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第521回 株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏
update 16/01/26
株式会社サンエイフーズ
韓 永紀氏
株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏
生年月日 1970年11月4日
プロフィール 3歳の時に両親が焼肉店を開業する。店は順調に拡大。バブル期には3店舗を出店し、ゲームセンターや雀荘も経営するようになる。大学を卒業した韓も、宅配寿司の店を経営。一時は3店舗まで拡大するが、10年後、ついに破産に追い込まれる。改めて父の店に入り、店とともに自らの再建に乗り出す。
主な業態 「うしくろ」
企業HP http://www.sfs-ltd.jp/

「韓国人の誇りを持って生きろ」という父親の言葉。

父は韓国済州島の生まれである。「父は18歳の時、裸一貫で済州島から日本に来ました。10人兄弟の長男で、家族を養うためもあったのでしょう」。当時、済州島での生活はけっして恵まれたものではなかったようだ。
母方も、在日韓国人である。「『韓国人として誇りを持って生きろ』が、父の口癖でした」と韓。来日し職を転々としながらも韓国人の誇りをけっして忘れなかった人である。
韓が3歳の時に、赤羽で喫茶店のマネージャーをやっていた父が亀有に焼肉店を開業する。
「亀有にいた頃は、祖母が私たちの世話をしてくれていました。当時の私は天真爛漫を絵に描いたような少年で、小学1〜2年生の頃は夕方暗くなっても帰ってこないので良く『捜索願い』が出されたそうです(笑)」。「亀有の店を母の弟に譲って、小松川に移ったのは、私が小学4年生の時です。祖母は亀有に残ったものですから、それから兄弟3人、向かいの定食屋でごはんを食べるのが日課になりました。父も、母も忙しかったからです。数字のことまではわかりませんでしたが、流行っているのは子ども心に判っていました」。
父も、母も頑張った。子どもに注ぐ時間もなかった。子ども達もそのことは理解していたに違いない。ただ、父親に対する韓の気持ちは複雑である。頭では理解できたが、感情では理解に苦しむ父親だった。
「からだの大きな父は、正義感も強く、人望も厚い」と韓はいう。今では、ある団体のトップとなり、韓国大統領が来日した際には、会話も交わしている。
また、「済州島に残した家族には、来日してからずっと仕送りを続けていた」というから頭が下がる。だが、反面、家族に対しては、一方的でしかなかった。
韓は父のことをどう思っているのだろう。敬愛していることは事実だが…。いずれにせよ、その父のDNAは間違いなく、韓に受け継がれている。正義感も、大胆さも含めて。

国も、人も華やかな、バブル時代。

韓は、幼稚園から合気道を始め、小学2年生の頃には剣道も習い始めている。運動神経も悪くない。韓の兄弟は3人。韓は、長男である。「昔から仲がいい3人で、親父からもみんな平等に怒られた」と言って笑う。
もともと裕福だったが、それ以上の暮らしが始まったのは、高校1年生の頃からである。
「店を鉄筋3階建てに増築。菊川を買収し、新たに土地も仕入れました」。購入した土地を利用し、1階にゲームセンターをオープンし、2階で雀荘を営業した。バブルの頃である。その波にうまく乗った。そう言えなくもないが、借金も5億円程度に膨らんでいた。
「毎月の返済だけで、数百万円です。それでも、ぜんぜん問題がなかったようですね。もちろん、後にこの時の借金がクビをしめるんですが、当時は、日本全体がイケイケです」。たしかに、韓がいうように日本国中がアクセルを目一杯踏み込んでいる時代だった。その時代、韓は大学生だった。
「明治学院に進学しました。うちの家もバブル真っ最中です(笑)。小遣いが月5〜6万円。私もバイトで月に十数万円儲けていたもんですから、お金には困りません。また、親父にソアラを買ってもらい、フェアレディZも乗り回していました」。
いま振り返っても、楽しくて仕方なかった時代だと韓はいう。
ところで、当時の新卒採用は売り手市場で、大企業が値札も観ずに学生たちを買い漁った時代である。それほど学生に優位な時代だったが、韓は「就職」しようと思わなかったそうだ。韓国人というレッテルが貼られてしまうことに、違和感があったからだ。
だから、企業に属さない「税理士」になろうと思っていたそうだ。実際、簿記の専門学校に入り直している。まだまだ学生をつづけていたい、という気もなくはなかったから、それで安堵したことだろう。 しかし、入学してからしばらくして、父から突然、呼び出された。

「商売をやりなさい」。また親父の無理難題が始まった。

「私が、簿記の専門学校に進んでからです。父親に呼ばれ、『今何をしているんだ』って言われるんです。『こうこうこうだ』と説明すると『辞めろ』の一言です。そして『商売をやりなさい』っていうんです」。「また父の無理難題が始まった」と韓は苦々しく思ったそうだ。しかし、舞台は整っていた。韓1人が、降りるわけにはいかなかった。
「私にとっては叔父ですが、母の弟が和歌山から東京に出てきて、うちの店で仕事をしていたんです。叔父は、寿司職人だったもんですから、その叔父の発案で『宅配寿司をしよう』ということになっていたんです」。
「やらない」という選択肢はなかった。「流行っている宅配寿司にアルバイトで潜入して、ノウハウを頂戴して。数年前にオープンしたゲームセンターをクローズしていたもんですから、そこを改装し、スタートを切りました」。

成功と失敗。折られた天狗のハナ。

ケータリングというのはイートインのスペースを持たない。客が来るわけではないから、立地が悪くても問題ない。内装に、金をかける必要もまずない。しかもイートインだと、満席以上は詰め込めないが、ケータリングは生産力の限界までオーダーを受けることができる。簡単に言えば、利益率が極めて高い。
これを前提に、韓の話を聞くと、いかに儲かったかが理解できる。
「オープン当初から、もうぶっちぎりです。予想していた数字を楽々超えて、初月から4ケタを窺う数字となりました。平均しても700〜1000万円はありました。利益も、もちろん相当な額です」。
天才だと思ったことはなかったんだろうか。天狗になることはなかったんだろうか。
「ハッキリ言って天狗になっていました(笑)」。1年後には2号店も出店。こちらも、ヒットした。毎月、数百万円が手元に残る。
「けっこうハメも外しました。週3回はキャバクラに行って…」。
高級外車を購入し、乗り回したりもした。しかし、日本全体の雲行きが悪くなる。「7年目から陰り出して、すぐに土砂降りです(笑)」。
トドメとなったのは、3号店を出店したことだった。「たまたま3000万円まで融資するという金融政策がスタートしたんです。当時、2つあった店舗はいずれも採算ギリギリだったもんですから、この制度を利用して、挽回しようと思ったんです」。「いま思えば、浅はかですが、当時は、『せっかく貸してくれるんだから』くらいにしか思っていなかった。店舗が増えればそれだけ利益も上がると」。
この3号店が、大失敗だった。月商200万円。他の店で上げた少ない利益を全部、持っていかれた。「すぐに辞めればよかったんでしょうが、ズルズル1年もひっぱってしまいました」。人の問題も大きかったのだろう。オペレーションもまるでできていなかった。「悪循環ですね。注文が欲しいから、1時間はかかるのに『45分で行けます』って言ったり、7時にお届けするはずが7時半や8時になったり。キャッシュも底をついて。給料日の前日には、キャッシングコーナーに走りました。スーパー自転車操業です(笑)」。
結局、ケータリング寿司は10年続けた。だが、もはやどうすることもできない状態となっていた。残されたのは破産という選択だけだった。韓が33歳の時のことである。

出会いと感謝。

「若い時に失敗して良かった」と韓はいう。体力もある。気力だってだそうと思えば、出すことができたからである。再起の原点となったのは、父の店だった。すでに弟が入社し、再建を開始していたが、なかなかうまくいってはいなかった。
「V字回復の要因は?」と聞いてみたら、「学び続けたことと感謝と出会いです」と韓。特に「感謝」の二文字は、失敗して初めて韓の心に刻まれた文字と言っていい。今までにない出会いもあった。特に「米沢亭」の社長との出会いは、韓のその後を決定付けた。「ある勉強会で、知り合って教えを乞うたんです」。
「米沢亭」は月商5000万円のモンスターだった。車で2時間待つ人もいる繁盛ぶりだった。「当時、うちの店は、客が1日1組いらっしゃるかどうか。『今日もだめだったねぇ』って、その繰り返し。やることがないから、いろいろなことを試みました。ふらっと来てくださったお客様にも最大限のもてなしをして。来て下さるのがあれほどありがたいと思ったこともなかった。感謝、感謝です」。
「その一方で、私は朝から、車を駆って群馬にある米沢亭に向かいました。肉のことを教えていただくためです。7時に出て、11時に着く。高速も使えなかったんです。お金がなかったから。それで3〜4時間教えてもらって、夕方には店にでる、そういう生活を2週間続けました。これが私のなかで大きな自信にもなったんです」。
すべてが逆回転することもあれば、逆にすべての歯車が正しくかみ合うこともある。韓の動力が、兄弟、そしてスタッフたちにも伝わり、店が動き出す。今まで二の足を踏んでいたお客様まで、扉を叩いてくれるようになった。「味もそうですね」と韓はいう。けれど、それだけでもないだろう。
出会いも含め、すべては、やはり「人」なのだ。ある意味、回り道ではあったが、いまその思いに辿る付けたこと、それもまた韓の財産の一つといえるのではないだろうか。いまからの韓に最大限、期待したい。「感謝」の二文字を知っているオーナーに迎え入れられるほど幸せなことはないからだ。

10店舗体制への幕開け。

父の店を受け継いだ韓は、再出発を果たした。
厳選した最高級の【A4・A5ランク】の黒毛和牛を仕入れ、仕込み方法を変える。さらに、修行時代に学んだタレのレシピと韓家秘伝の味とをミックスするなど、味の変革にも力を注いだ。味はもちろんサービス面も徹底、スタッフの意識を高めるなどの施策を続けたことで、売り上げは好調。週末は行列ができるまでの店に成長した。
現在、着実に売上を伸ばし、菊川、東小松川、千駄木、瑞江と、4店舗体制を構築。4店舗体制が経営基盤となり、目標である10店舗体制への高みを目指す時がきた。創業以来一貫して食材にしてきた黒毛和牛というブランド牛の味覚を、より身近に楽しんでいただきたい。10店舗体制への幕開けであり、実現への決意でもある。

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