株式会社ギフト 代表取締役 田川 翔氏 | |
生年月日 | 1982年11月8日 |
プロフィール | 千葉県生まれ。高校卒後、横浜のラーメン店で修業を開始。6年の修業期間を経て、2008年「町田商店」を開業。以来、「横濱家系ラーメン 町田商店」を中心に店舗展開を図る一方で、多数のラーメン店をプロデュース。2015年11月現在で、その数は270店舗に達している。2016年のシンガポール直営店進出、2018年の株式上場が現在の目標。 |
主な業態 | 「町田商店」他 |
企業HP | http://www.gift-group.co.jp/ |
今回、登場いただいた株式会社ギフトの代表取締役、田川 翔氏は、1982年に千葉県船橋市で生まれている。兄弟は2人で、田川氏が次男。
「父はサラリーマンで、母は元教師。教師だったこともあって、母はとにかく教育熱心でした。兄とは3つ違いです」。
「私は小さい頃から、ラーメンが大好きだったんです。5歳の頃に『ニューラーメンショップ かいざん』っていうお店のラーメンを食べて虜になってしまったんです。あの当時、外食は何がいい?と聞かれたら、決まって、『ラーメン』って言ってました(笑)」。
とくにお気に入りは「ニューラーメンショップ かいざん」のラーメン。千葉にいる間は、毎週通ったほどだ。いまも時々、食べに行くそう。
「いまは『ラーメンかいざん』というブランドです。私の原点ですから、今も時々、原点をたしかめに行くんです」。
「そうそう、この味。ここから、はじまったんだな、って」。
「父がサラリーマンだったといいましたが、もう典型的なサラリーマンで、帰ってくるのは私たちが寝静まってから。それでいて朝は、私たちよりうんと早い。あるとき、『夏休みってあるの?』って質問をしたら、『ない』っていう答えだったんです。まだ子どもでしょ。『夏休みがない』と聞いて、『これは、やばいぞ』って、子ども心にそう思って、それから『サラリーマンになってはいけない』とかたく決意するんです(笑)」。
今なら仕事の意味もわかるし、仕事のたいへんさも、たのしさも理解できる。しかし、当時は「夏休みがない人生」なんて考えられなかった。
父親とは違うタイプの父親と出会ったのも、いま思えば一つの分岐点だった。
「中学生の時、溜まり場のような家があったんです。けっして広くはないんですが、いごこちがよかった。その家の親父さんは、ブルーワーカーで17時には家にいます。裕福ではなかったはずなんですが、みんなで食卓を囲んでいるのが、とても幸せそうでした。どこかで、うちの親父と比較していたんでしょうね。あぁ、こういう生き方もあるんだなと」。
「母親から、とにかく高校だけはと言われて進学するんですが、中学の時にはもうラーメン屋の店主になると決めていたんです。理由の一つは、ラーメンが好きだったこと。もう一つは、サラリーマンにはならないと決意していたからです」。
教育熱心な母親が「息子の宣言」を受け入れたのは、「高校に進学すれば気持ちがかわるだろう」というかすかな希望を抱いていたからだ。進学したのは、学区内でもベスト2の進学校。周りは進学希望者ばかりである。影響されないわけがない。
「母はそう思っていたらしんですが、まったくの期待はずれ。だいたい母がいうもんだから進学はしましたが、勉強はまったくしない。なんとか出席日数はキープして卒業はできましたが、テストは、いつも最下位。進学を希望したとしても無理な状態だったと思います(笑)」。
話を聞いていると、「進学も無理な状態」を、確信犯的につくりあげたようにも思えてくる。
「そうですね。当時はとことんジブンを追い込みました。高校時代は悔いなくあそび尽くす、と決めたのも、その一つです。大学進学の道も、もちろん残せません」。
潔い3年間が、過ぎる。中学3年で宣言した「ラーメン屋、開業」へ。甘えも許されない道がスタートした。
修業に入ったのは、よく通っていた横浜のラーメン店だった。「家族は、あいつの人生はもう終わったな、みたいな話をしていたようです。ただし、私も、これで終わりかなと、入店そうそう思ったことがあるんです」。
田川氏は、当時ヘルニアを患っていた。立ち仕事の連続である、すぐに腰が悲鳴を上げた。
「あの時は、やべぇ、と思いました。ただ、家族の反対も押し切ってまで入店したもんですから、逃げだすなんてできません。事情を話すと、いい先輩たちばかりだったんですね。『俺も、やばいんだ』なんて笑いながら、みんなが独自の腰痛対策を教えてくれるんです(笑)。そういう温かさが、私の励みになりました」。
「こんちくしょう」じゃなく「ありがとう」。そういうコミュニケーション。人に恵まれたスタートである。
当時の目標は、ラーメンづくりの修業と資金づくりである。「年間100万円ずつためて、1000万円で起業しよう」。それが、後者の計画だった。しかし、誘惑はなかったんだろうか?
「高校時代にあそび尽くしていましたので、いまさら、というのもあったし、だいたい時間がない(笑)。休みは、定休日の月曜だけ」。
1年もすると、田川氏に対する家族の態度もかわってきた。ラーメン店に入店して4年、22歳で、田川氏は中学時代から付き合っていた女性と結婚する。
「ある意味、結婚が、引き金になったといえるかもしれません」。
ただ、子どもができて気持ちが揺らいだ時もある。独立すれば、今以上に家族との時間が少なくなると思たからだ。それでは何のためにサラリーマンという選択を捨てたか、わからなくなる。
「あのとき、妻が『ぜったい独立して』と言ってくれなかったら諦めていたかもしれません」。
妻の気持ちも確かめた田川氏は、もう後にはもどらないと退職を店主に告げる。期限は、1年後。世話になった店主も、了解してくれた。
田川氏が、店を卒業したのは2007年の8月である。9月から物件探しをスタート。しばらくして、これだという物件に巡り合った。
「たまたま町田駅に降りた時にピピンとくる物件があって、よし、ここからスタートしようと思ったんです」。
オープンは、翌年1月。会社設立も、この日となっている。いよいよ小さな頃から思い描いたラーメン屋への挑戦がスタートする。いうならば、ジブンとの約束を果たしたことになる。
「最初は、8年上の先輩を誘って2人でスタートしました。それが、『横濱家系ラーメン 町田商店』の始まりです。すぐに、いっしょにやりたいと言ってくれていたもう1人の先輩にも入ってもらいました」。
「今思えば、オープン当初は良かったものの、だんだんと客が減っていきました。私がスープに納得しないと店を開かなかったのが原因です」。
「スープが安定しなかった」と田川氏はいう。子どもの頃から何よりラーメンが好きだった田川氏である。意に反するスープを出すわけにはいかなかった。それはジブンを裏切ることでもあったから。
「しかし、きつかったですね。店を開けてないから、月商も150万円くらいで給料も払えない。あと5万円足りなかった時は、おふくろに頭を下げ、10万円貸してもらったこともありました」。
軌道に乗り始めたのは、1年くらい経ってから。スープが安定してきたことがいちばん大きな要因だ。
「スープが完成するのは、1年半くらいですね。それで、店もどんどん良くなった。創業時に申請していた助成金が入ったことで、ひと息つけたのも大きかった。お客様も増え、2号店を出店するんですが、その頃から、ラーメン職人ではなく、経営者にならないといけないと思うようになっていったんです」。
ラーメン職人。いわば、小さな頃から田川氏が憧れてきた職業である。
「軌道に乗ると、正直、利益も大きいです。私1人なら、それで十分だと思っていたでしょう。しかし、一緒にやってくれた仲間たちがいます」。
「少なくとも1000万円を目標にしよう」と思ったそうだ。スタッフたちの給料のことである。「そのためには、出店しなければならないんですが、カベとなったのが、スープや麺。こればかりは職人がいないとどうにもならない」。
田川氏は思案を重ね、決意する。スープや麺を製造すること。職人はいらなくなる。
「うちは2号店を出店する時から、スープや麺を製造しているんですが、これは出店のカベを乗り越えるための秘策だったんです。ただ、うちの店だけだとボリュームが小さいんで、メーカーはどこも相手にしてくれません。営業をしている知人に相談したところ、卸先を紹介してくれたんです」。
ちなみに、この知人も、もとラーメン店の先輩。この時は、すでに店を辞め、保険の営業をされていたそうだ。のちに、町田商店に入社する。
スープや麺を卸す。これが、縁となって、相談される機会が増え、田川氏がプロデュースする店舗も増えていった。
それはともかくとして、とにかく「職人を育てるのは、たいへんだ」。では、どうするか。田川氏の答えは明確だった。職人から経営者へ。田川氏自身が舵を切ったのも、この時だろう。
以下では、1号店オープンから数年間の大まかな売り上げ推移を掲載する。
本店/当初:平均月商250万円→5年後からは1000万円をキープするようになる。
2号店/当初から700万円をたたき出す。
3号店/当初300万円くらいだったが、こちらも1000万円となる。
田川氏、自ら爆発したという4号店は、10坪にかかわらず初月から1000万円以上を叩き出している。
むろん、これは客の心をとらえているからにほかならない。しかし、田川氏の経営者のとしてのとびぬけた力量も忘れてはならないだろう。
ところが、経営者、田川氏のやる気が萎えたことがある。
「4号店の網島を出店した頃です。卸している店舗数も50店舗くらいになって、売上高は5億円に達しました。正直、もういいだろう、これくらいで。そういう風に思ってしまっていたんです」。
5億円。企業の指標は売上だけではないが、当時の規模からすれば、悪くない数字である。十分な利益をたたき出せたからである。
これ以上をめざすのが、いいのか、悪いのか。欲をかかないリーダーであればあるほど、もう十分と思うだろう。
「そうですね。もうこれでいいだろっていうか。これだけの売上があれば、みんなを幸せにできるだろうというのがいちばん強い思いでした」。
ところが、田川氏の思考が停滞していたこの時、ある人物が覚醒する。綱島店に抜擢した店長である。その姿をみて田川氏は「考えを改めた」という。
どういうことだろう?
「今、当社のナンバー3になってくれているんですが、当時は、正直、パッとしなかった。ところが、店長になったとたん、覚醒するんです。おい、どうしたんだ?って 心配になるくらいにです。彼の一件があって、改めて、人が成長するステージについて考えるようになったんです」。
「今までは、『いい給料を払えるようになる』こと。それが私の目標でした。しかし、商売はそれだけじゃない。もっと大事なことがあると、この時、気づかされたんです。それは、つまり成長できるステージがあるか、ないかです」。
この時、網島店の店長とともに田川氏自身も覚醒した、と言えるのではないだろうか。経営者として、一段と高いレベルに達したのは間違いない。
最後に、今後の方向性を伺った。
「当面の目標は、海外出店と上場ですね。2016年にはシンガポールに直営店の出店。2018年には、株式の上場をめざしています」。
その布石の一つとして、株式会社コロワイドから「四天王」を買収したそうだ。この一手も大胆。振り返ってみれば、「こうだと決めたこと」は、とことんやり抜く、これが田川氏流の生き方のような気がする。
ジブンとの、またヒトとの約束を守る。田川氏の生き様は、ある意味、大胆で、ある意味、慎重だ。「約束」の二文字を果たすために、生きれば、こうなるという見本かもしれない。
守り抜いて果たしたジブンとの約束。そして、これからも守り抜いてくお客様、スタッフ、家族との約束。すべての約束が、尊い。
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