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第524回 株式会社たき航グループ 代表取締役 滝 航也氏
update 16/02/16
株式会社たき航グループ
滝 航也氏
株式会社たき航グループ 代表取締役 滝 航也氏
生年月日 1970年6月29日
プロフィール 横浜市旭区生まれ。20歳から運送会社に勤めるかたわら、キックボクシングジムに入門し、キックボクサーに。プロデビューも果たすが、飲食を経営するジムの会長に刺激され、飲食の道に転職。25歳。会長から店を譲渡されるが、27歳でゼロから店づくりに着手し、相鉄線星川駅前に「焼肉どうらく」1号店を出店。これが、滝氏の実質的な創業店となる。2015年11月現在、店舗数は12店舗に広がっている。
主な業態 「焼肉どうらく」「ちからや」「焼肉 極(KIWA)」他
企業HP http://takikou.com/

弱い者は、守った。正義の味方、参上。

兄とは4歳、弟とは11歳、年が離れている。「だから、兄弟喧嘩をした記憶はない」と、今回、登場いただいた滝 航也氏。
滝氏は、1970年6月29日、横浜市旭区に生まれる。父は自営業者で、母方の祖母は品川で焼鳥店を経営していた。
「父もそうですが、祖母もいわば自営。だからでしょうか。小さな頃から『人の下ではたらくのはイヤだな』と思っていたんです。当時から、人にアレコレ言われるのは、イヤというタイプでした」。
学校では、やんちゃ者だったが、正義感はつよかった。悪い奴が相手だと手がつけられなくなったが、一方で、弱い者は絶対に守った。
スポーツはなんでもできた。サッカー、水泳、陸上…、体育では、いつも注目されていた。ちゃんとスポーツをつづけていたら、なんらかの選手になれていたかもしれない。しかし、中学になって早くも青春を謳歌しはじめる。

パンチパーマをかけた、正義の味方。16歳から社会にでる。

「いま思えば、若気の至り」と滝氏は笑う。「パンチパーマをかけ、肩で風を切って、俺は強いんだみたいな…」。正義感も強かった滝氏は、みんなを束ねてもいた。
それでも、高校にはかろうじて進学。しかし、通ったのは半年に過ぎなかった。
「私は、16歳からはたらいています。板金塗装や、免許を取ってからはトラックにも乗りました。そうですね。21歳で大型や牽引の免許を取って、23歳になった時には給料が100万円を超えていました」。
それでも、仕事は将来独立するためと割り切っていた。だから、給料が良くても、ずっとトラックに乗るつもりはなかったそうだ。
「20歳から、仕事のかたわら、キックボクシングを始めました。精神力を鍛えるのが目的でした。サンドバックに向かっていると精神が研ぎ澄まされるんです」。
プロの試合にも出た。
「だいたい17時に仕事が終わり、それから1時間くらいかけてジムに通う毎日でした。当時、キックボクシングはまだまだマイナーなスポーツだったんですが、私は、全身を使いたかったから、それならキックボクシングだと思ったんです」。
からだを動かしているうちに、汗が滴となり、眠っていた強い精神が覚醒する。このジムで、もう一つ覚醒した心があった。
それが、起業である。

起業へ、と。

「元々25歳までには起業しようと思っていたんです。でも、何をしたらいいかわからない。ジムに入門したのも、そういう迷いを吹っ切りたかったからなんです。このジムの会長がホルモン焼の店を経営していたことで、飲食への道が開けます」。
ジムの仲間と会長の店に通うようになって、飲食に興味がわいた。23歳で、前職を退職し、会長の店で修業を開始する。
「ただ、小さな店だったものですから、学べるものも少なかった。それで、飲食で独立するなら、ちゃんと学ぼうと、数ヵ月して大型のチェーン店に転職します。この時には、もう気持ちも固まっていましたので、25歳までの2年でどれだけ勉強できるかが勝負だと自分に言い聞かせ、真剣に取り組みました」。
肉の仕入れ、調理、すべての仕事に真剣に向き合った。2年後、頑張る滝氏にジムの会長が「店を譲渡する」という話を持ち込んできた。
「ジムの会長には、飲食の楽しさを教えていただいたばかりか、起業のチャンスもいただけたと思って、今も感謝しています。会長がくれたチャンスというのは、元々、私もいたホルモン焼のお店の譲渡話でした」。
滝氏が25歳の時、たまたま会長が新店を開業することになり、元のホルモン焼の店を滝氏に譲渡するという話を持ちかけたのである。滝氏は、むろん快諾。
経営権を買い取るには、資金がいったが、屋号も内装も、そのままで始めることができた。
25歳、目標通り、滝氏は独立する。

7坪テーブル5卓。300万円が限度だった。

「7坪、テーブル5卓で、月商140万円くらいの店でした。私が経営するようになって初月の売上が130万円。小さいお店だったので、それくらいで我慢しなければならなかったのかもしれませんが、私は満足できなかった。もっとなにかできないか、といろいろ工夫し、なんとか月商300万円まで伸ばすことができました」。
輸入牛のカルビを和牛にして、価格を据え置いた。この戦略が功を奏した。むろん、原価率は高くなったが、客数は目にみえて増えた。
「駅前だから、思い切って取った原価率無視の戦略です。評判になり、みるみる数字もアップしていきました。とはいえ、300万円が限度です。それで、もう一度、イチから店づくりをしようと、店を探し、相鉄線の星川駅前に19坪の物件を見つけたんです」。

「和牛一頭買い」「フリードリンク制」など、独自戦略で躍進。

1996年、星川駅前にオープンした「焼肉どうらく」。この店が、実質的には創業店となる。滝氏、27歳。
「和牛一頭買い」がキャッチフレーズ。「一頭買い」は、仕入れ価格が安定するため、リーズナブルな価格で提供できる反面、和牛に精通していなければできない高度な仕入れ方式でもある。チェーン店での経験が活きた。
そればかりではない。内装も、従来の焼肉店とは一線を画した。一言でいえば、おしゃれで清潔。もちろん、いうのは簡単だが、従来の方法と違うスタイルを取る。これは勇気がいることだ。
「19坪で9卓40席です。駅前で、立地は悪くありません。しかも、路面店です」。
滝氏は、絶好のロケーションを得て、果敢に攻める。初月400万円。3年目には800万円。4〜5年経った頃には1000万円をオーバーするモンスター店となった。
「雑誌にも何度か取り上げてもらいました。ファミリーを対象に、価格を抑えたことも功を奏した一つです。国産カルビ、680円。当時からフリードリンク制で、これは、まだ、どこにもないような戦略でした」。
先見性も、モンスター店となった理由の一つ。むろん、滝氏を筆頭に、スタッフ全員が「焼肉どうらく」らしい元気な接客に努めたからでもある。これも、忘れてはならない。

職人の育成が、カギ。

2号店目の出店は、意外におそい。滝氏が36歳の2005年である。すでに1号店オープンより10年経っている。「2号店の出店は、当初から頭にあったんですが、私自身、厨房に立っていたもんですから」と滝氏。
肉をさばけるのは、滝氏だけ。というか、まだその大事な仕事をスタッフに任せることができなかった。
「そうですね。それがいちばんの理由です。私はどこかで、俺がやらなければ、と、そういう風に思い込んでいたんだと思います。その呪縛から解放されたのが、2005年。そして、2008年から本格的に多店舗化に踏み出したんです」。
2008年以降、年間2店舗のペースが出店を進めている。毎年2店舗とはいえ、滝氏の実力からすれば、出店ペースはむしろ慎重に映る。
「ビルの関係者や商業施設の担当者さんからも声をかけていただけるようになり、物件選びでは苦労が少なくなりました。しかし、どうしても職人が必要なものですから、そう簡単に出店することはできないんです」。
滝氏は言葉を選ぶようにして、そういう。
出店にはスタッフ、特に職人の育成がキーワードとなるということだろう。

仲間とともに。

「まだまだ私たちの思いを広げていきたいとは思っていますが、出店にこだわっているわけではありません」。
2015年11月現在、滝氏率いる「たき航グループ」の店舗数は、12店舗。2014年には、魚介メインの「海鮮問屋 お魚 どうらく みなとみらい店」を出店。肉のスペシャリストの同社にとって、未知の分野に挑戦している。
海外進出も、頭にあるそうだ。
そういう話を聞いていると、滝氏が今から挑戦していこうとしているのは、単なる拡大志向ではなく、スタッフたちの未来を拓いていくことではないかという気がしてきた。
仲間、思いである。のれん分けなど、すでにスタートしている制度もある。
少年時代の滝氏の姿が蘇ってきた。仲間を守る、正義の味方。いまも未知なものと戦い、仲間の次なる道を切り開いていこうとする滝氏。
大人になっても、滝氏には「正義の味方」という言葉だがぴったりなのかもしれない。彼の下で大きく、たくましく育っていくスタッフの姿がみえるようだ。

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