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第520回 株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏
update 16/01/26
株式会社新山オールスターズ
新山直人氏
株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏
生年月日 1979年5月25日
プロフィール 愛知県名古屋市出身。高校中退後、台湾ラーメンの名店で勤務スタート。以来、12年修業の日々を送り、2008年8月1日、「麺屋はなび」1号店をオープン。TVの番組の<夏ラーメン王、決定戦>に参戦し、初代チャンピオンに。「ラーメンの味に完成はない」と、進化をめざす。数年前には今までのカレーの概念をくつがえす、台湾カレー専門店を開業。更に「担々麺はなび」の開業と進化は留まるところを知らない。
主な業態 「麺屋はなび」「担々麺はなび」
企業HP http://menya-hanabi.com/
2015年9月現在では、200店舗を超えているそうだ。「台湾まぜそば」を出す店の数である。「元祖台湾まぜそば」はいうまでもなく、名古屋に本店を置く「麺屋はなび」。今回は、この「麺屋はなび」の店主であり、株式会社新山オールスターズの代表取締役である新山直人氏にお話しを伺った。

高校を中退して、飛び込んだラーメン店。

幼稚園で、突然、極貧になった。父の会社が倒産し、両親が離婚したからだ。母と妹、3人、食べることも難しかった。
妹はまだ3歳。「いつの頃からか、私が父親代わりのような存在になって。母だけじゃなく、妹にも貧乏な思いはさせたくなかった」と新山。しかし、それが実現できるのは、まだ先の話。3人の生活は、まだ母親1人の背にかかっていた。
「母が、スナックをオープンしてからは、経済的には安定しました。しかし、それも一時の話で、私が高校生の頃に、母の店も閉店をよぎなくされました」。
新山氏は、高校を中退する。
「中学生になるまで風呂もないアパートに何年も住んでいました。だから、貧乏には慣れていましたが、もどりたいわけじゃない。もどらないために、私は、高校を辞め、翌日から台湾ラーメンの店で勤務します」。
店主からは、「やる気を持ってこい。汚れてもいいジーパンをはいてこい」と言われたそうだ。その店が、台湾ラーメンの名店「幸龍」である。

修業期間、12年。でも、オレは、まだまだだと思っているよ。

新山氏の修業は、12年に及ぶのだが、最初の2年で挫折しかけたことがある。
「幸龍は、すごく流行っていたラーメン店です。しかし、きつい。店主も、こわい。だから、だれもつづかない。私も、2年くらいで、一回、逃げ出してしまうんです(笑)」。
ラーメン店をトンズラし、引越しのアルバイトをしたり、イタリア料理店、大手ラーメンチェーン等で1年ちかく勤務した。
しかし、やはり中華だと思い直し、頭を下げ、「幸龍」に舞い戻った。
「幸龍は私とって、原点です。合計4年、イタリアン、大手ラーメンチェーンも含め6年ですね。そろそろ視野を広げたくなって、『白揚』というお店に転職します。幸龍も原点ですが、こちらも私のコアをつくってくれたお店です」。
「白揚」は「薄味だった」という。
「なにしろ、師匠はトンカツにも何もかけないんです。うそだと思うでしょ。でも、師匠に言わせれば、『揚げたパン粉には塩分があるだろ』って。最初は、ぜんぜんもの足りなかったんです。スープをいただいても、『これ、お湯だろ』みたいな(笑)。でも、慣れてくると師匠の言葉を、私の舌が理解するようになったんです」。
「この味を理解できたのは、大きい」と新山氏はいう。
「薄味とは元の食材の旨味を最大限感じられるよう、調味料を少なくしたもの。調味料で味付けしていないスープ、野菜を食べて甘いと感じるのは旨味を感じている証拠です」。
「薄味というのがわかって初めて濃い味もつくることができる。それを知ったのも、この店です」。
残念ながら、「白揚」は今はクローズしてしまったそうだが、新山氏がいた頃には、社長クラスの人たちをはじめ、野球選手、芸能人もお忍びで来るような隠れた名店だったそうだ。
この店で新山氏は6年間、勤務している。もっとも、計12年の修業生活も、新山氏にとっては「まだまだ」とのこと。自惚れないのが、新山氏らしい。

2008年8月1日、オープン。17歳から追いかけた独立の1日目が始まる。

17歳の頃から思っていたことがあった。独立である。
「だって、そうでしょ。母や妹にひもじい思いをさせないためには、それしかないから」。ちなみに、新山氏は、幸龍で勤務するようになってから、月に8万円ずつ母に渡している。そんな新山氏である。氏の言う通り、母と妹のためにも「独立」という二文字は、いつか実現すべきことだった。
「小さな頃から料理が好きで、中学校の頃にはもう周富徳さんが書いた料理の本を参考に料理をつくっては、友だちにふるまっていました。しかも、12年間の修業をへての独立です。まずいはずはないんです。ですが、自信とはうらはらに、オープンしてから何日たっても、1日、数人しか客がこないんです」。
「まじかよ」と、口をついた。「私がオープンしたのは、いまとおなじラーメン店です。ラーメンでもいちばん難しい塩ラーメンで勝負しました」。
 しかし、客が来ない。とはいえ、それでへこたれる新山氏ではない。ちなみにオープンは、2008年8月1日。

2つのトロフィーが物語るもの。

「麺屋はなび」が、真の意味でオープンしたのは、半年後だったかもしれない。「あそこに2つのトロフィーがあるでしょ」と言いながら、新山氏がつづけてくれた。
「東海地方では、みんなが観ている『PS』っていう情報番組があるんですが、その番組から創作味噌ラーメン企画のオファーを受けたんです。それがきっかけで『夏ラーメン王決定戦』という番組にも出場させてもらって…」。
その大会で、審査委員全員が満点投票するという奇跡を成し遂げ、初代チャンピオンになった。それが、1つ目のトロフィー。もう一つは、下半期いちばん反響があった店としていただいたトロフィーである。
2つ目のトロフィーが物語るように、1つ目のトロフィーが人気に火をつけた。もともと、旨いラーメンである。いったん火がつけば、だれもが押し寄せてきた。

「台湾まぜそば」の誕生秘話と、進化をめざす、新山氏の発想。

では、この「麺屋はなび」の人気メニューである「元祖台湾まぜそば」の誕生秘話も、ご紹介しよう。
「最初は、台湾ミンチをつくったんですが、失敗だ、と思っていたんです。私は、けっこう短気なほうだから、つくってうまくいかなかったから、一度は作った台湾ミンチを捨てそうになっていたんです。当時、うちの店に、女の子なんですが、料理をかじった子がいて、それはもったいない、茹で上げた麺にかけてみたらどうですかっていうんですね。それで、そうかぁ、っていいながら、やってみたら、けっこういける。『これは!』と、思って、アレンジをして、『台湾まぜそば』が誕生するんです」。
失敗から誕生したラーメン。つくるべくして、つくれない、極旨ラーメンはこうして生まれたわけである。
もっとも、新山氏は、味を守るということは変化することだという。だから、当時の「台湾まぜそば」といまの「台湾まぜそば」はおなじではない。
おなじなのは、店の前にできる行列。つまり、おなじ人気というわけだ。「もともと、台湾まぜそばは限定メニューからスタートしているんです。好き嫌いがはっきりする味。それでいいと思っていたんです。しかし、それが受けてヒットする。でも、それでいいかと言えば、そうじゃない。元祖と名乗っていますが、元祖といっても、おなじ味を守り通すという意味じゃないんです。それでは、人気がなくなってしまう。私は大事にしたいのは、人気なんです」。
元祖は、進化する。
もっとも、新山氏にとって「人気」は味のバロメーターである。味の良し悪しを数値化したものとも言えるだろう。その時々の、人々から支持される味、そういう味をつくっていく決意を、「人気」という言葉に託しているともいえるのだ。
この心意気、あっぱれである。冒頭で述べたように、この「台湾まぜそば」を出す店は、2015年9月、現在、全国に200店もある。
「ただで、便乗させるのはもったいない」と言う人もいるが、新山氏は意に介さない。むしろ、真似てくれる店がでるのを喜んでいる。
「台湾まぜそば」を知ってもらうには、これがいちばんと思っているからだ。この話からも分かる通り、新山氏の発想は、つねに先を行っている。

限界を示す、あえて、目標は立てない。

最後に、今後の目標を伺ったが、明確な数値はないとのこと。「目標を定めるのはいいことだが、たとえば年間、これだけの店を出店する、なんていえば、それが限界ってことでしょ。そういうことはしたくない」と新山氏。
目標を定めることによって、新山氏自身また会社の限界点を決めることになるのがイヤだとのことだ。この発想も新しい。
 今後の目標の代わりに、現在、新山オールスターズが掲げる理念をご紹介しておこう。2年前から掲げた理念だという。
「うちの理念は、『世界中の、なるべく多くの人の、美味しい幸せを作る会社』です。この理念をかたちあるものにしようと、スタッフ全員でいまたたかっています」とのこと。
理念のなかにある、「なるべく」の4文字が新山氏らしいと思った。

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