有限会社BOND OF HEARTS(ボンドオブハーツ) 代表取締役 塚田兼司氏 | |
生年月日 | 1971年2月12日 |
プロフィール | 長野県長野市生まれ。高校時代にラーメン店でアルバイトを開始。店主を慕い、卒業後、就職する。その店の店主に背中を押され、一国一城の主になる。現在、日本ラーメン協会の理事を務める。 |
主な業態 | 「気むずかし家」「笑楽亭」「けん軒」「烈士洵名」「武士」他 |
企業HP | http://bond-of-hearts.jp/ |
塚田氏が生まれたのは、長野県の県庁所在地である長野市である。生年月日は、1971年2月12日。2016年に行ったこのインタビュー時にはすでに45歳になっている。
「私は長野生まれですが、父が大蔵省(現財務省)で勤務していたものですから、育ったのは、東京と長野の両方です。5歳の時に父を亡くします。母は、美容師だったんですが、父が亡くなってからは、『給食のおばさん』をはじめ、私たち兄弟を養ってくれました。給料は8万円。そのなかから 祖母に食いぶちとして5万円を渡していたものですから、兄を含め、私たち家族3人の生活費はたった3万円でした(笑)」。
貧しさには慣れっ子である。
「ずっと貧しかったから、当時は、貧しいことにも気づかなかった」と塚田氏は笑う。
「私は小さな頃から、いたずらっ子で、とてもひょうきんな子供でした。
それでも、まじめなところもあって、小学生の頃から新聞配達をはじめ、植木屋をやっていた叔父の手伝いなどをして、自分で小遣いを稼いでいました」。
自立と自律。「近所の人から良く怒られた」というが、少年の頃から塚田氏は、すでに自立し、自分をコントロールしていた気がする。
「長野という土地柄もあると思うんですが、城や武士というのが好きで、中学生の頃には模造刀まで持っていました。もちろん、お金をためて買った貴重品です(笑)」。
貴重品というが、その刀でケンカ相手である「兄をぶった切ってやろう」と思っていたそうだ。
高校生になるまでお年玉もすべて、母に没収された。でも、それがイヤだと思ったことがない。
「ラーメンは、ね。母が年に1回くらい連れて行ってくれた唯一の外食です」。最初の一杯は、「麺・ズ・テーブル亀屋」のラーメン。いまだ店名まで記憶している。裕福ではないが、裕福な子どもをみてひがんだことはない。
全員、公平。友達はいっぱいいた。「もともと、私たちの時って子どもが多いんです」と塚田氏。もっとも友達のほうからみたらどうだったんだろう。「中学に入学して5日目に大喧嘩をして、それから少しは怖がられていたかもしれません(笑)」。
高校に進学すると早速、バイトをはじめた。つけ麺「大王」だ。「この店で、運命の『オヤジ』と出会うんです。父を早く亡くした私にとって、この店の『オヤジ』は親父と同じ存在になっていきます」。
「親父の背中」という言葉がある。塚田氏にとって「親父の背中」は、このラーメン店の店主の背中だった。
「高校時代を二つの言葉でいえば、バイトとバンドです」。
バンドを組んで活動をしていく道もあったが、それについて塚田氏は次のように語っている。「バンドって、いつか解散とかするでしょ。あれがイヤだった。だから、解散せず一緒にいられる仕事を選択するんです」。
高校卒業時の話である。
今塚田氏は、「日本ラーメン協会」の理事を務めている。だからといって、最初からラーメンが大好きだったわけでもない。
「オヤジが違う仕事をしていたら、たぶん、そっちの仕事をしていたでしょうね。飲食でなかったかもしれません。オヤジと一緒ならなんでも良かったんです」。
「オヤジ」と慕う店主の背中を追いかけて今がある。それは間違いない。
「私がバイトを始めると、バンド仲間や友達がやってくるようになるんです。『俺もバイトしたい』って奴もいて、スタッフも勝手に集まってくるもんですから、私が入店してからは、1回も求人広告を出したことはありません。お前が来てから、人に困ったことがない、とそれだけはオヤジに褒められました」。
塚田氏が、高校を卒業して社員になる頃には、すでに店舗も拡大し、店名も「笑楽亭」となっていた。「当時、ラーメン専門店はあまりなく、だいたいのラーメン店は食堂みたいなもんでした。だから、うちの店も何でもあり。メニューもなんだってありです」。
20歳になって、オヤジから独立を勧められた。
「最初は、断ったんです。独立するなんて思ってもいなかったし、当時は40歳くらいになって一軒家が持てるくらいになればいいや、と、そういうささやかな目標しか持っていませんでしたから。それになにより、オヤジといっしょにはたらいていたかったんです」。
しかし、オヤジさんは、もう腹を決めていたようだ。
店名も、そのまま、味もそのままで店を塚田氏に譲った。「オヤジはもう少し小さい店をやるっていっていました」。むろん、買い取る訳だから、資金はいった。合計850万円。市や銀行からぜんぶ借りてまかなった。
むろん、それだけの投資である。採算ベースに乗らなければ、借金も返済できない。「とにかく勉強だ、と思って、4ヵ月くらい日本中を渡り歩いて、ラーメンを食べまくりました」。正確には、数えていないが「5〜600軒は食べ歩いた」とのことだ。九州には1ヵ月半ほど滞在。昼は勉強をかね、タダ働き。夜は違った店でバイトし、生活費を稼いだ。当時の睡眠時間は、3時間。
塚田氏の発想は、とかくおもしろい。今あるものではない「何か」をプレゼンスとする。よく言えば、先進的。悪く言えば奇抜。しかし、奥は深い。オリジナルの追求とも言えた。
「私がオヤジに背中を押してもらって開業した当時、信州には醤油と味噌しかなかったんです。ご当地の味というのがあってもいいと思うんですが、何しろ私自身全国でラーメンの味修業をしてきたわけですから、ラーメンは醤油と味噌だけじゃない。もっといろんなラーメンがあるんですよ、ってそれを伝えたかったんです」。
むろんオヤジさんから譲りうけた1号店は、店名も、味も、そして客もそのままである。だから、年間4500万円の売上もかわらずキープできた。「最初から50万円くらいの給料がとれた」そうだ。
快調すぎる滑り出しである。
2店舗目は、友人から頼まれ買い取った店。居酒屋「笑楽」と名付けた。ショルダーからもわかる通り、こちらは居酒屋。塚田氏がオープンしたラーメン店以外の唯一のブランドである。
「出だしからこちらも絶好調でした。商売ってこんなに簡単なんだって、天狗になったのもこの頃です」。
人に店を任せるようになったのも、この頃から。
「私が店に立たなくなってから、加速度的に業績が悪化しました」。今までの繁盛がうそのように、客がいなくなる。最終的には不良のたまり場みたいになっていたそうだ。結局、この店は、8年で閉める。
鼻を折られた格好だが、塚田氏は揺るがない。ラーメンで負けたわけではなかったから。
3店舗目は、24時間営業のとんこつラーメン店<うまいもん工房 「けん軒」>。
「長野でとんこつでしょ。なるたけ匂いを出さないようにしたんですが、最初はパッシングの嵐です(笑)」。それでも旨いものは旨い。少しずつ、「とんこつ」も長野の人たちに受け入れられていったという。
4店舗目は、<頑固麺飯魂 「気むずかし家」>。全国でも大変めずらしい鶏白湯スープを使い、真っ黒な麺を使用する。むろん、最初は客もおっかなびっくりだったに違いない。しかし、この「気むずかし家」をきっかけに、全国的にブレイクする。
ところで、もうお気づきの人もいるだろうが、塚田氏は出す店、出す店、店名を変えている。これも、ラーメン店では初に近い取り組みではなかろうか。
人気店の名をそのまま使えば、集客に有利である。それが鉄則とわかっていても塚田氏は、店名を変える。塚田氏に聞けば、「リスクヘッジ」という返答。だが、背景には、創業時からのいろんな味を知って、楽しんで欲しいという思いが根底にある。
ともかく、こうしてブレイクした塚田氏は、関東にも進出する。
勢い余って海外にも出店したが、こちらは失敗。
北京に出店した海外1号店は、3日で閉店。香港にも出店したが、こちらも結局、騙されたようなもので、1年で閉店している。
現在、塚田氏は、直営11店、FC8店を展開している。昔のように勢いだけではない。ビジネスモデルも確立している。閉店した店を買い取り、初期投資を抑えているのも、その一つ。その一方で、今も、すべての店を違う味にすることによって、時代に取り残されないよう常に工夫しているそうだ。
ちなみに長野では、「ラーメンバラエティ」なる番組を7年間やっている(<塚田けんぢのみんなのラーメン>で検索)。長野のラーメン屋店主が課題に沿ったラーメンを作り対戦などしているらしい。そちらもおもしろい。
塚田氏は、「一杯から始まる無限のストーリー」という言葉を大切にしている。ラーメンで人の命を救える、誰かを笑顔にできると信じて疑わず、そこに無限の可能性を感じているということである。
言葉だけでなく、実践もしている。老人ホームなどの施設にも、塚田氏はラーメンを届けている。
自身を育ててくれた師であり、オヤジと呼ぶかつての店主には、彼が塚田氏に譲ってくれた店舗に今、店主として立ってもらっているそうだ。
その店主がスタッフたちに、こう言っているらしい。
「あいつは昔から、他のクソガキとは違っていた」。
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