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第545回 株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏
update 16/06/28
株式会社しゃぶ禅
菅野 晃氏
株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏
生年月日 1942年9月16日
プロフィール 和歌山県にある九度山町に生まれる。5人兄弟の末っ子。大学卒業後、住友スリーエムに就職。6年後、兄である菅野諒氏に誘われ、専務取締役として、諒氏の会社に転職。諒氏とともに「マハラジャ」をつくり、チェーン店化し、日本中にディスコブームを巻き起こす。「しゃぶ禅」の創業は1983年。「マハラジャ」とは異なる、第二のブランドとして育てられた名店である。
主な業態 「しゃぶ禅」
企業HP http://www.shabuzen.jp/

和歌山の九度山に生まれた、長男と次男。

九度山町は紀ノ川の南側にあり、かつて「真田幸村」が配流させられた町として知られている。この九度山町に今回ご登場いただく菅野氏が生まれたのは1942年のこと。
当時から人口が少なかったに違いないと調べてみたところ、1970年以降に過疎化が進み、年代が代わるたびに一段と人口が減っていた。
菅野氏の父親はこの町でパルプ工場を経営されていたそうである。大阪大学を卒業し、大手化学メーカーに入社。子沢山で、末っ子の菅野氏は5番目の子どもである。しかも、長女とは14歳違い、長男とも7歳離れている。
「いちばん近いのが三女ですが、それでも5歳離れていました。年がぜんぜん違うから兄弟喧嘩もなく、かわいがられて育ったというのが、小さな頃の記憶です」。
事業をされていただけに裕福な環境だったはずだが、菅野氏が小学5年生の時に会社が倒産してしまった。
「そういうこともあって、私が中学1年生の途中で一家で東京に引っ越します」。東京に引っ越したのは、父親の親戚が多くいたからだそうだ。
ところで、この時、長男の菅野諒氏は、すでに大学生である。「兄は、立教大学の経済学部です。彼は、大学を卒業し、大手の証券会社に就職しました」。
小遣いも、兄からもらったそうだ。そんな兄の諒氏は、29歳の時、証券マンとして敏腕を振るいつつ、そのかたわらで飲食店を開業する。
「私が22歳の時ですね。原宿に『檻の中』という今でいうスナックをオープンしました。民家の倉庫を改造したお店で、広さは20坪くらいだったでしょうか。当時として斬新で、靴を脱いで飲食するスタイル。いわゆる『絨毯BAR』です。私も何度か客としていきましたが、丸いテーブルがあって、ギターの弾き語りがあり、お客様は絨毯のうえに座布団を敷いて飲食します。この店が大ブレイクしました」。
絨毯BAR。「絨毯」という響きが、今ではなんとなく懐かしいが、1960年代の当時は、それがまだ、斬新な響きだったのだろう。
「月商300万円。利益は月150万円。初任給が、2万円くらいだった頃のことです。私はちょうどその頃、芝浦工大を卒業し、住友スリーエムに就職。正確な記憶はありませんが、初任給はたしかに2万円くらいだったと思います(笑)」。
当時、「住友スリーエム」はコンピュータに利用する磁気テープなどをつくっていたそうだ。菅野氏は、エンジニアで採用されている。

「最後の20セント」が、大ブレイク。

兄の諒氏は前述通り、最初は証券マンと二足の草鞋を履かれていたわけだが、2年くらいして飲食一本に絞られた。そして、『檻の中』以外にも、2店舗目、3店舗目を出店されていく。
ちなみに、この2つの店名も表記する。2舗目は、渋谷にオープンした「深海魚」。そして、たぶん、こちらのほうが有名な気がするが、六本木にオープンした「最後の20セント」。
いずれも、一世を風靡した店である。
「最後の20セントは、アルカポネみたいな世界観です。スーツの胸ポケットに、おもちゃのピストルを差し込んで」と菅野氏は愉快そうに話す。
もちろん形式は「絨毯BAR」。店内には真紅の絨毯が敷き詰められていた。
この店が、いうならば「マハラジャ」の原型である。
ところで、菅野氏は28歳の頃に、兄の諒氏から誘われている。
「会社組織にするから来いっていうんです。当時、私は6年目でしょ。親会社のスリーエムに1年の留学も決まっていたんです。でも、兄から『給料はこれだよ』って言われ、その額についクラって来て、『わかった』と返答してしまうんです。え? 額ですか?当時、6年目の私の月給が6万円くらいです。兄が提示した額は5〜6倍でした(笑)」。
むろん、額だけの話ではないだろう。何かと気をかけてくれる兄の誘いをむげにはできるような菅野氏ではない。
菅野氏は、28歳で「専務取締役」となった。

ディスコテック。新たな時代の幕開け。

「当時の会社は、むろん若いスタッフばかりです。アルバイトだけで40人くらいはいました。私たちも模索の時代です。時代の先がわからない時代だったんです。ただ、お手本がありました。アメリカです」。
菅野氏によれば、当時は「最後の20セント」もそうだが、生バンドが決め手だった。
「しかし、生バンドはリアルではあるんですが、一流のバンドにはかなわない。なかには下手な奴もいるわけでしょ。ならいっそのこと、ディスクにしたほうが『音楽的に上等なんじゃないか』ってことになって。アメリカではそういうディスコテックっていうのがすでに流行りだしていたこともあって、それをお手本にやってみようということになったんです」。
これが、日本におけるディスコテックの始まりである。ディスコテックは、「ディスコ」の語源となったフランス語「discotheque」、意味は、「レコードの置き場」となるそうだ。
このディスコテックの1号店が「メビウス」である。
「メビウス」がオープンしたのは、昭和50年の頃。ウィキペディアでは、「日本で最初にレコード演奏のみで営業した」と紹介されている。
むろん、こちらの店を記憶している人も少なくないだろう。ともかく、兄、諒氏とともに、菅野氏兄弟の新たな幕が上がる。

デヴィ夫人のアドバイスをもとに、「マハラジャ」オープン。

「オープン当初は、それほどたいしたこともなかった。当時は、口コミですから、そう簡単にはいかない。しかし、いったん口コミで広がると、凄い勢いで来店されるようになります。『メビウス』でも、だんだんと売上がアップしてきたなと思っていたら、堰を切ったように、お客様が来店されるようになりました」。
ディスコテックが、日本でも受け入れられた証である。しかし、まだ、始まりにすぎなかった。
「メビウスは大ヒットしたんですが、ちょっとした問題も起こるんです。とんがった店だからなんですが、不良少年もやってきて、朝方になると喧嘩も起こる。どうしたもんかな、と思っていた時にデヴィ夫人にアドバイスをいただくんです」。
デヴィ夫人というのは、むろん、あのデヴィ夫人である。
「だから、今デヴィ夫人が『マハラジャと名付けたのは、私』、なんてことをTVで発言されていますが、その通りなんです(笑)」
どういうことだろう。
「兄が、ある時、デヴィ夫人にヨーロッパを案内してもらっていたんです。その時に、白人がイメージするアジアについて、教えてくださったそうです。『アジアはみんなシルクロードでつながっていて、日本も、中国も、インドも一つのイメージにまとめられて観られている。だから、白人を招こうとするなら、店名もインド系の名がいい。<マハラジャ>か<ラジャーコート>にしなさい』って店名までつけてくださったんです」。
「私たちが狙っていたのは、健全なディスコテックです」。
それは、言い換えれば、客を選択するということでもあった。
象や豹の置物を配置したり、蓮の葉っぱに照明を当てたりして、インドの世界観をつくりだした。タキシードを着用した黒服が話題となった。「ドレスコード」という言葉を知ったのは、マハラジャが最初という人も多いだろう。「お立ち台」は、女の子のステージとなった。はちみつトースト、トロピカルアイスクリームも、話題とさらった。
「最初に出店したのは、大阪です。次に京都、それから仙台、熊本とつづけて、7店舗目にして初めて東京の麻布十番に出店しました。この店を出店したことで、『マハラジャ』の名が全国に広がるんです」。
たしかに、大阪でも、京都でも、ブレイクはしていたが、「マハラジャ」という名を日本中に轟かせたのは、旗艦店でもあった麻布十番の「マハラジャ」である。
「マハラジャ」については今更、いうこともないだろう。
日本の若者が、熱狂した。折しも、バブル時代。喧騒に夜は包まれ、夜明けの静寂は、忘れられたままかのようだった。
ともかくも、この「マハラジャ」によって、日本の「ディスコ」時代が幕を開け、社会的な現象ともなる。
菅野氏は、その仕掛け人の1人だったわけである。

宴のあとの宴。

「『しゃぶ禅』は、まだマハラジャが大ヒットしている時に、新たなブランドを立ち上げる目的でオープンしたお店です。当時は、食べ放題で3500円。それなのに、チープな店じゃなく、食材も最高だったもんですから、そりゃ人気になります。しかし、だいたい原価割れですよ(笑)。それでも当時は、採算を度外視しても次のブランドを開発しておこうという意気込みが強かったんです」。
「マハラジャ」をブレイクさせた会社である。出店の依頼は少なくなかった。カラオケルームもオープンしたそうだ。
音楽と飲食。「楽しむ」という能動的な言葉で、音楽と飲食という2つの言葉を一つにする。
ところで、「檻の中」からスタートした、菅野兄弟の店づくりからすれば、「しゃぶ禅」は、異質なイメージに映る。
「時代ということなんでしょう。マハラジャまでは、いうなれば時代がそういうことを要求していたんだと思います。私たちが、それを先駆けたというわけです。しかし、バブル経済が終焉し、時代がかわると、当然、要求されるものも異なってきます。そういう意味では、今は、『しゃぶ禅』の時代ということなんだと思います」。
今、「しゃぶ禅」は全国に広がっているが、直営店は8店舗だけだそうだ。
「カウントが難しいんです。社員たちに譲ったのも少なくありませんから、純粋な直営は、8店舗です」。
菅野氏は、指折り数える。「六本木、渋谷、銀座、川崎、新浦安、新潟、名古屋、京都、これで計8店舗でしょ」。今後の目標を伺うと「ひとまず関西に1店舗、東京に1店舗出店すること」だという。
「鍋料理だから、夏場をどうするかも考えていきたい」と言って笑う。
20世紀の最後の20年を彩った「マハラジャ」を代表とするディスコの多くは、いま、宴のあとを迎えている。
それもまた時代の流れなのだろう。
それを仕掛け人の菅野氏自身が肯定する、そこがまたいい。
宴の最中に生まれた、もう一つのブランド「しゃぶ禅」が、いまの宴をつくっている要因だと思うからだ。
最後に兄の諒氏について、伺った。
「7歳違うでしょ。遊んでもらったり、小遣いをもらったり、ま、意見が違うことはあったけど、喧嘩をしたことはなかったね。やさしかったし、こわかった」。
これが、兄、諒氏評である。
偉大な兄に、偉大な弟である。

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