株式会社ポトマック 代表取締役 金指光司氏 | |
生年月日 | 1963年7月23日 |
プロフィール | 神戸市中央区に生まれる。高校卒業後、シャープの子会社、「デザインモデルセンター」に就職。その後、アパレル会社を経て、22歳でカフェ・バーを開業。以来、「好きなことをやる」をポリシーに店舗数を拡大。大ブレイクした店の数々は、多くの飲食経営者たちのお手本にもなっている。 |
主な業態 | 「トゥーストゥース(TOOTH TOOTH)」「ラフレア」「こなな」他 |
企業HP | http://www.potomak.co.jp/ |
貧乏だった、と金指光司氏は子どもの頃を振り返って笑う。だから、大きくなったら、貧しい思いはしたくないというのが少年の素直な思いだった。
お金はなかったが、才能には恵まれていた。なかでも、絵がとても上手だった。
「美術や作文のコンクールでいろんな賞をいただきました」。絵を描く、作文を書く。お金はかからない。少年は、小さな画用紙のなかで、いくつかの文字のなかで、世界を描いた。
「旅行とかは行ったことがない。やっていたことっていえば、そうですね、小学生高学年の時から音楽にハマって。それがいま思えば、良かったんでしょう。そのおかげで道を外すこともなかったから」。
音楽を始めた頃、一つのエピソードがある。
「ギターを弾きたかったんですが、買うお金がない。それで、ギターみたいなのを手づくりして練習していたんですが、それをみた母が、たまりかねたんでしょうね。大事な化粧箱を売って、ギターを買って来てくれました」。
「当時、うちにはレコードがたくさんあったんですね。シャンソンとか。そういうのを聞いていました」。
ラジオにも釘付けになった。夜になればラジオのスイッチを入れ、流れてくる洋楽に耳を傾けた。
「興味を持ちだすとハマるタイプなもんですから、本を買ってきて、いろんなアーティストがいることを知りました。お金ですか? バレて、母親に物凄い剣幕で怒られてしまうんですが、当時、流行っていた仮面ライダーカードやスパイ大作戦手帳を転売して、やりくりしていたんです」。
少年の知恵である。
高校はデザインで有名な工業高校に進学した。美術教師でもあった担任から、薦められたからだ。
「この学校がいい、と薦めていただいたもんですから素直に進学するんですが、私と同じような生徒がたくさんいて、それで私のオタク度も加速するんです(笑)」。
全員が、サブカルチャー好きだった、と金指氏。主流ではない、亜流の文化に惹かれるということだろうか。
「当時、MTVが始まって、音楽やファッションのムーブメントが動き始めたんです。新鮮な思いでした」。
1枚の絵を描く才能は、新たな文化も、時代の流れも敏感にキャッチした。「感度」という言葉に凝縮されるかもしれない。高校の教師も、そうした金指氏の一面を的確に捉えていたのだろう。
教師は、シャープの子会社「デザインモデルセンター」を薦め、金指氏は今回もそれに素直に従った。
「いまでは世界規模ですが、当時はまだ50人くらいの会社でした。寮生活です。楽しかったですね。4畳半に2人です。何もしないとつまらないんで、押し入れに隠れて相手を驚かせたり、トイレットペーパーで蜘蛛の巣をつくったり。水遁の術で風呂に隠れたこともありましたっけ」。
「デザインモデルセンター」には、1年くらい勤めた。もう、貧しくはなかったが、まだ何をしたいかは明確ではなかった。
「最初になりたいと思ったのは、シェイパーです。シェイパーとは、オーダーメードのサーフボードを作る職人なんですが、波乗りをしていたもんですから、ああいう仕事がいいな、と」。
ところが、そう思っていた矢先、あるアパレル会社の社長から声をかけられた。金指氏の時計が、動き始める。
「20歳の時です。その社長さんに誘っていただいて、彼が経営するアパレル会社に就職するんです。結構、お金持ちで、豪遊も好きな方だったもんですから、今まで行ったことがないようなお店に連れて行っていただいたりして、世界が一気に広がります。お酒の味を知ったのも、この頃です」。
最初は販売職だったが、そのうち、商品開発へ。デザイン企画にも携わり、デザインの方法も学んだ。もともとファッションや音楽に傾倒していた金指氏である。デザインという仕事は、適正だったのではないだろうか。
「好きになる」というのも、一つの才能だ。デザインや企画、商品開発をしていた金指氏は、東京で初めてカフェ・バーに行き、ストンと好きになった。
「カフェ・バーをやりたい。いったん、そう思うとブレーキが利かない性格なもんですから。アパレル会社を2年で辞め、当時、飲食部門にいたシェフといっしょに独立しました」。
22歳、軍資金は500万円。高校を卒業し、コツコツ貯めたお金をすべて使って勝負にでる。
「10坪で、18席です。メインストリートには出店できなかったんですが、これが大ヒットしました」。
余勢を駆って、海の家やジャズバー、ギャラリーバーなどを出店した。
金指氏の周りには、人が集まった。なかには、のちに飲食の経営者となった人たちもいる。上場企業をつくった人も少なからずいる。
「いまもそうですが、とにかく楽しいかどうかが一つの目安でした。お店も、『それ、おもしろいやん』ってつくっていくんです。一方、お金の勘定なんてぜんぜん考えていませんでした。原価1000円のモノを800円で、みたいな。とにかく、ハチャメチャでした。そんな時、あの震災が起こるんです」。
震災とは、阪神淡路大震災のことである。
「でも、この時、フレンチのシェフが、転職してくれたんです。彼のおかげで、ほかのフレンチの料理人が、食事に来てくれるようになって、この時もありがたいことに大ブレイクするんです」。
大ブレイク。オーバーな表現ではない。20坪の店で日商50万円。1坪で日に2万5000円である。
ここまでが、金指氏の一つの歴史だ。そして、次の歴史のはじまりとなる。
さて、インタビューさせていただいたのは、2016年初頭。この春には、創業30周年を迎えるという。10坪18席の小さな店舗から始まったストーリーは、関西だけで45店舗、関東で24店舗に広がっている。
しかも、それだけではない。金指氏は、従来の飲食事業の成功の方程式もしくは定石をことごとく覆した。見事に、大人の常識を打ち破ったともいえる。
その大胆な手法は、やがて若き経営者たちに受け継がれていき、新たな主流となる。ちなみに、当時、金指氏の店を訪れた経営者のなかには株式会社ダイヤモンドダイニングの松村 厚久氏、株式会社トリドールの粟田 貴也氏などがいる。お2人とも、飲食のカベを独自の方法で、切り開いた人である。
最後に、金指氏がホームページで綴っている言葉を少しだけご紹介したいと思う。
「子どもの頃寝つきの悪かった僕は、自分が海賊になった空想を毎晩、楽しんでました。大好きな友達たちと、かっこいい海賊船に乗って七つの海を越え…(中略)。かっこいいことが好きで、人と違うことがしたくて、大人たちがやっていることに嘘臭さを感じて、仲間たちと何かがしたくて…(中略)。ポトマックでは、『海賊が海軍を打ち破っているような』すごい奇跡が起こっています。楽しい!楽しい!って、やっていたら、すばらしいご縁が増えました。(中略)私たちの進撃は始まったばかりです。七つ海を越え宝島を目指す物語は終わりません」。
いま金指氏がめざす「宝島」とはどんな島だろう。やはり、金銀財宝ざくざくの島がわかりやすくて、いい。金指氏の子ども時代の空想は、いま現実のものとなっている。少なくとも、貧しさとは無縁だ。
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