鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏 | |
生年月日 | 1973年8月21日 |
プロフィール | 東京都墨田区東向島、生まれ。高校卒業後、鉄道会社に就職するも、1ヵ月で退職。料理人の道を志す。専門学校時代のヨーロッパ研修を通し、西洋料理に憧れる。卒業後、ホテルニューオータニ に就職し、西洋料理と鉄板焼を学び、森ビルの会員制レストラン・アークヒルズクラブ、沖縄のザ・ブセナテラスや目白のフォーシーズンズホテル椿山荘で研鑽を重ね、2005年からコンラッド東京の鉄板焼シェフ、2007年からザ・リッツカールトン東京の立ち上げから鉄板焼の料理長を5年間勤める。そして、2013年6月27日、鉄板焼 【石垣吉田】 オープン。繁盛店に育て上げる。 |
主な業態 | 「石垣吉田」国内外のホテル、レストランコンサルティング |
企業HP | http://www.ishigaki-yoshida.jp/ |
吉田 純一氏が生まれたのは、1973年8月21日。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。
料理人を志すと決めた吉田氏は、服部栄養専門学校に進んでいる。1年制の学校である。思い出は、ヨーロッパの研修旅行。その当時はサンテチェンヌにあった「ピエール・ガニェールは、心底凄いと思った」と当時のことを振り返る。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。
「恵まれていたと思います」と吉田氏。オープンしたばかりのホテルだったこともあって、ニューオータニでもトップの料理人たちが揃っていたこと。そして、調理をすぐにやらせてもらったことと、その理由を語る。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。
「この鉄板焼に異動して、6歳上の先輩に出会いました。とてもストイックな人でした。お客様の指名は毎日あり、その先輩はプレゼントを貰ったりしていました。また、カービングフォークとターナーで器用に小さな和紙の鶴を折ったりするんですが、まさに芸術的才能を持った方でした」。
その先輩が体調を崩して休んだ時がある。「その日、いつものお客様がお見えになられて、先輩を指名されたんですね。それで、先輩の代わりに担当したのが私だったんです」。
「全然、違うね」が、食後のお客様の感想だった。野菜を焼く。という工程一つでも先輩とは全然違った。先輩の技は、目で見て盗むしかなかった。
「この先輩との出会いは、私の人生を変えました。先輩は、のちにアークヒルズクラブのスーシェフとして引き抜かれたんですね。それで、吉田も来い、と」。
まだまだその先輩の下で修業をしたかった吉田氏は、その先輩の誘いに乗った。
「お客様は、大御所の方々ばかりです。シェフも厳しい方でした」。料理を学ぶには最適だったかも知れない。しかし、だんだん、興味がなくなっていったそうだ。
「どう言うんでしょう。お客様側はビジネストーク中心で、私が会話に入ることもほとんど無くなってしまい、カウンターで料理を作る楽しみを見出せなくなってしまいました。もう料理人は辞めようと思いました」。1年半経った頃だ。吉田氏は、退職という道を選んだ。それは、料理との決別も意味していたのかも知れない。知人を頼って、沖縄へ飛んだ。
「沖縄で、もう一つの料理人の姿を見つけました」と吉田氏。「元々は沖縄の焼き物や器に魅せられて、そういう道に進もうと思ったんですが、とにかくお金がかかる。それで、あるリゾートホテルの鉄板焼のお店でアルバイトをすることにしたんです」。
東京にいた頃とは、違った風景が見えてきたという。
「義務感というか、そういうことから解放され、とても自由に感じました」。この時、吉田氏はお客様をもてなす心を知った。
「リゾート地なので、お客様もいろんなことに興味津々なんです。私も、食材の話なども含めて楽しくお客様と会話をさせていただきました」。
沖縄時代は4年半。
「アルバイトという気軽な身分だったことも良かったと思うんです。いったん興味を失いかけていた料理に、また興味が湧いてきたんです」。
東京に戻ってからも吉田氏は、いろいろな店を渡り歩く。フォーシーズンズホテル椿山荘「みゆき」。和食の店である。「最初は、全然、鉄板カウンターにはお客様がいらっしゃらなかったんです。それで、鉄板以外の和食も作っていました」。
たまにいらしたお客様には、もちろん全力投球。「そうしたら、1〜2ヵ月ほどでカウンターが満席になって、総支配人から2度も表彰していただきました」。
次に進んだのは、『みゆき』の尊敬するマネージャーがコンラッド東京にいく事になり、私もコンラッドでシェフとしてやらないかと誘いを受けて『風花』の親方とも貴重なお話をさせていただきまして決めました。既製品を使わず全て手作り。素材にも、一切妥協なし。「素材に妥協しないという考えが染みついたのは、このお店を経験したからです。どこから仕入れるかだけではなく、生産者から、家畜が食べる餌にまでこだわるような店だったんです」。1年半働き、リッツカールトンに移る。
「この時も貴重な経験ができたと思います。しかし、当初はとにかく大変でした」。吉田氏が移ったのは、リッツカールトン東京のオープニングの時だった。
「プレオープンなしで、そのままミッドタウンのオープンに合わせて、オープンしました。オープン時はとにかく忙しくて」。
オープンに向け、プロたちが集った店であったものの、あるランチの時、3組のお客様に食前のお飲み物も、料理も出すことが出来ず帰らせてしまったということがあった。
「あの時があって、つねに最悪の状況を考え行動するようになりました」と吉田氏。失敗も、貴重な経験である。
この後も、吉田氏の修業は続く。「コンラッド時代の親方の紹介で、赤坂に鉄板焼をオープンしたいという方のサポートもしました。海外も経験しました。マニラにカジノリゾートをつくる計画があって、その前哨戦として香港にレストランを立ち上げるという話があったんです」。
それにも参加した。経験が増える度に、一つの想いが募った。「自分のお客様を招く、自分のお店」をオープンしたいという想いである。
現在、吉田氏は、麻布十番「石垣吉田」を経営している。これが、吉田氏が独立してオープンしたお店である。オープンは2013年6月。今までの経験すべてを注ぎ込んでつくり上げた鉄板焼レストランである。
素材に拘る吉田氏が選んだのは「石垣島きたうち牧場プレミアムビーフ」。「石垣島の大自然のなかで、ストレスをかけず、ゆったりと育てられた希少なビーフです」とのこと。HPでは、「40ヵ月もの長期肥育を目標に、牛さんが口にする澄んだ空気、綺麗な水、餌作りから拘りミネラルをたっぷり含んだミルキークイーンの稲藁や特別配合のエサで愛情をたっぷりかけて育てられたとても希少な牛です」と紹介されている。
「特長は、味わい深い旨味のある赤身と、クセのないスッキリとした健康な脂が奏でる絶妙なバランス」。
この特長を、究極まで引き出す。それが吉田氏の仕事である。
オープン以来、コンセプトは、一切ブレない。
「お金が無かったから、眠れない日々が続いた」と吉田氏はオープン時を振り返る。企業や大使館に挨拶回りを欠かさなかった。持参したのは、300円の「かりん糖」。客が来ない日もあったが、スタッフに心配かけまいと、努めて明るく振る舞った。
最高の食材と、最高の技術。それには自信があった。「とにかく、目の前のことを120%でやった」と吉田氏。
それが結実する。
「麻布十番を選んだのは、リッツカールトンの時代にとてもよくしていただいたお客様がいらして、その方が麻布十番に住んでおられたからなんです。足を悪くされていたので、お住まいの近くに、と思ったんです。ぜひ、私のお客様として、私の料理を召し上がっていただきたかったからです」。
店の大きさは、26坪で12席(個室4席、カウンター8席)。全ての席に目が行き届く。席幅も充分なゆとりがある。
今振り返って、大変な時代を乗り越えられたのはどうしてですか? と尋ねてみた。
「何度も心が折れそうになったこともありましたが、お客様からのお言葉を聞いてここまで頑張ってこられたんだと思います」。
『吉田さん、今は大変だけど明けない夜はないからね』。あるお客様からいただいた一言は今も吉田氏の心に焼き付いている。
思えば、挑戦の日々だった。鉄道会社をたった1ヵ月でリタイアし、料理人の世界に入り、何度もくじけそうになりながら、その度にいろんな人に支えられて、今日がある。「感謝」の気持ちが何より強い。
「今後は、今まで私を支えてくれた多くの先輩、師匠、お客様のように、私が、若い人たちをサポートしていかなければと思っています」。
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