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第515回 鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏
update 16/01/05
鱒屋レストラングループ
定松勝義氏
鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏
生年月日 1961年12月5日
プロフィール 愛媛県松山市栗井で産声を上げる。高校卒業後は父の会社を継ぐも事業撤退。自分の可能性に挑戦すると決め、当時22歳にてワーキングホリデー制度を使い来豪。その後は永住権を取得。一時帰国するも、再来豪しハイアットホテルのシェフとして勤務をしながら、世界各国のコンチネンタルフードを学ぶ。1987年シドニー市内グリーブにカレーレストランをオープンさせるも現地での飲食事業の難しさを痛感。しかしチャンスを伺い、1993年にはシドニー市内に「鱒屋レストラン」オープンを果たす。2000年にはシドニーオリンピックにて、約7,000食の弁当ケータリングを実施。2011年には日本レストラン協会の依頼により、酒と日本食材のフードフェアを行ったりと活動範囲は多岐に渡る。また、2014年12月5日より新店「誠BENTO」をオープン。現在、豪州日本食レストランの頂点を目指す。
主な業態 「鱒屋レストラン」「MISO」「SUSHI BAR誠」「居酒屋 鱒屋」「寿司の鱒屋」「誠BENTO」
企業HP http://www.masuyainternational.com.au/ja/

混迷の先にあった父の死と挫折。

愛媛県の松山市で産声を上げた定松氏。幼少期から決して裕福な家庭では無かったが、特に不自由なく過ごしてきた。そして高校時代も順調にいくだろうと思えた。しかし、当時の学歴偏重な風潮に精神的に付いて行けず、進学クラスから落ちこぼれてしまうことになる。そんな矢先、父の薦めもあり、父の経営する鉄骨建築会社に就職することを決意した。「従業員は8人いました。気楽な気持ちで始めた仕事だったのですが、就職して直ぐに父が急死してしまったんです。ショックでした。ただ、いつまでも落ち込んでいられないと思い、父の会社を守ろうと自分が後を継ぐことにしました」。何の経験も無かったが、意気込みはあった。年若くして、一企業のオーナーとなる。
「父は会社にとっての大黒柱でした。実際、自分がトップに立ったことでどうこうなることもなく、会社の業績はどんどん悪化していきました。そしてついに閉鎖せざるを得ない状況に追い込んでしまいました。自分自身の無力さを痛感した出来事でした。」大きな求心力を失くした会社は、誰にも立て直すことは出来なかったのだった。「申し訳ない気持ちと共に、なぜできなかったのかと自分を激しく責めました。人と話す気力も無くなり、何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、逃げ出すようにして立ち去りました」。その家族の方々の顔を思い浮かべると強い罪悪感に襲われた。この出来事は長い間、トラウマとなって残ったという。

底で掴んだ覚悟と挑戦魂。

父を亡くし、会社は潰れ、従業員からも逃げてしまった。定松氏は、その中で一つの考えに辿り着いた。「奈落の底に落ちようが、天まで登りつめようが、どちらに転んでも自分の人生一度きり。それだったら自分の無限の可能性を信じて、登りつめられるところまで、登ってやろうじゃないかと思ったんです」と定松氏は当時を振り返る。人はそれぞれ自分の人生を歩む時、今までの自分の環境・習慣に伴った考えや他人からの言葉に流されてしまうことが多いが、この時の定松氏は違った。底に落ちたことで、逆に自分の命の尊さを認識できたのかもしれない。授かった自分の命をこんな人生で終わらせたくないと。そして、無限の可能性を信じた。日本では無く、巨大大陸国家であるオーストラリアで挑戦することを決意した。定松氏の眼には、生まれの愛媛県に似た環境でもあり、ワーキングホリデー制度のある国として最適な挑戦場に映った。

22歳。いざオーストラリアへ。

当時、オーストラリアへの片道切符は12万円。日本人の豪州観光ブームに火がつく前だった。当時、免税店が採用していた日本人は永住者が中心で、ワーホリ来豪者が仕事に就けるのは日本食レストランぐらいであった。覚悟を決めて渡ったものの、実際どこも競争率が激しく、仕事さえあればという状況だった。シドニー周辺の約200店を飛び込みで回り、仕事を探した。そんな中、鮨屋とフィッシュ&チップス店での仕事が決まった。「仕事を始められたのは良かったのですが、オーストラリア人が言うBill(請求書)とBeer(ビール)の発音の違いを聞き分けることができず、苦労したりもしました。ただどうしても現地人の中で仕事をしたかったので働きだしたのですが、一方で働いていく中、単調な作業に嫌気が差していたのも事実でした」。そんなことを考えていた矢先、理想の挑戦場が見つかった。「ブルー・トラウト・レストラン」という現地の人気レストランだった。
「そこで初めてキッチンハンドから包丁を使い、料理を作ることを学びました。少しすると昼間はお弁当屋さんを任されるようになり、いちオーナーとして家賃と人件費を払いながら6ヶ月間働きました。また、22歳まで豚肉を食べられなかったのですが、ある日、賄いでトンカツを作り、口に入れてみるとなんて美味しいことか!今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚きました」と笑って当時を振り返る定松氏。海外で初めて気付く、日本食の良さが分かったのだろう。しかし、働き詰めの毎日で、友人もなかなかできず、英語も上達しなかったそうだ。そうこうしているうちにワーホリ期間が到来。日本への帰国となった。「帰国して1ケ月後、現地のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出したんです。そこで、カレーライスの店をオーストラリアで出店することを本格的に考え、永住権取得にとりかかりました」。そして、23歳にて再度来豪を果たし、前レストランの方々のサポートもあり永住権を取得。挑戦への準備は整った。その後、幸運にもハイアットホテルでセカンドコックをされていた方と出会い、約2年間に渡るシェフ修行をスタートさせることになる。

ハイアットホテルへ。修業と挑戦。

シェフ修業が始まるが、英語がまるで分からなかった。飛び交うスラング連発で何を言っているのか全然理解できない。それに、食材・スパイスはコショウくらいしか知らなかった。「何百種類の食材を扱うホテルの中で、最初の半年間は英語力と調理技術の無さから胃が痛くなる日がずっと続いていました。ホテルなので仕事は24時間体制。ルーム・サービスもあれば、早朝からブレックファストの準備もあります。一方、レストランでのアラカルト料理の仕込みは、世界中の代表的な料理を学ぶことができたので大変勉強になりました。また、トップシェフがヨーロッパなどからやって来て、メニュー変更のためにホテルの中に入り、一緒に働くことができたのも良い経験でした。そして、何よりも驚いたのが、若くても素晴らしい優秀なシェフだったということです。自分自身の主張を曲げず、言うことは言う。本当に休みの時間、休みの日も料理を勉強しているシェフがいたんです」。定松氏はそのシェフの姿を見て、かなり刺激になったと言う。「優れたシェフに少しでも追いつくように私は2年間、1日も休まず、シェフが体調を壊して急に休んでもいつでも交代に入れるようにしていました。大変便利なスタッフだったと思います(笑)」と当時を振り返る定松氏。立て続けにこう語った。「ある朝、ホテルのキッチンで、みんながラジオを熱心に聴いていたんです。何かなと思っていたら、あるラジオ番組で、覆面調査員がシドニーのホテルの朝食を試食し、それを評価するという企画だったんです。そしたら、私が作ったエッグ・ベネディクトの朝食が一位に選ばれました。ホテルのスタッフの方々含め、全員が祝福してくれた時は本当に嬉しかったです」と微笑んで振り返る定松氏。この出来事がオーストラリアをさらに好きになる一因となった。休みも取らずに、自分自身に挑戦した結果が実った瞬間でもあった。

恩師へ通じた熱き想い。

修業中もカレー店での独立の夢はずっと頭にあった。ハイアットホテルで働く傍ら、カレーを徹底的に研究した。小麦粉、ストックの取り方、スパイスの調合の仕方などなど。日本の有名ホテルのカレーもすべて缶詰で試食。資料は膨大な量となり、イエローページを頼りにスパイス会社にたびたび足を運んで研究を続けた。「ハイアットで働いて2年近く経った頃、以前日本でアルバイトをしていたステーキハンバーグレストランの樋口さんというオーナーの方へ、カレーショップ開業のプロジェクトを話し、出資をお願いしたんです」。定松氏は自分のアパートで試食をしてもらい、資料をもとに事業計画を説明した。当時、25歳の定松氏。そして1人の保証人もいなかったが、樋口氏は定松氏の熱意に感服し、自ら保証人になり、1,000万円の大金を貸し付けた。「私は、命を懸けて必ず店を成功させてみせますと何度も言いきりました。今の私があるのは人生の師、レストランビジネスの師、樋口さんのおかげです」。

念願のカレーレストランをオープン。そして新たな挑戦。

定松氏は、カレーレストランの営業権を55,000ドルでタイ人から買い取り、ワーホリの仲間たちと共に、店にペンキを塗り、前庭と裏庭を整地し、必死の思いでシドニー大学の近場にカレーレストランをオープンさせる。店では、レストランの形態でカレーを提供。そしてメニューには、寿司や刺し身は無く、ほとんどオリジナルメニューで勝負をした。「忘れられない日があります。七夕の日なのですが、その日は客数がゼロだったんです。私は調理場に座り込んで途方に暮れました。残り少ない資金、長期のリース契約。正直、苦しかったです。ただ落ち込んでいても前には進めないので、毎日改善を試みました。その当時の予約帳、売上帳を見てみると、1日の売上は400ドル程度でしたが、何とか1年後には、売上1日700ドル、客単価17ドルとなりました。返済金のため私自身の給料は取れませんが、資金が回る状態にはなったんです」。そんな頃、予約の電話が鳴り続け、店の前には長蛇の列を成した日があった。シドニー・モーニング・ヘラルド紙の記事で四つ星レストランとして店が高く評価されていたのだった。店は軌道に乗るかと思えた。だが、1989年頃より豪州経済は景気後退に入り、大手の銀行や不動産会社が倒産の危機となった。店への影響は大きかった。「その頃、店の財政状況が危なかったので投資していただいた樋口さんに電話をすると、店の営業権を売れとのことでした。私は、死んでも売りませんと言い、電話を叩き切ってしまったのを覚えています。男が命を懸けてやると言った以上、やめる時は死ぬ時だと思っていたんです。そしてその時、思いついたのが、レストランの設備を生かしてのケータリング事業でした」と定松氏は目頭を熱くして語った。

再起を懸けてのケータリング事業そして挫折。

「レストランの味をオフィスへお届けします」といったコンセプトを元にケータリング事業を始めることを決意。$3.80から$8.80までの各種弁当の週替わりメニューをオフィスに ファックスし、指定時間にお届けするといったものだ。特製鯛飯弁当、鮭ハラ子飯弁当、バクダン・オニギリ弁当、ピクニック弁当、日本全国駅弁祭りなどの新メニューを企画し、朝5時半から約100食を6人で作った。配達は時間との勝負。15分以上遅れたら無料とした。しかし、スタートして1年後の12月の暮れ、ぜんざいのデザートを付けた年越し弁当を配達中、前の車に追突事故を起こしてしまう。「車中に散らばった茶色のぜんざい、お客様に届けられない昼食弁当を見て、私はもうこれでおしまいだと思い、店を閉めることを決心しました。本音を言うと、朝から晩まで働いて、利益の少ない飲食業がもう嫌になったんです」。こうしてケータリング事業も幕を閉じることになった。

挫折の先に見つけた第3回戦。

閉店後、ケアンズとゴールドコーストでカレーショップのオープンを検討したが断念し、ダーリング・ハーバーにあるジョーダンズ・シーフードレストランで働き始める。500席の大型レストランだった。「私は時給10ドルの寿司バー担当として採用されましたが、新メニューを発案し、1年後には前菜部門、デザート部門の責任者となりました。部下が十人でき、給料も週1,500ドル程度あったと思います」。ジョーダンズで働いた後は、数店でホールマネージャー、シェフとして働いた。その傍ら、更なる挑戦を望み、その当時は無かった鍋物を中心としたシーフードレストランを模索し始めた。その矢先、オコーネル・ストリート12番地にある潰れかけていたイタリアンカフェの物件情報を新聞で見つけた。購入を決意し、人生第3回目の真剣勝負を挑むことになる。

店を救ったロブスター。

シティ中心のオフィス街、主要ホテルに滞在中の観光客も歩いて行ける便利な場所。オコーネル・ストリート12番地は、日豪羊毛貿易の先駆者として知られる商社、兼松江商の支社があった場所だった。そこに「鱒屋レストラン」をオープンさせた。
 しかし、またしても店は軌道に乗らず、厳しい状況に陥った行った。「母親、兄に資金の援助をしてもらわなければ、スタッフの給与を支払うことができなくなってしまいました。つまり、資金が行き詰まったんです。店にはお客様が入らなくなり、どんどんスタッフは辞めていく。そこで、いろいろな友人に資金繰りをお願いしました。そんな苦しい時、ロブスターを特別価格で提供することを思いついたんです。早速、観光会社に営業して回りました」。この閃きが、店の状況を良い方向へ導いていくことになる。お店への来店数はどんどん増えていき、弁当の注文があると早朝からでも注文を受け、作っていった。できることは何でもやった。その後、1998年ごろから鱒屋は、ディナータイムのプロモーションを現地の中国人や韓国人のマーケットに拡大していく。目指したのは、どの人種にも人気のある日本食レストランだ。その後、2000年のシドニーオリンピックのケータリングも行うなど、精力的に活動基盤を拡大していく。「期間中は1ケ月にわたり、フラットの値段は3〜5倍に跳ね上がり、働くスタッフの給与も割増となり、食材も数倍に値上がりしました。オリンピック開催前の準備期間中に様々なトラブルがあり、涙を流すスタッフもでてきました。しかし何とかスタッフたちが、最後まで諦めず間に合わせることができました。そして、後に日本のオリンピック団体から感謝状をいただきました」。シドニーオリンピック大成功の裏には汗と涙の絶え間ない努力が支えていた。
その後も積極的に店舗改革を行い、「鱒屋レストラン」は現在、現地のオーストラリア人から絶大な支持を誇る超人気レストランへと変貌した。

豪州日本食レストランの頂点を狙う!

「鱒屋レストラン」オープン後は、回転寿司の「誠」を1999年、2号店を2004年、トンカツの「Miso」を2008年、居酒屋の「居酒屋 鱒屋」を2013年、すき焼き・しゃぶしゃぶ・寿司の「寿司の鱒屋」と弁当の「誠BENTO」を2015年にオープン。様々な困難を乗り越え、繁盛店を経営する今、今後どのような展開をされるのか伺ってみた。「オーストラリアには素晴らしい食材があります。それをベースにした逸品料理、もっと攻めの接客、さまざまなプロモーション、そして接客係のパフォーマンスによってもっとレベルの高い繁盛店を作ることができるのではないかと思っています。また、私は繁盛していない大きな店を作るよりも、うどん一品のメニューしかない人気店を守り続ける方が成功だと思っています。働く人、お客様に満足をしてもらえないなら、いくら大きな器を作っても意味のないことです。各レストランの業態は違うが、どの店も、人種や世代に関係なく、喜んでもらえる店を目指しています。オーストラリアの食材は本当に優れています。各種の肉、チーズ、ワイン。最高のワインを提供するシーフード店。しかし、家族連れでも、予算20ドルの若いお客様でも行ける店。そして食材を生かして、どんな人種でも、どんな世代でも楽しんでもらえる店を目指しています。私の心の中で、豪州日本食レストランの頂点とは、オーストラリアが世界に誇れる日本食レストランなんです」。
左も右も分からないオーストラリアという広大な地にて自分自身の可能性に挑戦した定松氏。絶えず挑戦することの大切さを教えて頂いた。今でも他飲食繁盛店の研究や食材の視察を行う等、大変勉強熱心である。日本酒にもかなり精通している。このようなハングリースピリットは現代の若者に1番必要な要素ではないだろうか。底に落ちても這い上がる姿勢は多くの人々を感動させる。また、ワーホリ来豪者を積極的に招いており、今までで総勢3,000人以上もの人々が鱒屋グループを訪れている。後継者育成、人材のグローバル化にもかなり積極的だ。日々より良い飲食店経営を求める定松氏。全てはお客様の為に。そしてかけがえのないスタッフの為に。オーストラリアと日本を繋ぐ第一人者として益々今後の動向から目が離せない。最後に定松氏より頂いた言葉をここに記したい。
「Boys Be Ambitious!」。

思い出のアルバム
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ハイアットホテルでの修業時代 カレーを徹底的に研究していた頃 カレー試食会を開き、熱く想いを語る
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
グリーブポイントロードにオープンした
カレーレストラン
「誠」「居酒屋 鱒屋」「誠BENTO」の
建築家トーランド氏と共に
定松氏を心身支えた奥様
恵智子氏と共に
 
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