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第551回 株式会社アッカ・エンタープライズ 代表取締役 水落大稔氏
update 16/08/09
株式会社アッカ・エンタープライズ
水落大稔氏
株式会社アッカ・エンタープライズ 代表取締役 水落大稔氏
生年月日 1969年1月7日
プロフィール 東京築地に生まれる。高校卒業後、調理師専門学校に進学し、「シェラトン」に就職。「シェラトン」を含め、4店舗を経験したのち、単身、イタリアへ渡る。各地で修業し、1998年、目黒で創業店「TAVERNA MESSINA」をオープンする。1年後の1999年、自由が丘に移転。イタリアレストランのオーナーシェフとして、力強く、歩み始める。
主な業態 「TAVERNA MESSINA」「和バル艸」「和牛1頭買い 焼肉ハンター」他
企業HP http://acca-eps.com/

東京、福岡、熊本、佐賀、福岡、広島、そして、東京。少年の旅。

東京の築地生まれだが、記憶はない。父の転勤にともなって、生まれてすぐ福岡に引越したからだ。「私の父は、生命保険会社に勤めている典型的な転勤族でした。幼稚園の時に、熊本に引越し、佐賀でも暮らします。小1から小3までが福岡で、小4から中2まで広島です。ようやく生まれ故郷の東京に戻って来たのは、中学3年生になってからです」。
絵が上手く、コンクールで入賞することも少なくなかった。スポーツは水泳。いろんなところで暮らしたが、水泳はずっとつづけていた。印象に残っているのは、広島。なんでも、生徒たちがバイクに乗り校内を走り回っていたらしい。
「あれに比べると、東京は、まともだなと。不良でも、いちおう勉強していましたから(笑)」。
方言のおかげで、バカにされたこともあった。何より、生意気な奴が来たぞ、と軽いいじめにもあったそうだ。どうやら生まれ故郷は、手放しで歓迎してくれなかったようだ。
「それにもう一つ驚いたのは、進学が当たり前だったこと。向こうでは、就職もふつうの選択肢だったもんですから、『え、みんな進学するんだ』みたいな。そういう意味でいえば、私は、広島的な人間だったんでしょうね。何しろ、小4から中2まで、暮らしていましたから。ハナから進学するつもりもありませんでした」。

美容師になろう。

「進学せずにどうするかというと、『美容師になろう』と漠然と考えていました。ところが、教師から『とにかく高校には進学しろ』と言われて、ラグビーも少しやってみたかったので、ラグビー部のある高校に進学しました。とはいえ、結局、ラグビーはしなかった。ほかに楽しいことが一杯あったからです」。
3年後、高校を卒業する時も「美容師になろう」と思って、教師に相談する。「ところが、『だめだ』って、言われて。『それじゃぁ、料理人は?』というと、『それならいい』と、教師が背中を押してくれました。それで専門学校に進むんです」。
美容師には進んでなろうと思っていたが、料理人は、どちらかといえば消去法での選択である。「子どもの頃、料理人の山高帽を観て、かっこいいなと憧れたことがあるには、あるんです。そういう経験があったから、料理人が、次の選択になったのかもしれません」。
しかし、この単純な選択は、けっして楽な道にはつづいてはいなかった。

料理人に世界に飛び込んで最初に、出会ったのは「徒弟」という制度。

高校生を卒業した水落氏は、料理の道に進むため「調理師学校」に進学。学校ではフランス料理を勉強していたそうだ。専門学校を卒業した水落氏は、「シェラトンホテル」で勤務する。
「当時は、ホテルと言っても料理人の世界は、とにかく殴る、蹴るという完璧な徒弟制度でした(笑)」。ヒエラルキーでいえば、新人がいちばん下。水落氏も、何回も「辞めよう」と思ったそうだ。「それでも結局、1年半つづけ、上司の転職に相乗りするかたちで、私も『ホリデーイン豊橋』に転職します。私だけではなく、上司の下ではたらいていた料理人みんなでの大移動です」。
師がいうことには、逆らえない。この「ホリデイインホテル」で3年半勤め、今度は、水落氏が後輩を引き連れて、「出光御津マリーナ」に転職する。オープンニングで、用意されたのは、料理長のポストだった。
「でも、ちょっと話が違ったんですね。マネージャーも兼務するはめになって、心身ともに疲弊してしまうんです。それで、連れてきた連中を、また引き連れて退職します。彼らの就職を斡旋し、私は1人、東京の実家に戻り、引きこもりました」。
料理人という仕事をはじめ、合計6年半。ということは、24、25歳の頃の話である。料理人の世界には、馴染めたが、その一方で、会社組織に対し、納得できない部分が少なからずあったのだろう。このような不満が、やがてイタリアへ、水落氏を向かわせる。
「そうですね。そのあとシェラトン時代の上司の下で勤務したりもするんですが、そこでも、納得ができなかった。それで、イタリアにつてができたこともあって単身、イタリアに渡りました。もちろん、イタリア語なんて何一つわかりません」。

イタリアへ。そして、帰国、開業。

「当時はまだ、フランス料理の時代で、イタリア料理の専門店も少なかった時代です。イタリア料理に興味を持ち、本格的に勉強しようと思えば、イタリアに行くしかなかったんです」。
この「飲食の戦士たち」でも、時を同じくして、イタリアに渡ったシェフを何名かご紹介している。最初から言葉が話せた人は少ない。そういう意味では、文化交流のパイオニアたちでもある。
「私が、イタリア料理に惹かれたのは調理師学校の卒業旅行で、イギリス、フランスといっしょにイタリアもめぐったからです。私は、イタリア料理がいちばん気に入りました。そして、ついに、そのイタリアへ。向こうにいたのは、25〜27歳までの2年間です。イタリアは、地域によって、オリーブオイルの味も違うし、パスタも、実は、違う。それがまた、興味深かったですね」。
各地を回り、有名店でも、町の小さな店でも勤務した。
ところで、どうして、言葉も通じないのに仕事ができたんだろう。「言葉はわからなくても、だいたい次になにをすればいいかは、いままでの経験でわかるんです」。
料理をするには、言葉はいらない。アイコンタクトでも、充分だったということだろうか。「そうですね。料理をはじめた頃から、なんでもすぐにできて評価していただいていました。イタリアでも、ある意味、そうだったかもしれません。でも、たぶん、怒られてもいるんでしょうね。言葉がわからないから、気づかないだけだったかもしれません(笑)」。
27歳。「店を手伝って欲しい」という一言で、水落氏は、帰国する。しかし、帰国すると、見事、当てが外れた。「料理長が辞めるからと言われて、帰国したんですが、料理長がぜんぜん辞めないんです(笑)。それで、『それなら、起業するか』ということになって。そう1998年のことです」。
喫茶店を閉めるという知り合いから、居抜きで店を譲ってもらった。8坪の小さな店だった。「小さな店だったんですが、夜だけで月に200万円を売上ました。でも、そう長くは営業しませんでした。家賃とか、そういうのが、結構、べらぼうだったものですから」。
「家賃を下げてもらおう」と話し合いに行くと、逆に、「値上げしたいくらいだ」と言われた。客はついていたが、決心する。
「少しずつ金融機関からも信頼をいただいていたもんですから、翌年の1999年ですね、資金を融資していただいて、自由が丘に移転オープンします。今度は、20坪。家賃42万円。初期投資は3500万円かかりました」。
「それでも、創業店というか、以前の店のことがあったんで、大丈夫だと計算していたんで。ところが、ところが、です。半年間、ぜんぜんだめ。目標400〜600万円に対して、200万円くらいです。昼夜やってこれですから」。以前の店では、夜だけで200万円あった。店が広くなったぶん、スタッフも多いから人件費もかさむ。「ちょっとあの頃は、ヤバかったですね。200万円でカツカツ。首をくくるしかないと思った時もありました。ところが、半年くらいか経った頃からでしょうか。だんだん、兆しみたいなのが、観えてきたんです」。
「東京レストランガイドで1位ですよ」。そう教えてくれたのは、お客様だった。「うちには、パソコンもなかったから、何のことかわからなかったんですが、どうやら、『東京レストランガイド』というレストランガイドのイタリアン部門で1位になっていたらしいです」。さっそくパソコンを購入してみんなで、確認した。しかし、わざわざ確認するまでもなかったかもしれない。以前とは比較にならないほどお客様がいらっしゃったからだ。
「2年目の12月には900万円をたたき出しました。そして、3年目に2号店をオープンしたんです」。
絶頂期である。TVなどにも出演したのは、この頃のことだろうか。

脱、レストラン。水産事業を立ち上げる。

「当時、店は順調で、出店も進めていくんですが、私が店にでないと、売上が下がるというようなことがつづきまして。店を任せた店長たちも、まじめにやってはくれているんです。しかし、どこか危機感がない。彼らは、『オーナーがいた時を基準にするから、下がっているだけだ』というんです。つまり『最初からやれば、オレたちだってできる』というわけです。彼らの言いぶんにしたがって、私は店を投げだします。そして、マグロの輸入ビジネスをスタートさせるんです」。
いきなりのステージチェンジだが、むろん伏線があった。「イタリアレストラン以外にも、浜焼きの店をやっていたんです。その時に、お店もいいんですが、食材を下すのもいいなと思い始めたんです。その食材が、マグロだったわけです」。
インド洋にも、船をだした。合計6年間も、この仕事をつづけている。「しかし、結局、うまくいきませんでした。人脈は、財産としていまも残っていますが、それ以外は、徒労に終わったと言えるかもしれません」。立ち上げた水産事業に情熱を傾けているうちに、店長たちに任せていた店も、うまくいかなくなっていた。
結局、負債店舗3店舗を抱えることとなる。しかし、傷ついた店も、水落氏にとっては何より愛着ある店だ。立て直しに乗り出した。

国内も、海外も、これからの舞台である。

現在、水落氏は、イタリアンレストラン3店舗、ジャパニーズレストラン4店舗を展開している。水落氏が、戻った店はふたたび活気を取り戻した。
今後は、国内、海外ともに視野に入れ展開していくようだ。以下に、年表も追記する。
1969年 1月 東京都築地生まれ
1988年 3月 シェラトンホテル入社
1990年 7月 ホリデイインホテル入社
1994年 4月 出光御津マリーナ料理長に就任、オープニングを手掛ける
1995年 12月 渡伊,イタリア各地を回り修行する
1998年 7月 目黒で8坪のレストラン開業
1998年 11月 (有)アッカ・エンタープライズ設立
1999年 7月 繁盛に伴い24坪の自由が丘に移転 TAVERNA MESSINAをオープン
2002年 12月 二子玉川に48坪のPIZZERIA TRATTORIA MESSINAをオープン
2005年 11月 自由が丘に焼肉ハンターをオープン
2006年 3月 PIZZERIA TRATTORIA MESSINA 元町店  オープン
2006年 10月 PIADINOTECA PATACONE 銀座店 オープン
2008年 10月 自由ヶ丘にACCA ビル 4店舗同時オープン、本社もACCAビルに移転
これ以外にも、すでにお話ししたように、「和バル艸」「和牛1頭買い 焼肉ハンター」「九州博多じもん」「海鮮浜焼き宿 日本漁村組合」などのジャパニーズレストランも展開している。
これが、水落氏のユニークなところだ。
日本と海外をシェフの目からも、ビジネスマンからの目からも追いかけている。一つのところにとどまらない。そういう意味では、転勤族だった父親と一緒かもしれない。もっとも、水落氏の場合は、だれかに言われてではなく、自ら求めてそうしているのだが。
ともかく、東京の片隅で小さく花開いたイタリアレストランはいま、一つのレストラン事業としても大きな花を開こうとしている。

思い出のアルバム
 

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