼鳥業態「炎や」を出店する。更に翌年、「つくね家 万歳」をオープン。まさに順風満帆だった。
「しかし…」と山川はいう
「浦和に4店舗をオープンした頃から、さまざまな問題に直面するんです。正直、業績も落ち込みました。原因は『人』です。教育も疎かになっていたんです」。
浦和にも出店したことで、店と店の間に距離ができた。山川がそこにいれば、すべてが上手く回っていたのだが、店にいる時間が減った。
「手づくりにこだわったオペレーションにも問題があったと思います。でも、最大の問題は、私が『繁盛店づくり』のみを目的にしていたことでした」。
「繁盛店」を目的化することは、人、不在の経営にも陥りがちだ。
「当初は、『繁盛店』をダイレクトにめざしていたこともあって、売上に目を奪われがちでした。だから、スタッフの教育も疎かになっていってしまったんです。教育するより出来る人を採用すれば、いいわけですから」。しかし、理念の共有も行われていない組織は、脆い。歯が抜けるようにスタッフが辞めていく。「料理の質が落ちた」と常連客からも指摘された。4店舗目にして初めての大ピンチだった。
「これは!というセミナーにも参加しました。いったん立ち止まり、もう一度、目的を見直しました」。スタッフといっしょに自分たちは何をしたいのか、進むべき道は何かを考えた。理念が浮かび上がってくる。それが接着剤となった。2007年にはセントラルキッチンも設立した。スタッフの負担の軽減にも取り組んだ。そういう取り組み一つひとつが、スタッフの笑顔を引出していく。理念が共有されたことで、各スタッフのやるべきことが明確となった証だろう。
足元が強化されると、目標も膨らんだ。オーストラリアへの出店もその一つ。こちらも、実はスタッフの将来を考えてのことだ。「いずれ、海外、特にオーストラリアのケアンズに出店したいと思います。ケアンズは観光都市なんです。そこに居酒屋を作る」。
目的は2つだ。「1つは、スタッフの交流ですよね。オーストラリアって親日の人が多いです。でも、来日するにも方法はそう多くない。でも、向こうの店のスタッフが日本に来たいなと思ったら、うちの日本の店がその受入先になれるでしょ。働きながら日本で暮らすこともできます。同じ、店だからストレスもない(笑)。もちろん、その逆もありです。私は、若い子らに幸せになってもらいたいんです。幸せのかたちはいろいろあると思いますが、やりたいことを見つけるというのも、その一つだと思うんです。でも、ね。見つけるって難しいですよ。私は『見つかる』もんだと思っています。その環境を彼らに与えてあげたい。海外出店の話も、やりたいことを見つける(見つかる)ツールにしたいんです」。
いい話だと思った。出店数を目標にあげる経営者も多いが、山川にとって海外出店も一つの手段を手にする行為に過ぎない。その発想の広がりがいい。
「もう、1つは文化の交流です。日本の和食というか、和職と言ったほうがいいかな。日本人の、たとえば和食の職人たちが行う、切る、煮る、蒸すなどはとても洗練された技術です。こういう和の仕事(和職)を世界に広めていきたいと思っているんです。海外の進出は、その手段でもある。たとえばケアンズは観光都市といったでしょ。世界中からいろんな人が集まる。そこで、うちの店に出会って、こういう楽しい店を『うちの国でも』となればどんどん広がっていくじゃないですか」。
ところで、山川は、お客様の来店目的をよく口にする。「うちはローカルでしょ。住宅街です。都会のようにフラリと立ち寄るってことはまずない。だから、来店の目的を我々がちゃんと理解しておかなければいけないんです。私は、食事でも、お酒でもいいと思っていますが、何より『楽しむことがお客様の目的』だということを忘れてはいけない、と思っています」。
人と人が会話する。おいしいお酒と料理は潤滑油だ。そこにいれば楽しい。そういう「居酒屋文化」が世界に広がれば、世界はもっと楽しくなるはずだ。
「最終的には、そこですよね。私たちがめざすのは」。
埼玉県深谷市。生まれ育った街をベースにして、ローカル戦略で、次々に人気店をリリースしてきた山川。いつの日か深谷市発の居酒屋文化が、世界に広がればいいと思った。
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