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第543回 株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏
update 16/06/14
株式会社GMS
田中 剛氏
株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏
生年月日 1969年10月18日
プロフィール 青森県三厩村に生まれる。高校卒業後、「天狗」を経営するテンアライド株式会社に就職。中華ブランドの立ち上げに参加し、中華の料理人を通し、料理のプロの神髄を知る。長距離トラックを運転しながら、1年半、全国の旨いラーメンを食べ歩き、これだと思った「博多ラーメン」で勝負を賭ける。「1杯のラーメンで、客を魅了する」いう志を貫き、人気のラーメン店、「田中商店」を育てあげる。
主な業態 「博多長浜らーめん 田中商店」「田中そば店」「中華そば つし馬」他
企業HP http://www.tanaka-shoten.net/

本州の北端。海の向こうは北海道。

今回、ご登場いただく株式会社GMS、代表取締役、田中剛氏は、1969年10月18日に青森県三厩村に生まれる。三厩村は、「みんまやむら」と読むそうだ。ネットで調べてみると、津軽半島の最北端に位置していた村ということである。北海道と青森を結ぶ青函トンネルが、村の地下を走っている。
「私は、兄弟5人の3男です。4人が男で、女は妹1人です。運動神経は、妹以外、みんな良くって、長男はフェンシングで割と名が通っていました。親父は、祖父の代からつづく、漁師です。青森といえばマグロが有名ですが、私が生まれた頃は、青函トンネルの工事の影響もあって、津軽半島にマグロはいなくなっていたそうです。私も、小さい時は、何度か漁に連れて行ってもらいました。当時は、イカやサメが主でした。親父は、寝る間も惜しんではたらいていました。そういう血を、私もどこかで受け継いでいるんだと思います」。
三厩村は漁業が産業の小さな村だった。小・中とも1クラス。「私らの頃は、とにかく高校出たら働くというのが、当然の選択肢でした。私も、青森山田高校に進学するんですが、卒業してすぐに『天狗』を展開する、テンアライドに就職します」。

ラグビーで、鍛えた心とからだ。

話は少し飛んだが、「青森山田」と言えば、いまや野球の名門校である。中学で野球をやり、ピッチャーで4番だった田中氏である。野球推薦か、と思ったが、そうではないらしい。「それは、いまの話でしょ。私らの時はそうじゃなかった。青森山田の生徒っていうだけで、アルバイトも断られるくらいの高校だったんです(笑)」。
中学では怖いもの知らずの田中氏だったが、さすがに怖い高校だと思っていたそうだ。「公立高校を落ちたので、就職しようと思っていたんです。でも、親父が『高校くらい行け』っていうんで、私立だったんですが、行かせてもらうことにしました」。
中学時代といっぺんして優等生になる。3年間、無遅刻無欠席。「怖いと思っていたんですが、入るとそうでもないんですね。たしかに1/3くらいは怖い人でしたが、残り2/3はバカだったんです。私も含めて(笑)」。
この高校で、田中氏はラグビーに出会っている。優等生の理由も、無遅刻無欠席の理由も、ラグビーが一枚噛んでいる。「ラグビー部の顧問に誘われてね。でも、最初はやる気もなくってサボっていたんです。1年の時は夏合宿にも参加しませんでした。ところが、合宿から帰ってきた奴らをみて、感動しちゃうんですね。みんな別人のようになっていて。格好いいな、と。それで、私も真剣にラグビーをするようになるんです」。
話は脇道にそれるが、ラグビーに偶然はない、という。それが正しいのかどうか、聞いてみた。「そうですね。偶然は、絶対ない。野球とかならピッチャーの調子が悪くて、っていうのがあると思うんですが、ラグビーは強いチームに、弱いチームが勝つなんてことはまずない。偶然がないスポーツだから、相手に勝つには、相手より強くならないといけないんです」。
猛練習をつづけたそうだ。「あの時のことを思えば、どんなことでも耐えられる」と田中氏は笑う。

料理のプロの技。

前述通り、高校を卒業した田中氏は「天狗」を展開するテンアライドに入社する。2年間、居酒屋で勤務して、もう辞めようと思ったそうだ。「それが、社長の耳に入って、居酒屋がイヤでも、中華ならいいだろうって、逆に、中華の立ち上げに誘われるんです」。
この時、田中氏は、「プロを観た」という。どういうことだろう。「中華の新事業です。それを立ち上げるために、まず四川飯店に3ヵ月修業に行きました。当時20歳くらいでした。四川飯店で勤務されていた山本さんを会社にお招きし、その下で料理を教わりました。ぜんぜん、敵わなかったです。もちろん、敵うなんて思っていたわけじゃないですが、私も2年間居酒屋で調理をしていましたから、多少はと思っていたんです。でも、山本さんの前にでると、タケノコ一つ切れないんです(笑)」。何から何まで、まさにプロの技だった。
「中華料理の値段は、コックの腕の値段だ」という話を良くされたそうだ。「『フカヒレも、そうだ。素材が、けっして高価なわけじゃない。しかし、何日もかけ食べられるようにして、味をととのえる。その時間と技が、値段になっているんだ』。そんな話です。私の力のなさを痛感するとともに、中華料理の奥深さを魅せられた時でした」。
得難い時間を得た。ふつうなら、四川飯店出身の料理人から直接指導してもらえるチャンスはそうない。しかも、田中氏は本格的に料理を習ったこともない素人同然だからなおさらだ。
指導いただいた山本氏には、感謝が尽きない。ちなみに、現在、山本氏は、田中氏の下で、一つの店を運営されている。

ラーメン店、オープンまで。

「オープンするって時に、病気がちだった親父が危ないってことで、実は、会社を辞めて青森に帰ります。でも、向こうにいたら、ぜんぜんだめで親父の見舞いにもほぼいかず昔のツレと遊んでばかりいました。でも、東京で働き詰めだったでしょ。だから仕事が習性になっていたんでしょうね。仕事をしたくなっちゃって。たまたま友達が出稼ぎに行くっていうもんですから、私もついていきました。鳶職でした。川口ジャンクションや、レインボーブリッジ。あれに少しはかかわっています」。
どこかで飲食に戻りたかった、と田中氏はいう。鳶をやりがなら、焼き鳥店でバイトをしたのは、その思いを少しでも満足させるためだった。鳶職も、結構、いい給料になった。でも、心は飲食である。そんな時、行きつけの喫茶店のマスターが、救いの糸を垂らしてくれた。
「資金を出すから、ということでラーメン店をすることになったんです。中華じゃなく、ラーメン専門店です。すぐにオープンっていうわけにもいきませんから、とりあえず、あるラーメン店でバイトを開始しました。そのあと、いろいろあって店を辞めて、トラックの運転手になります。トラックに乗ったのは日本中のラーメンを食べ歩くためでした。そうしながら、1年半くらいかけて、スープをつくりました」。 スープは豚骨。田中氏が全国のラーメンのなかで、最も旨いと思ったラーメンが「博多ラーメン」だったからだ。
「『うまかっちゃん』ってインスタントラーメンがあるでしょ。最初食べた時、あぁ、これがあの『うまかっちゃん』の本物だ、って感動して。当時は背油が主流だったんですが、私はこの博多の味で勝負しようと思ったんです。でも、博多ラーメンって麺も違うんです。だから、わざわざ博多までトラックで行って、いまもお付き合いがある製麺所まで探して。それでいよいよオープンするわけです」。
1995年11月30日、足立区に田中氏、初のラーメン店がオープンする。

客が旨さに気づくか、こちらが先に撤退するか。

共同経営的な状況でオープンすることになった、ラーメン専門店。調理はもちろん店の切り盛りもすべて田中氏の仕事だ。田中氏いわく、「最初は、まったく客が来なかった」そうだ。近くに人気のラーメン店があり、たいてい、田中氏のラーメン店は素通りされた、という。
「それで、半年くらいかな、資金を出してくれた喫茶店のマスターが『田中君、もう売っちゃおう』っていうんです。でも、私には自信があった。いま客は来なくてもいずれは、という自信です。それで、給料はいらないっていうんです。いらないから、つづけさせて欲しいと」。
いずれ売れる。それは、意地ではなく、確信だった。「だって、全国のラーメンを食べ歩いて、これだと思ったラーメンです。間違いありません」。ただ、意地ではなかったが、意固地には、なっていたかもしれない。「替え玉って向こうじゃあたり前なんです。だから、替え玉を知って欲しくて、ごはんもおきません。ギョーザや焼飯も、もちろんなしです」。
いまも、むろんラーメンをつくる時となると気迫がただようが、当時は、いまとはまた違った気迫がこもった表情だったに違いない。
「1杯のラーメン。それだけで勝負したかったんです。サイドメニューで、ごまかすというやり方はできなかった。だって、それじゃ専門店の意味がない。1杯のラーメンで列をつくる、これが理想です」。
「1品で勝負する、難しさと楽しさ」と田中氏は表現する。「少しずつですね。最初はくさいって言っていた人も、少しずつうちのファンになってくださって。最初は10人のお客様がいたら、1人くらいだったんです。旨いって顔をしている人は。それが少しずつ、旨いという表情のお客様の割合も増えて。3年目には、近くにあったラーメン店と人気が逆転しました。相当な売上になっていたはずです」。
ところが、売上が上がると、また違う問題が起こった。それには、我慢できずに、店を離れた。

そろばん弾いていたら、旨いラーメンなんてできない。

「いまでも、資金を提供してくれたマスターには感謝しています。でも、あの時は、無性に腹が立った。それで、店を離れ、勝負を挑むように同じ道沿いにラーメン店をつくったんです。この時も最初はボチボチだった。でも、3年したら、やっぱり今回も逆転していました。ラーメンってホント難しいんです。昔は、500人分のスープをつくって、450人ぶん捨てたこともある。そろばん弾いていたら、旨いラーメンなんてできないんです。でも、旨いものを真っ正直につくっていれば、すぐにではないですが、お客様が少しずつでも評価してくださって。結局は、いい売上を叩き出す人気店になると私は思っているんです。というか、それを証明してきたと思っています。」
現在、田中氏率いる株式会社GMSの店舗数は、10店舗である。将来構想を最後に伺った。「いやぁ、ぜんぜん考えてないんです。『考えてないっていいながら、考えているでしょ』って言われるんですが、まったく考えてないのが正解です(笑)。たとえば、海外に進出するとか、上場するとかですね。そういうのに、私自身がまったく興味がない。あるとすれば、スタッフに店を持たせてやりたいってことだけです。いま独立っていったら、1人じゃできないですよ。だから、私がバックから支援する。そういうかたちで、みんなを独立させてあげられたらと思って取り組んでいます」。
そんなスタッフに日々、言い続けているのは、「最低2年かけて店を作れ!」「利益は考えずに旨いものを作れ!」の2つ。まさに、ラーメン、バカの教えである。しかし、バカが勝つことが、世の中、おうおうにしてある。

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