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第518回 株式会社レストラン京王 取締役社長 山岸真也氏
update 16/01/19
株式会社レストラン京王
山岸真也氏
株式会社レストラン京王 取締役社長 山岸真也氏
生年月日 1963年8月10日
プロフィール 品川生まれ。明治大学卒。京王電鉄株式会社に就職し、自動車事業部を皮切りに様々な部門、グループ会社(出向)での勤務経験を経て、2013年、現職に就任。株式会社レストラン京王は、「カレーショップC&C」をはじめ、コーヒーショップなどを、京王沿線中心に出店している。
主な業態 「カレーショップC&C」他
企業HP http://www.res-keio.co.jp/

レストラン京王について。

1968年の創業より、東京で暮らす、また東京を訪れた人たちに愛されてきた名店が「カレーショップC&C」である。
現在は、チェーン化され、京王線沿線に20店舗まで広がっている。この「C&C」以外にも、コーヒーショップ事業をはじめ、蕎麦店、給食コントラクト事業などを展開しているのが、株式会社レストラン京王である。
1976年設立の老舗企業でもある。
今回登場いただいた山岸氏が、株式会社レストラン京王の社長に就任したのは、2013年6月。山岸氏がちょうど50歳の時である。

ライパチ君。

山岸氏が生まれたのは、1963年8月10日。「品川生まれ、調布育ち」だそうだ。
元気な少年だったのだろう。「毎年、夏休みは、母の実家がある宮城を訪れ、1ヵ月くらいは平気で向こうで暮らしました」。兄弟は3人。山岸氏が長男で妹、弟がいる。
大好きな野球は、小学校から始めた。調布には、有名な調布リトルがある。「もっとも、私には別世界。あちらはエリート集団ですから(笑)」と山岸氏。野球は好きだったが、所属していたのは、町内の野球チームで、それも8番、ライト。お世辞にも野球が巧かったわけではなさそうだ。
しかし、山岸氏はめげることなく高校まで野球をつづけている。守備位置はライトからセカンドにかわり、打順は8番から2番に昇格したそうだ。

郊外へ、郊外へ、人と暮らしの輪が広がる。

「早稲田が第一志望だったんですが」と山岸氏は笑う。進学したのは、父親とおなじ明治大学。ところで、山岸氏が大学生だったのは、1980年の初頭である。日本経済が爆発的に伸長する時代でもある。東京郊外にもニュータウンが次々と建設され、それに伴い鉄道路線も日に日に延伸されていった。山岸氏は、そういう時代をみてきた。それがいずれ、鉄道会社に就職するきっかけとなったのかもしれないが、ここではひとまず大学時代の話である。
大学時代は、とにかくいろんなことをした。夏はプールの監視員、冬はスキー、テニスサークルにも所属していた。
「新宿の西口から出るバスに乗り込んで、スキー場に向かうんです。日曜から金曜までスキー場にいて、土曜に母に洗濯をお願いして、また日曜には、出発です(笑)」。
小学校の頃はスポーツがそれほど得意ではなかったが、高校まで野球をつづけたおかげで、バランス感覚も育ったのだろう。スキーも、水泳も、テニスもできるようになった。

当時、花形の開発部門に進みたかったが、配属されたのは、バス部門。

大学時代に、何か資格をと考え、山岸氏は、宅建主任の資格を取得している。「電鉄」「開発」という言葉が頭にあったからかもしれない。都市が開発されていく様子を、スキー場に向かう車窓から眺めたことが、そもそもの引き金だったのかもしれない。
ともかく、バイトにスキーに、テニスに明け暮れた大学時代が終わる。
「当時は、バブルに向かっていくこともあって、まず金融でした。倍率も高かった。一方、鉄道はいまほど人気ではありません。私は、87年、京王電鉄に入社するんですが、鉄道というより、不動産や開発部門で仕事したかったんです」。
ところが、配属先は、自動車事業部バス部門。希望とは違った。しかも同期20名のなかでも、バス現業部門に配属されたのは山岸氏を含めて2人である。
「今思えば、あの時があるから今の私があると言えるんですが、当時は、なかなか、そうは思えない。新卒の私には、きびしい部門でした(笑)」。

イスがとんでくる。

職場が荒れていた。希望とは異なっても、初めての就職に心躍らせていた山岸氏にとっては衝撃的な職場でもあったろう。
「イスがとんでくることもあった」という。
「私は、配車係りをしていました。運行表をつくる係りです。ドライバーを割り当てるのも、私の仕事。ところが、これがなかなかうまくいきません。全員、私より年上で、なかには、私の親より上の人がいるわけです。前職も様々で、個性派ぞろい。私のいうことなんか聞いてくれません(笑)」。
それでも、バス現業部門には2年間いた。乗務員に相手にされなくても、バスの運行を止めることはできない。人を動かすむずかしさも知った。学んだことは「相手を知ること」だったかもしれない。とにかく、この2年間が山岸氏の、社会人としての基礎をつくった。
「この2年間が、あったから今がある。そう思えるほど貴重な2年間だった」と山岸氏も語っている。
この2年が評価されたのだろうか。3年目からは、本社勤務となる。といっても、業務はバス部門の労働組合の窓口担当。あいかわらず人相手で、開発や不動産とはほど遠い仕事だった。

初めての、飲食事業。

「合計8年間、バス部門にいました。95年の7月には、京王レクリエーションに出向します。こちらはゴルフ場などを運営している会社です。ここで6年。京王電鉄に復職したのは2001年のこと。2002年から人事部労務担当に配属となり、2007年までこちらにいます。そののち、京王ストアにふたたび出向となり、5年。そして、2013年に今のレストラン京王の社長に就任しました。京王ストアでは、商売の勉強がイチからできたと思っています。当初は、売上を分解することも知らなかったんですから」。
ちなみに、売上は「客単価」×「客数」である。戦略を立てるうえでの重要な数字である。さて、流通である京王ストアから、今度はレストラン、つまり飲食に進んだわけだが、いうまでもなく飲食事業の経験はない。
またイチからのスタートだ。

「私たちは、人の命を預かっている」。

山岸氏は、「鉄道やバス同様、飲食も人の命を預かっている」という。実は、山岸氏が社長に就任して早々、一つの問題が持ち上がった。
「食品偽装の問題です。当時、様々なホテルやレストランが、この問題で揺れていました。調べてみると、うちにも一件あったことがわかったんです」。
着任早々だったが、「これは、一大事」と、最優先で問題処理にあたった。「京王は、クリーンな会社」というイメージを損なうわけにはいかない。何よりご迷惑をかけたお客様に「申し訳ない」という気持ちが、山岸氏を動かした。
「食品偽装は、たいへんな問題です。社長がだれかという問題ではありません。レストラン京王として、誠実に、真摯に対応しなければならない問題と考え、すぐに事実を公表し謝罪しました」。
いわばマイナスからのスタートとなった。消費者の目も一段ときびしくなったといえるだろう。
しかし、この問題に対応することで、「鉄道やバス同様、飲食も人の命を預かっている」という信念が山岸氏のなかに生まれた。それは信念であると同時に、「ひとときも忘れてはならない責任」であるとも語った。
「現場に立って、生の現場をみて、自分の口で語らないとダメだ」と山岸氏はいうのも、この信念と無関係ではないだろう。
飲食という「現場」に立った時、山岸氏は今まで以上に強い意志で仕事に臨むようになった。飲食事業の根幹を「責任」という言葉で表現したことからも、その思いが伺い知れる。
さて、山岸氏の口から、次はどんな言葉がつむぎだされていくのだろう。最後は、そんな言葉に耳を傾けよう。

歴史と未来。レストラン京王の今から。

「うちのC&Cは1968年の創業なんです。CoCo壱番屋さんが1号店をオープンされたのは1978年なんで、それよりも古い。しかし、店舗数だけでも比べること自体申し訳ないくらのひらきがある。そういう意味でも、もうちょっとは頑張らなければと思っています。10月16日には中国合弁会社が上海に1店舗進出。海外での店舗数でも、まったく違うわけですが、こちらも頑張っていくつもりです」。
「ただ、うちにもほかにないものがあって、その一つが47年の歴史なんです。学生時代に食べた味だと言ってくださる方も多いですし、芸能界にも案外ファンが多い。こうした歴史を大事にしていくのも、今の私たちの役目だと思っています」。
「沿線での出店ですが、これは皆様が思うほど簡単じゃない。京王線は営業エリアも短く、主要な駅もそう多くないんです。そういう意味で、出店できるエリアも限られている。だから、今ある店舗を大事にしながらリニューアルする、というのは行っていなかければなりませんね」。
山岸氏の言葉からは、現状に満足しない強い思いも透けてみえるが、その一方で、歴史を継ぐ者として、代々、引き継がれてきた歴史を大事にしようという思いも伝わってくる。
歴史を継承しつつ、未来の芽を植え続ける。
このかじ取りは、いうまでもなく難しい。しかし、それもまた、従業員を含め、レストラン京王に期待するすべての人たちに対する、山岸氏の責任といえるのではないだろうか。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
学生時代(監視員) 自動車事業部時代 京王ストア時代(デコポン生産者と)
 
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