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第527回 株式会社スタイルスグループ 代表取締役 佐々木浩史氏
update 16/03/08
株式会社スタイルスグループ
佐々木浩史氏
株式会社スタイルスグループ 代表取締役 佐々木浩史氏
生年月日 1961年9月9日
プロフィール 宮城県石巻市出身。都大学時代、ディスコのDJ、アーティストのプロモーションのバイトを掛け持ちするなど音楽に関わる仕事をはじめる。卒業後も、おなじ仕事をつづけ、やがて音楽関係者から仙台では一目置かれる存在になる。30歳で、番組制作会社を設立。次第にイベントの企画・運営も行うようになり、ある飲食ビルのプロデュース話が舞い込んだことをきっかけに、飲食事業に進路を取る。2016年現在、仙台と都内に合計15店舗を出店。
主な業態 「THE OYSTER MANS」「産直鮮魚とマグロの明神丸」「サカナの家!」「三陸 天海のろばた」他
企業HP http://www.styles-group.com/

野球少年が、高校を卒業するまでの話。

今回、ご登場いただいた(株)スタイルスグループの代表取締役、佐々木浩史氏が生まれたのは、1961年。出身地は、宮城県石巻である。「近所でも有名なくらい怖い人だった」という父は、大手製紙会社のサラリーマン。兄弟は、6つ下に弟がいた。
「小学校の頃から野球が好きだったんですが、頑張り過ぎて肩を壊してしまって。だから、中学では水泳などをしていました。音楽に興味を持ち始めたのも、中学生の頃です」。
小学校の頃は、クラスの人気者。中学では、やんちゃな仲間とも付き合った。
「石巻って、漁師の町でしょ。やんちゃな奴が多いんです。中学卒業の時に、そいつらといっしょに水産高校に進もうとしたんです。ですが、うちは父が漁師でもなんでもない。まして、漁師になる気もなかった。それを担任の先生にズバリ指摘されて引き留められました(笑)」。
引き留められて、無事、普通科の高校に進学したというのだが、進んだのは県下でも有名な進学校だった。
高校ではふたたび野球を開始。しかし、途中で辞めてしまう。それが「人生で唯一の悔いだ」という。
「怪我がもとで、辞めることになったんですが、顧問の先生からは裏方でつづけないかと誘ってもらったんです。あの頃は、そういうのが受け入れられなかった。野球が好きなのにね。だから、のちに応援部に入りました。少しでも野球に関わっていたかったからです」。
ちなみに、現在、佐々木氏の、仙台にある店には野球関係者も多く来店する。楽天の関係者はもちろん、大学や高校の野球部監督や顧問もいらっしゃるそうだ。野球が好きという気持ちが通い合うのかもいれない。

ディスコの花形職種、DJ。

怖い親父のもとから逃げ出すように、佐々木氏は仙台の大学に進んだ。しかし、進学したものの、キャンパスライフとは無縁だったそうだ。
「当時、ディスコがブームだったんです。アルバイトで生活費をねん出しなければいけなかったんで、ディスコでDJのバイトをしていました。そう、1年の時からです」。
佐々木氏が大学1年といえば、ちょうど1980年。日本全体がバブルの坂を駆け上がる頃だ。その当時の日本を象徴するものの一つが、ディスコだろう。連日、連夜、若い男女が押し寄せ、黒服というボーイは、女性にチヤホヤされ、DJは、その上をいった。言うならば、花形職種である。
「元々は、ボーイだったんですが、たまたまチャンスがあってDJになることができました。元々、音楽が好きで、当時、昼間は、アーティストのプロモーションのバイトをしていました。そういうのも、評価されたんだと思います」。
佐々木氏によると、当時、札幌、仙台、新宿は、音楽の流行りを先取りするベスト3の街だったそうだ。つまり、仙台で流行れば、勝ち組になれる。昼、夜となく、佐々木氏に注文があつまる。
「あの当時、DJの仕事だけで給料が50万円あった。大学の新卒がまだ14、5万円の時に、です。そりゃ、勘違いします。簡単にいえば、世の中をなめたガキでした」。
なんとなく、想像もつく。
「ディスコではハーレム状態だった」とも語っている。

好きなことをして、生きていく。それが人生の価値だ。

「私は、新卒で就職していないんです。仲間の多くは、大手の会社に就職していきましたが、私は関心がなかった。鎖につながれるのがイヤだったんです。給料をもらうために、したくもない仕事をつづける、そういうのが信じられなかったし、イメージできない。DJのバイトだけで、新卒の初任給の何倍もあったのも無関係ではなかったんだと思いますが、とにかく、好きなことをやって生きていこうと思っていた。また、そうできると、信じていたんです」。
大学卒業後も、昼間は音楽のプロモーション、夜はDJのバイトに明け暮れた。
「当時は、いま大物と言われているアーティストも、まだ駆け出しの時代です。仕事で何度か接した人も多いので、まぁ、あれから、すごくなったけど、そんなに距離が離れているとは思いません。矢沢さんなんかは、当時から別格でしたが(笑)」。
好きなことをして、生きていく。それが、佐々木氏の生き様。
「当時、仲間に『仙台でくすぶっていないで、東京に行こう』って誘われたことがありました。でも、私は、仙台が良かった。『東京に行かないで、オレは仙台でいちばんになる』って言ったんです」。
「仙台でいちばんになる」。これもまた佐々木氏の人生の背骨を貫く目標となる。
まだ、青く、好きに生きることの難しさを知らない時代でもあった。

放送局を飛び出し、番組制作会社を設立する。

「30歳の時です。東京では、番組制作の外注化が進んでいました。この波は間違いなく仙台にも来る。放送局にいたから分かるんです。これはビッグチャンスだと思って、仲間を誘って独立しました。『オレたちの手でこの街を変えていく』。そういう信念でスタートしました」。
 誘った仲間は、局は違ってもできる人間ばかり。言い換えれば、佐々木氏同様、「好きなことをして生きていく」という強い信念を持った人間たちばかりだった。
「だから、給料も二の次だったんです。私が、言い出しっぺだから社長になりましたが、私だって社長なんてどうでもよかった。好きなことをして、生きていければよかったからです。しかし、社長と社員という立場の違いが、次第に溝をつくります」。
スタートは華々しかった。敏腕スタッフたちの制作会社。8人で初年度から3.〜4億円を叩き出した。
しかし、いつも好調とはいかない。ローカル番組もつくったし、イベントの企画も行った。社長としては、当然の選択だった。しかし、ある一部のスタッフは、その方向にノーを突きつけた。
「『オレたちのちからで、ロックのちからで、街を変えていくんじゃなかったのか』というのが、彼らの言い分でした。でも、『それでは給料も半分になってしまう。それでいいのか』と。それが私の言い分でした」。
言い合いは、平行線をたどった。目的は同じでも違う道を歩くことになった。佐々木氏は音楽だけではなく、飲食店のプロデュースまで行うようになった。
大儲けはできなかったが、周りからも評価され、好きなことをして食べていくことができた。
余談だが、かつて大手メーカーに就職しようとしたことが一度だけある。しかし、袖にもされなかった。負けん気の強い佐々木氏は「いつかみていろよ」と思っていたそうだ。
やがて、その大手メーカーの担当者が、愛想笑いを浮かべながら、佐々木氏の下にやってくるようになっていた。東京に行くと、大盤振る舞いの接待までしてくれたのは、そのメーカーの社員だったそうである。

飲食業へ。思わぬ道が開けた。

40歳を過ぎた頃の話である。佐々木氏は、ある店の運営を始める。周りの人間には、突然、佐々木氏が飲食事業を開始したように映ったかもしれない。
しかし、人生にはちゃんと伏線がある。
「飲食には、ぜんぜん興味がなかった。むしろ、その道には近寄りたくもなかったんです。一度、やったら引き込まれそうだったから(笑)」。
「しかし、時折、依頼される飲食店のプロモーションは受けていました。飲食といっても、量販店の宣伝と同じだと思っていたんです。しかし、ある時、プロデュースまでして欲しいというオーダーがあったんです」。
当時、仙台の泉区というエリアは、全国でも人口膨張率がナンバー1だった。
「今まで田畑だったのが、次々、住宅になっていくんです。すごいスピードでした。同時に街づくりも進められていったんですが、娯楽がなかったんですね。それで、ある地元のデベロッパーが、飲食ビルを造ると言い出したんです」。
依頼されたのは、そのビル全体のプロデュースからプロモーション、しかも、リーシングも依頼された。
「普通であれば、全力で断っていました。実際、何度か断ったんです。しかし、うちの会社にたまたま、東京でもすごいと認められていたプロデュース会社出身の社員がいたんです。で、奴にやってもらおうということになり、ビール会社の人にも手伝ってもらって、なんとかビルのオープンまでこぎつけたんです。しかし、いちばん大事な最上階の150坪のフロアが空いたままでした」。
150坪、借り手がいない。次善の策も提案したが、オーナーは首を縦に振らない。「ここは、このビルのランドマーク。何があっても当初の予定で行く」と言って譲らなかったそうだ。
「そうして、オーナーは一言、『企画の段階でこういう店があればいいって言ったでしょう。あれをやりましょう』って」。
それを聞いた佐々木氏の口が、ぽかんと開いた。

「あれは、妄想、ハッタリなんです」。

開いたままの口をかろうじて動かし、佐々木氏は、言った。
「たいへん、申し上げにくいんですが…、あれは、妄想というか、ハッタリなんです」。
しかし、オーナーはすでに腹を決めていたようだ。
「最初はモンスーンカフェのような店をと思っていたんですが、しょせん、田舎です。
200人の来店を実現しようと思えば、この街だけじゃ足りない。仙台全域から、感度の高い若者をかき集めなくっちゃならない。そんなことはできないわけで。じゃぁ、老若男女すべてを対象にするしかないんですが、そうなれば大衆居酒屋になるわけですよ。でも、それはオーナーが『うん』と言わない。それで、ハッタリをかましたわけです。全室個室、カラオケありのダイニング。できるわけありません。金がかかりすぎますから」。
カラオケにするためには、完全な防音がいる。しかも、ダイニングだから内装にも手は抜けない。ある意味、いいとこ取りだが、倍以上の金がかかる。佐々木氏はほぼ1億とみていた。
「で、『あの店をやろうとすれば、1億円はかかる』と正直に言ったんです。すると、『よし、それでいこう。心配するな、うちは1億では潰れない』って」。
そうまで言われて引き受けないわけにはいかない。オーナーは資金を出し、運営はすべて佐々木氏が行うことになった。
「それで、今までの事業を社員に譲り、TVやイベントの仕事からは一切、手を引きました。退路を断たなければ、店を放り投げてしまうと思ったからです」。
これが佐々木氏流の生き様である。
佐々木氏がすべてを投げ打ってプロデュースした、その店は、もくろみ通り、大ヒットした。初月から2000万円を売りあげる仙台でも注目の店となったのである。
この店が起爆剤となって、佐々木氏の飲食人生はスタートする。佐々木氏にとってもある意味、人生のランドマークのような店になった。

飲食に舵を切った、佐々木氏のいま。

現在、佐々木氏は、都内と仙台合わせ、15店舗の店を経営している。いずれも、特徴ある店だ。佐々木氏の人柄まで、でているような気がする。ところで、東京と仙台は、感覚的にも昔ほどの距離ではないそうだ。
「東京に出て一旗あげようって気が今の若い子にはないみたいです。東京っていっても、そう仙台とかわらないって思いがあるんでしょう。その気持ちはわからなくもないんですが、飲食って角度からみれば、都内には10坪で1000万円の月商って店もあるわけで、やはり規模が違います」。
「うちは2014年に初めて人形町に東京の1号店を出店し、2015年の夏にも門前仲町に2店舗を同時に出店したんですが、想定内というんでしょうか。それなりの数字は残しているんですが、仙台と比較したら、もっと売り上げてもいいんですね。でも、そうならない。東京に出てやりたいっていう人間が少ないのも、問題です。でも、こればかりは強要するもんじゃない、と思うんです。イヤイヤだったらパワーもでないでしょ」。
東京と仙台のマーケットを比較すれば、もっと大きな売上が叩き出せるはずだ。
そこに佐々木氏のジレンマがある。
「出てきたからには、負けるわけにはいかない」という負けん気もある。
しかし、それだけではない。2011年の震災。その影が今も、佐々木氏の心を覆っている。それにだって、負けるわけにはいかない。
むしろ、復興のため、佐々木氏は、東京に出て勝負しているのだ。仙台の食材、地域のアナウンス、仙台が、石巻が忘れられないように佐々木氏は戦っている。
好きなことをして生きていく。乱暴な言い方かもしれないが、やることが変わっても、佐々木氏の生き様の本質は、変わらないのかもしれない。

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