株式会社KATSU NUMBERS 代表取締役社長 宇敷勝巳氏 | |
生年月日 | 1982年8月18日 |
プロフィール | 群馬県沼田市に生まれる。18歳で上京。西新宿のバーで、バーテンダーの姿に惹かれ、就職。映画「カクテル」に魅了され、フレアバーテンダーの世界へ。日本最年少チャンピオン記録を持ち、28歳で世界チャンピオンの栄冠を手にする。 |
主な業態 | 「GinzaBar L'aurora」「Lounge Bar Vision」「Lounge Bar Courage」「Dining & Bar Grant」「Bar Courage Villa」 |
企業HP | http://katsunumbers.com/ |
今回、初めてフレアバーテンダーという職業を知ったので、調べてみた。酒やジュースを注ぐ【ポア】。酒やジュースを溢れさせる【スピア】。ボトルやシェーカーなどをつかんで受け止める【キャッチ】。回転をかけて放る【フリップ】…、いろんな技の名称がでてきた。
今回、登場いただいた宇敷勝巳氏は、2010年、カナダ、バンクーバーの世界大会で、フレアバーテンダーの世界チャンピオンとなった人である。HPによれば、日本・アジア・世界、すべてのタイトルを制覇。フレアバーテンディングで5本ジャグリングの世界記録を樹立し、2015年現在も、その記録は破られていないという。
フレアバーテンダーでは初の東京都公認パフォーマンス資格を獲得。世界最高峰のサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のオーディションに合格し、登録パフォーマーとして在籍とも書かれていた。
では、その世界的なパフォーマーになるまでの道のりを追いかけてみよう。
宇敷氏が生まれたのは、1982年。出身は群馬県。父親は、鉄骨溶接の仕事をされていたそうだ。両親は、宇敷氏が小学6年生の時に別居。18歳で、離婚。宇敷氏は3つ離れた兄とともに母に引き取られた。
「母は別居してから、旅館の掃除、ドライバー、配膳、内職と朝昼問わず働いていましたが、けっして弱音は吐かず、私たち兄弟を育ててくれました。にもかかわらず私たち兄弟は、兄弟そろってやんちゃな道に進みます。とはいえ、兄は中学を卒業して、寿司屋で住み込み、仕送りをしてくれました。私も、兄同様、高校に行かず働こうと思っていたのですが、教師の勧めもあって野球推薦で高校に進学しました」。
野球は小学校の時から始めている。小学生の時はキャッチャー、中学ではサード、センターを守っていた。野球推薦をもらうくらいだから、運動神経に恵まれていたのだろう。
「しかし、結局は退学します。理由は、バスの定期代で6万円以上かかったことと、当時つるんでいたグループが不祥事を起こして、連帯責任を取らされ停学をくらったからでした。そのあとは、2年間ほど住み込みで大工の見習いをしました」。
宇敷氏が上京したのは、18歳の時。最初は渋谷に住むつもりだったが、大家に断られ、大宮で暮らすことになる。
「テレフォンアポイントをして生計を立てていました。バーテンダーの世界を知ったのはこの時で、西新宿のバーに知り合いに連れて行ってもらったのが、はじまりです」。
人には、多かれ少なかれ歴史が動くターニングポイントがある。この時の宇敷氏がまさにそうだった。
バーテンダーの仕事に心惹かれた宇敷氏は、その場で「雇ってください」と頼み込んだそうだ。HPのプロフィール欄にある、新宿サントリー/クラシックジガーバーが、その時のバーである。
「そのバーで勤務している時に、もう一つのターニングポイントが訪れるんです」。
ある日、1人の客に、フレアバーテンダーの映画を渡された。トム・クルーズ主演の映画「カクテル」である。この映画を観て、フレアバーテンダーに興味を持った。
独学が始まる。
「フレアバーテンダーに興味を持った私は、とにかく道具だと、横浜の協会で教えてもらった店に行き、購入しました。それからは、独学です」。
何度も映画を観て、練習した。師匠がいるわけではないから、どれだけのレベルかわからない。
「私のレベルがわかったのは、ある大会に出場した時です。ルーキー戦があって、2位になりました。それから、日本チャンピオンシップに出場し、優勝もしました。それが20歳の時です」。
当時、フレアバーテンダーの人口が日本にどれだけいたのかはわからない。ただし、大会は大掛かりで、出場した選手は少なくなかった。そのなかで宇敷氏は優勝したばかりか、最年少記録も更新した。
その後、宇敷氏は、世界に目を向け始める。
行くなら、本場カナダだ。
宇敷氏は、1人、カナダに向かった。
カナダには1年弱滞在した。上をめざすための旅だったが、「正直、心が折れてしまった」が、本音である。
「あちらでもいろんな大会に出場するんですが、ある大会で、バーテンの世界チャンピオン、言い換えるなら絶対王者を観て、レベルの違いに茫然と立ち尽くしてしまうんです。日本でチャンピオンって言っても、競い合うことすら失礼なくらいレベルに差がありました。それで心が折れてしまったんです」。
打ちひしがれて帰国した。その時の、宇敷氏はどんな心境だったのだろうか。兄といっしょにやんちゃな道に進み、大好きだった野球を辞め、大工の道に進み、明確な目標のないまま生きていた宇敷氏が、改めてみつけることができた目標。それが手の届くところになかった衝撃。
「帰国した私は、大事な人の電話番号だけ紙に書き、携帯電話を叩き割りました。誰とも連絡を取りたくなかたからです」。
ちょうど、母親も病気で倒れた。看病もあった。ただ、まだ「世界」という目標は失っていなかった。
「母の看護の間に、独り公園で練習をしました。今思えば、いい気晴らしになっていたのかもしれません。その公園で知り合った年配の人たちから買い物を頼まれたりして。それが、わずかですが、収入になりました」。
母親のこともある。だが、どうしてもフレアバーテンダーという道をきわめたいと思いつづけた。
「格闘家の山籠もりではありませんが、ああいう感じですね。総合点では、勝ち目がないから、私にしかできない技を手に入れようと練習しました」。
髪を剃った。坊主頭である。大好きな服も、3年間、一着も買わなかった。
お金がなかったから、とも言えるが、母の看護、それ以外のことで、一瞬でも心奪われたくなかったからだ。
この3年は、宇敷氏にとってどんな意味を持つのだろう。折れた心は、もう一度、つながり、上を向くことができたのだろうか。
「26歳の時でした。改めて大会に出場しました。優勝したんですが、なにぶん公園で独りの練習でしょ。人前で披露することがなかったから、どこかぎくしゃくしていたんです。それで、今度は積極的に、いろんな大会にでて、人前でもスムーズに技を披露できるよう、努めました」。
いろんな大会に出場したというが、目標は、いうまでもなく世界。ようやく、人前で披露することに慣れたと思った時に、挑戦した。世界、である。
「28歳の時です。ついに世界への挑戦。まったく手が届かなかった高みへ、どれだけ近づけるのか、そりゃもう緊張しました」。
この大会が、2010年、カナダ、バンクーバーで開かれた世界大会である。結果は、すでに書いた通り、宇敷氏は、フレアバーテンダーの世界チャンピオンのトロフィーを手にする。
狂気と言えば、怒られるだろうか。たしかに格闘家の山籠もりとはニュアンスは違うが、共通するところもなくはない。
「カナダに渡ってから、結局、8年近くかかりました。目標を達成したことで思ったのは、これが、私の目的ではないということです。フレアバーテンダーの仕事を通し、多くの人に、笑顔になってもらうおうと考えたんです」。
それを宇敷氏は、「エンターテイメントで生きよう、と思った」と表現する。これが、事業の始まりであり、起業の動機となる。
宇敷氏が、株式会社KATSU NUMBERSを創業したのは、2012年2月14日。売り物は、宇敷氏の魅せる技。世界一の仕事である。
日本チャンピオン | 海外練習 | カナダにて |
カナダにて | 世界記録(世界で一人しか出来ない技) | アジアチャンピオン |
世界チャンピオン | プロのフレアバーテンダーへ | KATSU NUMBERS社員一同 |
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