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第541回 株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏
update 16/05/31
株式会社フレッシュネス
紫関 修氏
株式会社フレッシュネス 代表取締役 紫関 修氏
生年月日 1961年7月29日
プロフィール 千葉県千葉市に生まれる。青山大学卒。教授の反対を押し切り、サービス業の花形、「東急ホテル」に入社。30歳で同社を退社し、MBA取得のため、渡米。帰国後、コンサルティング会社を経て、日本マクドナルドで約8年。その後、ゴルフパートナーの株式上場に尽力し、経営者としての評価を高め、同社を見事、上場させたのち、ユニマットに取締役として入社。関連会社でもあるフレッシュネスの副社長から、現職の社長に就任する。
主な業態 「FRESHNESS BURGER」
企業HP http://www.freshnessburger.co.jp/

中学時代、目標だったのはパイロット。

今回ご登場いただく、株式会社フレッシュネスの代表取締役 紫関氏が生まれたのは1961年7月29日である。出身は千葉県千葉市。「父親は、川崎製鉄の子会社で勤務していました。私は、一人っ子。甘やかされていたわけじゃないけど、特に『勉強しろ』って言われた記憶もないね。当時はね。野球ですよ。放課後になるとさ。友達なんかが公園に集まってさ。棒切れ持って、野球が始まるんです」。
遊んでばかりいたわけではない。
「ぜんぜん覚えてないんだけどさ。5歳の時に、母に『バイオリンをやりたい』っていったそうなんです。どうしてだろうね。でも、バイオリンはまだ無理ってことで、エレクトーンを習いました。小学3年で辞めちゃったおかげで、いまじゃぜんぜん弾けないんだけどね」。
勉強はしないと書いたが、成績は良かったそうだ。運動も、音楽も良くできたほうだという。
「私が小学6年生の時に、千葉で国体が開催されることになり、鼓笛隊を編成するってことで、各小学校から楽器ができる生徒が集められたんです。私はトランペットを吹きました。今思えば、いい思い出の一つだね」。
中学ではバレー部に入部。この頃にはなぜか、パイロットになりたいと漠然と思っていたそうだ。「理由は、もう忘れちゃったよ。たぶん、テレビかなんかの影響なんでしょうね。パイロットになるぞって(笑)」。
たしかに、頭脳明晰、運動神経抜群。パイロットもあながち無理な目標ではなかったはずだ。
「なんでも、できる」と思い込んでいた紫関氏が、初めてカベにぶち当たったのは、高校受験のことである。それでも県内でも有数の学校に進学するのだが、めざすはトップ校だっただけに、悔しい思いをしたのは事実である。
「それでね。入学当初は、学年でもトップクラスだって思っていたんです。ところが、因数分解のテストでなんと赤点です(笑)。いまだから笑えますが、当時は悔しくって。本来、負けず嫌いですから、『ちくしょう』って思って、駿台に通い始めました(笑)」。
もっとも、駿台通いは、初の東京通いでもある。けっして、予備校では優等生ではなかったそうだ。

国立も、めざしたが、あっけなく撃沈。

「大学受験は、2回やっています。現役の時は、国立と早稲田と慶応と中央大学を受けたんだが、ぜんぶだめ。で、翌年も、受けたんだが縁がなかったのか、結局、青学に落ち着きました」。
大学では、テニスサークルに所属。青春を謳歌した。その大学時代が終了する。「あの頃は、いちばんが金融関係で、つぎがマスコミとか、いろいろあって、サービス業っていうのはやっぱりいちばん下。そういうヒエラルキーが出来上がっていたんだな」。
ある意味、飲食の敷居は、マスコミや金融などより高かった。行きたいと思っても、回りから反対されるからだ。「まさに私の場合がそうだったんだよね。いま思うとね、ちょっと単純なんですが、大学時代にホテルでバイトをしていたでしょ。それと当時やっていたテレビドラマから影響をもろに受けてね。それで、ホテルに行くと言ったら、ゼミの先生に呼び出され、1時間説教をくらった。それでも、意思は固かった。就職したのは、東急ホテルです」。当時、東急ホテルは株式を上場。破竹の勢いで出店を重ねていた。

うろこ取り、エビの背ワタ取りで学んだこと。

「新卒、しかも大卒でしょ。いわば幹部候補なんですよ。しかも、私は入社式の際に、新卒の代表に選ばれたもんですから、なかなか人間関係も難しかったと思います」。新卒は、ぜんぶで40〜50人。大卒はそのなかで7〜8人。いわばエリートだ。
ホテルに配属されると、まずはローテーションで仕事を経験する。ベルボーイ、半月。ハウスクリーニング、半月。調理1ヵ月、レストラン1ヵ月。宴会も、仕込みも、ぜんぶ経験する。
「私が配属されたのは、今はもうないんですが、銀座の東急ホテルです。夏になるとビアガーデンが始まるんですが、ある日、私がイカを焼いていると、たまたまテニスサークルの後輩が通って、『アレ』って。『先輩、それってアルバイトじゃないですよね』なんてね。気まずくはなかったけど、なんかね」。
いちばん辛かったのは、仕込みだという。「仕込みっていうのはね。たとえば魚のうろこを取るなら、ずっと取る。エビの背ワタを取るなら、ずっと取る。1日中その作業ですよ。でも、今思えば、そういうことをする人がいて、ホテルって成り立っているんだなというのが、わかった、すべての仕事をローテーションで経験したのは、大きな財産になった気がするね」。

30歳。新たな旅の始まり。

「いつか総支配人になって、なんて思っていた。それが志望動機でもあったから。でも、5年くらい経って、だんだんわからないことが、わかってくる。たとえば私は法学部でしょ。だから、マーケティングや財務はぜんぜんわからないわけ。これからのキャリアを考えても大事な知識です。それで、30歳の時かな。思い切って、会社を辞め、テキサスに向かうんです。それから、帰国して勉強して自費でボストンに行きました。MBAを取得するのが目的でした」。
まだ、結婚もしていなかったからできたことかもしれないと紫関氏はいう。そうはいっても、思い切った選択だ。もともと幹部候補としての採用だったし、5年もいれば、いよいよ将来を嘱望されるようになっていたと思うからだ。しかし、紫関氏にとっては、会社という器より、ジブンという中身が大事だった。中身の価値。それを上げるための選択だった。
「MBAを取得して、帰国してから『さくら総研』に入社し、企業コンサルタントの仕事を開始しました。それを2年勤めたのち、マクドナルドに転職します。経営企画職を募集していることを知り合いから教えてもらったんです」。
日本マクドナルドの創業者、藤田田氏は、戦略家で、知的な経営者をイメージしてしまいがちだが、そうでもないらしい。エネルギーの塊だったそうである。
関西弁で、常に核心を突く話をする。直接、会話したのは数回だが、錚々たるメンバーがいるなかで、会議をリードする姿はいまも鮮明に記憶にある。
「マクドナルドで勤務したのは、8年弱です。藤田さんから、八木さん、原田さん、3人の経営者をみてきました」。その3人の経営者を近距離からみられたことも、紫関氏にとっては大きな財産になったに違いない。

上場のセレモニーで鐘を鳴らす。

「マクドナルドを離れて、次はゴルフパートナーに転職、副社長を務めました。ミッションは、株式の上場。いろいろな課題があって、そういうのを一つひとつクリアし、上場まで導くことができた。上場セレモニーで、鐘を鳴らすんですが、紫関さんもいっしょに、ということで社長と2人で、あの鐘を鳴らした。いい思い出だよね」。苦労したぶん、うれしかった。いつしか、紫関氏の手腕を多くの人が知るようになる。
そののち、紫関氏は、ユニマットの取締役として入社。関連会社でもあるフレッシュネスの副社長となり、現在、社長というポストにある。
フレッシュネスは、2016年4月現在、全国に159店舗を出店するハンバーガーレストランである。うち直営は、55店舗。フレッシュネスは、大人のハンバーガーレストランだという。
「アメリカと日本は違うんです。向こうでは、ディナーで、バーガーとビールなんていうのも一般的なんです。でも、日本は、違うでしょ。主にランチ。マクドナルドもそうですが、ハンバーガーレストランの売上って、たいていランチの売上なんです。そこをブレイクスルーしないといけないと思っています」。
紫関氏は、力強くそういう。かつて、ゼミの先生にも大反対された、「サービス業」という道。この道の先にあったものは、新たな時代のトビラだったのかもしれない。
もはや、サービス業は、日本の基幹産業の一つとなっている。それは、間違いない事実だ。サービス業を軽んじる人も少なくなった。紫関氏は、そういう時代のトビラを開いた1人でもあるのだろう。紫関氏が率いる「フレッシュネス」が、教えてくれる新たなバーガーと日本人という関係にも注目したい。サービスと大きなくくりのなかにいるが、今や紫関氏も、間違いなく「飲食の戦士」である。

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