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第510回 大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏
update 15/12/01
大東企業株式会社
北尾拓也氏
大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏
生年月日 1971年8月6日
プロフィール 戦後、祖父の代からはじめた飲食事業が波に乗り、2代、3代と引き継がれていく。北尾氏は、3代目社長。高校卒業後、いったん別会社に6年ほど勤めた後、実家に戻り、いち社員として清掃や雑用からスタート。2006年、父の跡を受け社長に就任。リーマン・ショックなどで難しいかじ取りを迫られながらも順調に業績を伸ばし、いまや海外にも本格的な和食店を出店するまでに至っている。
主な業態 「北大路」「番屋」「まるし」「マルシミート」「The GARDEN」
企業HP http://www.daitohkigyo.com/

3代目、当主、逃げ出す。

戦後、焼け野原の東京のあちらこちらで、小さな飲食店が生まれた。今回、登場いただいた大東企業株式会社、代表取締役社長、北尾拓也氏の祖父が銀座に開いた喫茶店も、そうした店の一軒だった。
「元々、祖父はバスの運転手、祖母がバスガイド。それが縁で結婚したらしく、バスガイドを辞めた祖母が喫茶店を開いたのが、始まりだそうです」。
 北尾氏の話によれば、店は流行り、2号店、3号店も出店したそうである。
「そのあと、私たちの父の代となり、今度は、イングランド風の洋風パブに挑戦しました。こちらは100メートルほどの列をつくる人気だったそうで、このパブもすぐに4店舗ほどになったと言います」。
北尾氏が誕生したのは、この頃。
「貧しくはなかったですが、父も母もいそがしく、食卓を囲むこともなかった気がします。兄弟は、男ばかりの3兄弟で、長男が私。いそがしい父母を観ていたからでしょうか、家業を継ぐ気はまったくありませんでした」。
これには、もう一つわけがあって、子どもの頃の北尾氏は、親に反発していた節がある。中学時代には一度、家出もした。
「子どもの頃から、勉強、勉強です。TVゲームで遊んだこともありましたが、早くから塾にも行かされ、とにかくスパルタ教育です」。
勉強を強いられることよりも、期待をかけられていることが、息苦しかった。反動で、中学からはまったく勉強もしなくなったそうだ。
「弟たちは、私と違って、まったく自由です(笑)。それを観て、長男に対する期待がわかっても、私にとって、期待は重荷以外何ものでもなかったんです」。

高校卒業、就職へ。

中学ではバスケットボールの選手だった。いちおう、学校には通学していたが、前述通り、勉強とは無縁。ギリギリ、入れる高校をみつけて進学した。
「目黒にある高校でした。卒業後は、しばらくは家でぶらぶらしていたんですが、お父さんの目が段々鋭くなってくるのがわかって、それで、しかたなく藤沢にある、とあるおもちゃ関係の会社に就職したんです。もちろん、通うことはできないので、独り暮らしのスタートです」。
これが、北尾氏の社会人の始まり。正確に言えば、サーフィンの始まりでもあった。

サーファー、社員。社長になりたいと思う。

「従業員5〜6人の会社だったんですが、とにかく、ゆるい会社でした。休憩時間になると、みんな波乗りに行ってしまうんです。私は、サーフィンは知らなかったもんですから、最初は戸惑っていましたが、そのうち、みんなといっしょにサーファー社員です(笑)」。
 サーファー社員といっても、仕事はきっちりしていたそうで、社長とも親しく、口をきいてもらっていた。
「そうですね。まだ30代だったと思うんですが、社長と話をしているうちに、私も社長業というのをやってみたくなったんです」。
その会社にいたのは、合計6年。当時の社長に刺激され、社長業に、憧れた。
「社長になるには、父親の跡を継ぐのがいちばん手っ取り早いと、思って、お父さんに会って、『会社に入れてくれ』と頼んだんです」。
日焼けした、息子が帰ってきた。動機はどうあれ、ご両親は、ひと安心されたことだろう。

社長の、試練。

両親の思いとは別に、突然、帰ってきた3代目への、社内の風当りは、相当きつかった。掃除や雑用が、北尾氏のメインの業務だったことからも、当時の様子をうかがい知ることができる。
一方で、北尾氏は、弟2人も会社に入れ、父親ともひんぱんに、会話をするようになった。
「弟を引き込んだのは、淋しかったからかもしれません。お父さんと会話するようになったのは、職場で、だれからも尊敬される父をみたからかもしれません。とにかく、そうやって少しずつ、私は、社長にちかづいていきました」。
ところで、会社の事業の話は、「洋風パブ」で止まってしまっていたが、その後も、居酒屋ブランドを出店するなど、挑戦をつづけ、いずれも好成績を残す。
その後、「個室会席 北大路」というアッパーなブランドが主流となる。「日本料理 うるわし」「個室居酒屋 番屋」も、その流れを受け継ぎ誕生した。
「アッパー路線は、料理人たちのことを思って、進んだ道です。彼らの待遇を上げるための、秘策でもあったんです」。
もちろん、アッパーな店になればなるほど、経営は難しい。
実際、経営危機にさらされたこともある。
「私が社長になって2年くらいの時です。2008年の世界的な同時不況。接待需要も、落ち込み、売上は30%ダウンしました」。
しかし、北尾氏はうつむかなかった。
「ピンチをチャンスに、という言葉があるでしょ。とにかく、いろんな方法を試し、ネットならリスティング広告も盛んに出しました。そういう、努力が、いま実を結んでいると思います」。
時代はかわって、アベノミクス。状況はいっぺんした。接待などで訪れる客がふえたうえに、いまや海外からの旅行者も少なくない。
時代はパッとかわった。しかし、時代の恩恵を、すべての店が受けているわけではない。

板前、100人の会社。

板前が100人いるという。「北大路」をはじめとした系列店舗では、1店舗あたり10人前後の板前がいるという計算となる。
 これだけの職人を揃えている店は、そう多くないはずだ。景気が良くなったからと言ってすぐに採用できるわけもない。
そう、北尾氏は、景気が悪い時も職人たちを採用・育成してきたのだ。それが、いまの結果に結びついている。
「うちは、たいていのものは手作りです。そのほうが、旨いからです。しかし、大量生産はできないんです。だから、どうしても職人さんたちの数が必要です。これが、いまも課題で、腕のいい職人を育てるかに私たちは注力しているんです」。
ちなみに、ホームページで「北大路」の写真を観た。風格、たたずまいのすべてが、研ぎ澄まされた価値なのだろうと思った。
「板前100人の手仕事」という言葉にも惹かれた。
これから、どうなっていくのだろう、と最後に、今後についてもお話を伺った。
「先代たちは料理人たちのことを考え、大きな箱をつくってきました。しかし、いまの時代、それだけではと思い、すでに1人でもおいでいただけるような焼肉店を銀座にオープンしています。客単価も5000円くらいに抑えています」。
この焼肉店は、「焼肉居酒屋 銀座まるし」のことで、すでに銀座に2店舗出店済みである。メディアにも盛んに取り入れられている。
上場も視野に入れているとのこと。
もっとも興味深かったのは、「100人の板前がいる専門店の武器を活かす方法を模索している」という話だ。バンコクに出店した1号店を皮切りに、今後も海外に本格的な和食店をオープンするということだ。
「職人さんたちの可能性を広げないといけない。経営者ですから、当然ですが。単純に彼らの凄さ、格好良さを知ってもらいたいという思いもあるんです。そうすることで、職人さんたちができることもまた、広がるはずなんです」。
職人になりたい人が減ってきている。
それもまた事実である。そこにも、北尾氏は危機感を抱く。だから、黙ってはいられない。社内の教育を整備し、職人の育成にも、乗り出している。
「板前、100人。みんないい人だよ」と北尾氏。
100人の人材を信じる素直な笑みがそこにあった。元バスガイドの妻と2人、喫茶店を開業した、元バスの運転手である祖父がみたら、どんな笑みをこぼされることだろう。

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