株式会社ACCELAIRE 代表取締役 松嶋啓介氏 | |
生年月日 | 1977年12月20日 |
プロフィール | 福岡県生まれ。高校卒業後「エコール辻東京」で学び、渋谷「ヴァンセーヌ」を経て、20歳で渡仏。フランス各地で修業を重ねたのち、2002年、25歳でニースにフレンチレストラン「Kei's Passion」をオープン。南仏の素材を生かした斬新な料理が評判を呼び、2006年に28歳で本場ミシュラン1ツ星を獲得。同年、店名を「KEISUKE MATSUSHIMA」に改め、拡大オープン。その後も連続星を獲得。2009年6月には神宮前に地産地消をテーマにした「Restaurant-I」をオープン。2014年7月に同店もニース店と同じ「KEISUKE MATSUSHIMA」に改名。また、フランス政府より日本人シェフとして初めて、「フランス芸術文化勲章」を授与。 |
主な業態 | 「KEISUKE MATSUSHIMA」 |
企業HP | http://www.restaurant-i.jp/ |
1977年12月20日、福岡市に生まれる。3人兄弟の次男で、兄と妹に挟まれて育った。「3歳違いの兄とよく喧嘩をした」と言って松嶋は笑う。
父は、旭硝子の関連子会社社長。父も母も大宰府出身である。
裕福な家庭だった。小さな頃から外食にもよく連れて行ってもらった。そのおかげもあるのだろう。「小さい頃から舌が肥えていた」という。
料理に対する思い入れも強く、「小学生の時には、すでに料理人になろうと決めていた」そうだ。理由はある。「漫画で描かれたコロンブスの伝記に感化されたんです。料理人だったらコロンブスのように海外へ行けると思ったんですね(笑)」。
海に出る、冒険心が少年の心をくすぐった。
当時の様子を伺うと、「勉強は並みだったけれど、できないスポーツは無かった」との返事。手先が器用だったと、料理人の卵だった少年時代の様子をそう語る。
中学生になっても、海外志向は薄れなかった。早く料理人になって海外へ飛び出したかった。「実は、高校にも行くつもりがなかったんです(笑)」。ご両親に説得され、やむなく高校に進学。
高校を卒業した松嶋は、初志貫徹、東京にある「エコール辻東京」に進学する。1年制の専門学校である。
海外への切符を獲得するために、地元を離れて小さな冒険に出た格好だ。本格的にアルバイトを開始したのも、この時から。バイト先は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」。人気のレストランである。
「1年間、『ヴァンセーヌ』でバイトをしながら、学校に通いました。その時からフレンチと決めていたんです。卒業後は、そのまま、『ヴァンセーヌ』に就職しました」。
これが、松嶋の第一歩。「『ヴァンセーヌ』で2年勤務して、「親戚からお金を調達して、なんのあてもないままフランスに向かいました(笑)」。
大胆と言えば大胆。松嶋の海外に対する想いは本物だった。
無謀といえば無謀だが、若さの特権でもある。20歳から松嶋はフランスで暮らすことになる。
単語を紡ぎながら、会話することで言葉はなんとか通じた。
さまざまな店を回り、仕事をもらった。
「向こうは日本のように上下関係というのが無くってフレンドリーです。合計、十数軒のレストランを転々として、シェフも任されました。料理はできる、できないかではなく、やりきるより他無かったですね」。
給料についても伺ってみた。
「日本より良かったですね。だから休日には他の店に視察に行くこともできました」。日本の青年が1人あてもなくフランスで修業の日々を送る。
「日本は出る杭を打つ文化。当時、そういう文化を持つ日本という国には正直興味が無かったんです」と松嶋は言う。そういう松嶋にとってフランスは、ある意味で対極の文化を持つ国と映っていたに違いない。
一方、松嶋のフランス生活を支えた人がいる。JALのスチュワーデスだった奥さまである。
「飛行機の中で知り合ったんです。彼女は私より14歳年上でした。私が24歳の時に結婚しました。ただその後、フランスのビザも取れていない状況で、今後やりたいこともあり、このままでは相手に迷惑をかけると思っていたんです。そして離婚の話を自ら切り出しました」。
ところが奥さまは、松嶋にそれまで貯めていたお金を渡し、「お店の開店資金に使って。その代わりに家は買ってね」と言われたそうだ。店をオープンすることで、フランスで暮らす足場を固めることができる。それは2人にとって最良の選択肢だった。
2002年12月20日、松嶋は25歳の誕生日にレストラン「Kei's Passion」を本場フランスのニースにオープンさせた。奥様の決意と愛情が松嶋の野望を支えたのだった。
「独立」という二文字は重い。独立したからといって、そこがゴールではない。重い荷物を背負いながらの、冒険がスタートする。松嶋はどのようにして、新たな波を乗り越えていったのだろうか。
「10代の頃から資金周りの作業は経験していましたので、問題無かったです。店を開くとフランス人も雇用することになるので、ビザも取得できました。家賃は15〜16万円ほど。居抜きの物件です。席数は22席です」。
この店はオープン当初から予約ができないほど混んだ。メディアに取り上げられたことも大きい。月商は1000万円にもなったそうだ。
「自信が無かったといえばウソになります。それなりの経験も積んでいましたから。有名店で修業していたことも、メディアに取り上げられた理由だと思います」。
修業時代、つまり、裸一貫で渡仏して4年間の内に、松嶋はフランスでそれなりの地位を獲得していたことになる。
2つ星のレストランでメニュー開発をしていたこともある。シェフに作った賄が、すぐに店のメニューになったそうだ。その背景には、松嶋という青年のひたむきなまでの努力はもちろんのこと、フランス独自の文化も感じてとれる。そこには、フラットな評価の目があったのだろう。
ともあれ、好ダッシュ。フランス人たちは日本の青年に注目した。そして、彼が作る料理に舌鼓を打った。「美味い」。フランス人の舌を虜にした。しかし松嶋は、ただただ料理作りに邁進していたわけではない。戦略家という一面も浮かび上がってくる。成功の秘訣はここにも隠されていた。
「リサーチを徹底的にしました。とにかくブランディングとマーケティングに注力しましたね。営業もやりました」。
「最初の頃は、自転車に乗って、シェフである私が直接食材を買いに行っている姿を、地元の人々や野菜市場、魚市場で働いている人にわざと見せるようにしていました」。つまり、仕事の「見える化」である。シェフ自ら、食材を買い付ける。これを「見える化」することで、安心・安全な食材を提供していることはもちろん、料理に対するシェフの想いまで伝えることができた。
それだけではなかった。
「支払いは、全て現金でやりました。もちろん、わざとです。現金で、取引をする方がスマートで、信用もされるんです。そうすると、良い食材も回してもらえるし、店に食べに来てくれることもあるんです」。
良い食材を回す。それがどのように調理されているのか。「彼らは店に食べに来て、美味しかったら、口コミで広げてくれるんです」。
誰かに教えてもらったわけではない。自ら考え、実践した。それらが功を奏したのだった。「スタッフは6人で、日本人とフランス人が半々。フランス人たちもよく言うことを聞いてくれました」。店にフランス人たちを招きながら、松嶋は強固な足場を更に固めていった。
現在、ニースには3店舗ある。いずれも、30席程度。コンセプトはすべて異なる。そこも、冒険家、松嶋らしいやり方である。
ちなみに南仏の素材を生かした新鮮な料理が評判を呼んだ1号店の「Kei's Passion」は開店から3年目となる2006年にミシュラン一つ星を獲得する。外国人としては最年少での獲得。同年、店名を「KEISUKE MATSUSHIMA」に改め、拡大オープンさせた。
こちらの店は2013年まで8年連続ミシュラン一つ星を連続獲得中である。
さて、このインタビューをさせていただいた2014年、松嶋は37歳になる。日本で出会うことができたのは、松嶋が日本に店を出店したからだ。
店名は、「Restaurant-I」(レストラン アイ)。2009年6月に東京・神宮前に東京で取り組む地産地消をテーマにしたレストランとしてオープンした。
「日本のあるディベロッパーからお話をいただきました。総工費は2億4000万円。返済だけでも月700万円で、家賃は450万円です」。相当な出資額である。
躊躇はしなかった。派手にやらないとダメだと思った。松嶋の嗅覚が、そう呟いたのだろう。法人も設立した。
株式会社ACCELAIREである。ここからも松嶋の覚悟が伺える。2009年にオープンした「Restaurant-I」も2011年、12年と連続してミシュラン一つ星を獲得している。
「今の日本における、一番いいものを提供していきたい」と松嶋は意気込みを隠さない。「日本とフランスという2つの国に店がある。そのことが相乗効果をもたらし始めた」とも言う。
これからがますます楽しみである。
松嶋からは、いくつもの貴重な考えも伺った。
店づくりにおいては、「人に騙されてもいいという覚悟で、まずは相手を信用するようにしています。そしていかにスタッフをマネジメントしていくか。どういう言葉をかけ、サポートしたら、みんなが輝けるように働けるかを意識しています」とのこと。
「まず、信用する」。たしかに「信」のないままで、マネジメントを行っても、うまくいくわけはない。経営者の度量と、判断力が試されるのは、ここかもしれない。
「今後、一番ショックなこととして考えられるのは、『この職業が嫌いになったので辞める』と言われること」だそうだ。
「1年目のスタッフには、まずは仕事を好きになることから始めてみようと言っています。彼らに最初に求めるのはそれくらいです。仕事が楽しめれば、結果としてその人の人生を豊かにすることに繋がると思うんです。だから、うちの基礎は何かと聞かれたら『好きになること』と答えています」。
「好き」はたしかに原動力になる。しかし、「好き」になれる職業に出会えるのも稀である。だから松嶋の一言には重要な意味がある。
「仕事を好きになることから始めてみよう」。いい言葉に出会った。
「採用するかしないかは、5年後、10年後の夢を聞いてから決めます」とのこと。その視点は間違っていない。離職率がゼロに近いのも頷ける。フランスに行きたいと申し出るスタッフも少なくないそうだ。
「私を含め、フランスで修業をしてきた料理人は、料理を学んだというよりも、生きる楽しさに出会い、その素晴らしさを学んだはずなんです」「週休2日のなか、メリハリをつけて働くことで、人生がどれだけ豊かになるか。そういう仕組みを日本でも実現できるようにしたいですし、それができるような店にしようよ、とみんなに言っています」。
「こういう体制を作れればもっと人は辞めないと思います。少なくとも仕事を嫌いにならないと思います」。
ここで一つ気になった点がある。日本には松嶋が言うように、全てではないにしろ、「出る杭を打つ」文化がある。
縦割りの社会のなかで、過酷な労働を強いる。それを教育という言葉で飾ることで、正当化する。ただし、それもまた日本の料理界が継承してきた文化であり、有能な料理人を輩出する下地となってきたことは、確かなことなのである。
松嶋流の教育は、継承という点で、どのような成果をもたらすのだろうか。それもまたこれからの楽しみである。
いずれにせよ、こうした日本的な方法と比べて松嶋が違うのは、後者が、「人を信じる」という点からスタートしていることである。
松嶋は言う。「すべての人に可能性がある」と。この言葉も、また素晴らしい。
今後の目標はと伺うと、「スペインのバルセロナをはじめ、ロンドンやニューヨークにも出店していきたい」とのこと。
料理人というより、料理・レストランのプロデューサーという今の立ち位置が、その言葉の向こうに顔を出している。
「まだ若いでしょ。だから、若いうちに思い切ってやることが何よりも大切なんです」。大航海を冒険したコロンブスのように、また一人、冒険家の姿がそこにはあった。
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