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第552回 AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏
update 16/08/09
AFURI株式会社
中村比呂人氏
AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏
生年月日 1975年2月4日
プロフィール 大学卒業後、ものづくりを一生の仕事にしようと映像の世界に入るが、1年半で退職。その後、転々とするも、飲食の仕事に惹かれ、レストランでアルバイトを行う。やがて父親から、当時大ブレイクしていた弟のらーめん店「麺処 中村屋」の2店舗目のマネージメントを要請される。
主な業態 「AFURI」「ZUND-BAR」
企業HP http://www.afuri.com/

高校進学までの中村比呂人。

ホームページを観て、いいなぁ、と感嘆する。観ているだけで、気持ちが満たされるホームページに出会うのは、めずらしい。純白な背景に鮮明なラーメンの写真がならぶ。文字の大きさにも、コピーの内容にもイヤミがない。ラーメン同様、こちらのデザインも淡麗系である。
今回、ご登場いただいたのは「AFURI株式会社」の中村比呂人氏。二人兄弟の長男で、次男はTVにも何度も登場している「麺処 中村屋」店主の中村栄利氏である。
「祖父は、鮮魚や青果も扱う商店を営み、父の代でセブンイレブンを経営し、その後、不動産事業も始めました。母は、バスガイド出身で、歴史好き。骨董や、書が好きで、父が事業家とすれば母は文化人でしょうか」。
少年時代の中村氏は、子どものくせに分析好きな、「小憎たらしい子どもだった」らしい。
もっとも、素直な一面もあったようで、小学6年生から通いだした学習塾には、休まずに通っている。
教えることが上手な講師たちから、学ぶことの楽しさを学んだ。様々な学校から集まる優秀な生徒達との競争も楽しかったそうだ。
いったん好きになれば、素直に耳を傾ける。そういう意味では、小さな頃から独自の判断軸をもっていたとも言えるだろう。高校は、「海老名高校」に進んだ。

「司法書士に見切りをつけ、雪山にこもる」。

「大学は法学部に進みました。ただし、勉強よりサーフィンやスノーボードに明け暮れました。大学生の時にしか中々出来ないことを出来るだけやろうと。約2ヶ月ある夏休みと春休みには、カリフォルニアやバリへサーフトリップをしたり、雪山のペンションでアルバイトをしたり。とにかく色々な経験をしたかったのです」。
しかし、しゃぶり尽くすように徹底的に遊んだのも、大学3年の夏まで。秋からはスイッチを入れ替え、司法書士を志し、しゃにむに勉強を開始する。1日平均10時間のハードワーク。これを2年間つづけた。
「でも、本試験の前になって、気が付いてしまったのです。司法書士は、自分が本当にやりたい仕事ではないと。それで、全てキッパリとやめました」。2年間の努力をあっさり捨てられる。それだけ、真剣に仕事について考えたとも言えるし、急に違う何かが、舞い降りてきたとも言える。
その後、「やりたい仕事とは何か」を考える為に、今度は、雪山にこもった。
北海道の有名なリゾートホテルで勤務しながら、中村氏にとっては、文字通り、「こもる」だった。
「屋内プールの監視員をしました。中は暖かいのですが、外は、雪。ガラス張りの天井から見える雪を眺めながら、自問自答し続ける日々でした」。
「いろいろ考えた結果、すとんと腹に落ちたキーワードは、“ものづくり”でした。しかも自分は、飽きっぽいので、“ものづくり”の中でも、毎回違うモノをつくらないといけない仕事をと考え、映像の世界に飛び込みました」。

AD時代から、人気のレストランでのバイトまで。

映像の仕事は、人気職種である。にもかかわらず、中村氏は、民放キー局で勤務を開始する。中村氏自身も、「ラッキーだった」。と回顧するのも頷ける話だ。
ともかく「男子一生の仕事」と決意を固めて飛び込んだ。しかし、1ヶ月ほどで違和感を感じ始める。
「1ヶ月くらいで、これはオレのしたかった“ものづくり”はこういうものではない、と思うようになるんです。もう少し規模の小さなもので良いから、一つのものを細部の細部まで作り込んでゆける仕事がしたかった。でも、『男子一生の仕事だ』と決意してスタートしたものですから、流石にまだ早いと。最低でも1年は続けてみようと心に決めて頑張りました。で、1年間目一杯やったのですが、当初に感じた想いは変わることなく、1年半で辞めるのですけど」。
ADの仕事は、文字通り過酷な日々だった。1年のなかで、4時間以上眠れた日は、数える程しかない。「何日も徹夜の編集作業が続き、一度、ちゃんと家に帰ってシャワーを浴び、暖かい布団で4時間眠れる日があった。あの布団に入った時の幸福感は今でも忘れられない」。と真顔で語っている。「でも、いまになって思えば、いい経験です。あの時を思い出せば、大体のことは乗り越えられます。そして、ここでは「仕事とは何ぞや」という社会人としての根本の根本を学ばせてもらったと思います」。
ADを辞めたのは、24歳の時。
24歳でTV局を退職し、その後、飲食に興味を抱き始める。
そして、レストランで勤務した理由は、飲食もまた、ものづくりであるということ。しかし自身の性格からいって、生涯キッチンに立って、料理をし続けることは難しい。であればどうするか。
「経営者になろうと思ったのは、その時です。ただし、経営者になるには、現場もわからないといけない。ちゃんと現場にモノを申せる経営者になるためには、現場を知らなければいけない、と思ったんです」。
クレバーな中村氏らしい一言である。
「どうせやるなら、好きな店で思って、当時、流行っていたレストランでキッチンのアルバイトをしました。当時人気の店で、面白い先輩や後輩もが沢山いました」。
この店で、多くの才能ある若者と出会った。この「飲食の戦士たち」でも、同店出身の経営者を何人か取材させていただいている。
「そうですね。才能ある人が多かったです。私といっしょに、『ZUND-BAR』の立ち上げに参加してくれた長谷川氏と出会ったのも、この時です」。
「彼がいたから、うちのいまがある」と中村は長谷川をそう評する。

「オレ1人でもやる」。

ところで、冒頭で、弟はあの中村屋の店主だと、お話しした。湯切りの「天空落とし」で有名である。「父の勧めで彼は若くしてラーメン店を開業するんですが、TVにも取り上げられて、シンデレラストーリーそのままに、有名なラーメン店店主となります」。
「食材選びや仕込みはもちろん、くたくたに疲れているはずの営業後の掃除にも毎日毎日1ミリの妥協もなく行う弟だった」と、兄の中村氏がいうくらいだから、シンデレラストーリーといっても、運だけでないことはすぐにわかる。
「その中村屋です。中村屋の2件目をオープンの時に、父に呼ばれ、『2軒目をみてくれ』と言われたんです。しかし、その話が弟に通じていなかったんですね。私が、出かけていくと、『なんでお兄ちゃんがここにいるんだ』ということになって、仲までギスギスしていきました。そうこうしているうちに、有名なドキュメンタリー番組のロケも進んで、2店舗目の出店が既成事実になっていきます。しかし、弟はその段階になって、『2店舗目はださない』と言い出すんです。そんなバカな話はない。それで、『じゃ、オレ1人でもやってやる』と宣言したんです」。中村氏、26歳のことである。
「しかし、弟は、弟で、私に金の匂いみたいなものを感じていたんじゃないですか。でも、私にすれば、父の要請を受けてスタートした話ですし、男が一度「やる」と言ったこと、『やめた』とは言いたくありませんでした」。
それ以外にも、中村氏には、幾つもの思いがあった。「ラーメンブームに水を差すこともしたくなかった。何より、人生を掛けて自分についてきてくれた長谷川もいましたし」。
中村家としても、後には引けない状況だったそうだ。「かなり投資額を突っ込んでいましたから。なんの回収もできずにZUND-BARがポシャったら、一家が路頭に迷うかもしれない。長男として、そんなことはさせられませんでした」。
そのような様々な思いを、「オレ1人でもやる」という言葉に込めて、中村氏は、言い放った。カリスマ的なラーメン店店主に向かって、素人が「啖呵を切った」と言い換えてもいい。
その後、いったん中村家は、分裂する。弟の「麺処 中村屋」は、完全な別会社となった。
そのような経緯もあったが、中村屋の2号店とも言える「ZUND-BAR」が、2001年に無事オープンする。阿夫利山の麓にあるラーメン店に客が殺到した。中村屋のレシピでつくったラーメンもそうだが、中村氏を慕って、ついてきた料理人でありパティシエの長谷川氏がつくる、めちゃくちゃ旨いデザートも起爆剤となった。
一つの名店とともに、中村氏が、経営者としてデビューしたのは、この時だ。
しかし、まだまだハッピーエンドとはいかない。弟の栄利氏との仲も、こじれたまま、である。そんな中、中村氏は、当初からの公言通り、会社を去る時期を測っていた。

父親の思いを実現したのち、ふたたび始まった放浪。

中村氏は、2003年、恵比寿に「AFURI恵比寿」をオープンさせている。立地の悪いZUND-BARも絶好調ではあったが、父親の「もっと長く経営を安定させる為、好立地にも店舗を持ちたい」、そして「昔から、東京で勝負したかったんだ」というオーダーを実現させるために、である。「実は、この時、ZUND-BARも軌道に乗っていたし、そろそろ身を引こうと思っていたんです。それは、当初から公言していました。しかし、親父の本音を聞かされて。それを、最後の仕事にしてから、去ろうと決意したんです」。
この時のつくった店こそ、中村氏の傑作ともいえる「AFURI恵比寿」である。18坪・18席で、月商2000万円超を叩き出す。「予想を超えた数字」と語っている。
こののち、中村氏は、いったん会社を離れ、渡米する。中村氏、30歳の時である。「死ぬ前に思い残すことがないよう、若いうちにしたいことは、しておこうと考えたんです」。

コンサルタントの仕事を経て、学んだこと。

「まず、向かったのは、カリフォルニアのオレンジカウンティー、ハンティントンビーチ。1年間という期限を設けての、渡米です」。一生のうちに一度はアメリカで暮らしたいと思っていたそうだ。
カリフォルニアの抜けるような青空の下で、1年を過ごした中村氏は、予定通り帰国する。仕事を辞めてからの渡米だったので、無職である。とはいえ、食べていかなくてはならない。そこで、繋ぎで始めたのが派遣の仕事。「お弁当の工場で、おばちゃんや若いおねぇさんと一緒に仕事をしました。彼女らに怒られるたびに、『オレはいったい何をやっているんだ?』と。でも、『これも経験。ぜったい糧にしてやる』と思いながら、歯を食いしばりながらやっていました」。
弁当工場に一筋の光が差したのは、それからしばらくしてからのこと。「レストランで働いていた時の上司が、独立してコンサルティングの仕事を始められて『お前もどうだ?』って誘ってくださったんです。『それも、経験だ』と、32歳から1年半ほど業態開発やメニュー開発に携わりました。いい勉強ができました」。
「いい勉強ができた」と中村氏はいうが、この時彼は、成功より、むしろ、失敗のプロセスを学んだといったほうが正しいだろう。「チームで店舗や業態を立ち上げるんですが、そのチームだとことごとく良い結果にならなかった。メンバーだった僕にも責任はありますが、いちばんの問題はプロジェクトのリーダーです。航海に例えれば判りやすいのですが、船長の舵取り一つで航海は最高にも、最悪にもなる。そして上手くいく時には、上手くいく匂いというか、雰囲気がある。今は、僕自身が、船長の立場なのですが、ちゃんと正しい舵を切れているか、常に気を付けるよう心掛けています。これも、あの時の経験のおかげです」。
中村氏は、次のようにも語っている。
「コンサルタントというのは、最終決定権までは持っていないんです。最終決定権者はオーナーであることが多かった。当然、摺合せを行っていくんですが、そこで小さなズレが生じてしまうと、狙った効果が生まれない。一つでもずれるとバランスが崩れ、みんなの力が一つにならない。だから、みんな一生懸命なのに、数ヵ月したらお店がダメになってしまったりする。最終決定権者は、結果につながる意思決定が出来る者でなければならないということですね。その点も、今の僕の戒めとなっています」。
「『凄く良いこと』とは、1つ1つの、小さな『良いこと』の積み重ね」と中村氏はいう。たしかに、大きな一手よりも、大事なことかもしれない。「神は細部に宿る」と古くからも言われている。物事の本質は「大」も、「小」によってできている、ということだろう。これは、すべてのものは、小さいことが積み重なってできあがっている、という事実によって肯定できる。

弟との邂逅と父からの誘い。

ところで、コンサルティングに精をだしつつも、その限界を知るようになった中村氏だが、その後、どのような道を進んだのだろう。「実は、そうこうしているうちに、そのコンサルティング会社が清算してなくなってしまったんです」。とのこと。
「でも、たまたま、その時に弟から連絡があったんです。『あの頃は、オレもガキだったし、申し訳なかった。もう一度、お兄ちゃんの力貸してくれないかな?』って」。兄弟の溝を埋めるのに充分な一言だった。ただし、同じ轍は踏みたくない。中村氏は、会社を立ち上げ、会社同士の契約を結び、弟をサポートしようと試みた。33歳のことである。
「邂逅」という言葉がある。おもいがけなく出会うことを意味するが、中村氏にとっては、おもいがけず弟とふたたび出会ったことになる。その兄と弟の邂逅を、もう一つの目がとらえていた。父親の目だった。「父は、僕が弟をサポートしながらもラーメン業界に携わっている姿をみて、もう一度、僕に声をかけてくれました。ちょうど半年くらいした時です。『もう一度、ZUND-BARでやらないか?』と」。
NOという選択肢はなかった。かつて自らの手で生み出し、手塩にかけ育てた店である。「ZUND-BAR」も、むろん「AFURI」もである。「父は、もう元が取れたんで、老後も心配なさそうだから店を清算すると私に言ってきました。でも、お前がやりたいなら『やるか』と。弟とも邂逅したあとですし、僕がラーメンをやっても、弟の聖域をけがすことにはならないと思って、『やらせてください』と父に言ったんです」。
ふたたび「ZUND-BAR」と「AFURI」という2つの名店が、中村氏を船頭に選ぶ時がきた。

復帰。しかし、波高し。

「僕が引き継がなければ、父は、ほんとうにお店を清算していたでしょう。そういう父なのです。しかし、周りは、そうとは思いません。好き勝手に出ていった息子が、頃合いをみて復帰する。予定調和というか、最初から絵が描かれていたように思ったのかもしれません。オレたちは何のために頑張ってきたんだと、彼らがそう思っても仕方のないことです。特にリーダーとして、店を引っ張ってきた井上にしたら、尚更です」。
ZUND-BARとAFURIを中村氏から引き継ぎ、頭を張ってきた井上氏は、中村氏にとっても大事な人である。「前職で、最終決定権者の重要性を理解していましたから、復帰するからには、自分がその立場に立たないといけないと思ったんです。だから、井上には感謝はしても、というか感謝しているから尚更、彼との関係は曖昧にしたくなかった」。
弟との仲が修復できたと思ったら、今度は、井上氏との軋轢である。復帰早々波高しである。
「2つのお店がうまくいっていたら、きっと僕は戻っていなかった」。
しかし、ずっと頭を張ってやっていくものだと思っていた井上氏にとっては、たしかに青天の霹靂だったに違いない。
「彼の立場になれば『やってられるか』となっても当然です。でも、だからと言って、彼は耳をふさぐような人間じゃない。もちろん、話し合っても分かり合えないことはありました。それで彼は、辞めていくことになるんですが、『人が育つまでの間はいます』と最後まで責任を全うしてくれました」。
「静かに熱い男」と、中村氏は井上氏をそう表現する。魂のある人だということだろう。井上氏が突然、いなくなっていたら、どうなっていただろう。会社は、空中分解していたかもれない。だから、「彼にはすごく感謝しています」と、中村氏は続けてそう言うのである。
一方、当時、業績を思わしくなかったことについて、中村氏はきびしい一言も残している。「結局は、リーダー、つまり船頭だった父の責任だと思うんです。以前も、父に『こうするべきだ。あーするべきだ』とは強く進言しました。たしかに聞き入れてくれたこともありますが、カンジンなことになればなるほど、首を縦にふらないんです。価格設定でもめたこともありました。僕はスタッフの頑張りに報いるためにも、値段を上げたかったんですが、父はダメだといってゆずらない。父は『ラーメン屋だからお客様には高い金額じゃなく安い金額で楽しんでもらいたい』と。でも、それが原因で、スタッフに安い給料しか払えないのは、おかしいでしょ。それじゃ、結局、店も長続きしないですよね?」。
中村氏が観えていたことが、父には観えていなかったのかもしれない。客ばかりではなく、スタッフにもきちんと向き合った経営。それが、当時欠けていたピースかもしれない。「だからって、僕は、一方的に父を責めているわけじゃない。父がいなければ、『ZUND-BAR』も『AFURI』もなかった。その事実だけでも、父の功績は絶大です」。

ウェルカムムードの「AFURI」、真逆の「ZUND-BAR」。

さて、ふたたび「ZUND-BAR」という舞台に降り立った中村氏に注がれたのは、冷ややかすぎるスタッフたちの目だった。「そりゃそうですね。当時は、『THEチーム井上』だったんです。だから、みんな『井上さんの敵が来た』と思ったんでしょう」。「四面楚歌だった」と中村氏。心のカベが立ちはだかって、意思疎通もできない。最初のミーティングの挨拶では、スタッフたちに謝る格好になったそうだ。
「たしかに全員に敵対視されていたんですが、何故、そうするのかと言えば、それだけ店を愛してくれていることの証だし、結束力の表れだと思ったんです。だから、その想いは大切にしたかったのです」。
その時、向けられた目は、やがて敬愛の光を帯びるようになる。
一方、「AFURI」では、真逆だった。
「『ZUND-BAR』と異なり、『AFURI』は、驚く程のウェルカムムードでした。なかでも店長だった熊沢とはすぐに分かり合えたと思います」。熊沢氏は、何か新しいことが始まるような予感を感じたのだろう。
2つの店の反応は、見事といっていいくらいに対照的だった。
リーダーが、納得すれば当然、メンバーの反応も異なる。「AFURI恵比寿では、スタッフがみんなウェルカム状態」。「笑えるくらいに対照的だった」と中村氏も語っている。
しかし、歓迎ムードに浸っている余裕はまったくなかった。早々に、店を立て直さなければならなかったからだ。

中村氏が選んだパートナー。

まずチームを固める。それが命題だったに違いない。「とにかく、チームというものの、かたちをつくらなければなりません。僕が、船頭だとしても、その脇には、ラーメンに対する熱い魂を持った人間が絶対に必要でした。最初は、弟かな、とも思ったんです。熊沢にも相談しました。ところが、相談したところ、彼の顔が曇ったんです。それは何故なのか、理由を問いつめました」。
その時、熊沢氏は、「弟さんがいらっしゃるなら、このチームに僕は不要です。何より味の最終決定ができなくなるなら、お金も少したまったし、独立して店もでもしようかな、と思うんです」と打ち明けている。
この一言で、改めて熊沢氏のラーメンに対する思いを知った中村氏は、翻意をうながす。熊沢氏をはじめ歴代のスタッフ達がいて、はじめて「ZUND-BAR」や「AFURI」が繋がれてきたのだから。だからこそ、中村氏は、「優先権」という言葉を使う。「そう、優先権は、弟じゃなく、熊沢の方にあるべきだと思ったので」。
熊沢氏にその旨を告げると、「ん?え?何言ってんすか??マジすか?」と。嬉しいというより、戸惑ったような返事が返ってきた。むろん、中村氏は、優先権の話だけではなく、「一生うちでやる気ある? やる気があるなら」と付け加えている。熊沢氏にとっても、中村氏の覚悟がわかるだけに、いい加減には扱えない。しかも、一生の問題である。「ところがね。後日、『あの件だけどどう?』って聞いたら、あまりにサラッと『やります』って言うもんですから、念を押さなければなりませんでした。ま、熊沢はそういう奴なんです(笑)」。
中村氏は、弟の栄利氏にも、その旨を伝えた。中村氏と熊沢氏、2つの覚悟が、チームに一つのコアをつくっていく。経営トップが、誰も逃げない。それだけでも、今までとは違ったのではないだろうか。
ちなみに、熊沢氏は、こののち、「味をつくりたい。セントラルキッチンでやりたい」と、「AFURI 恵比寿」の店長として得ていた40〜50万円の給料を捨て、裸一貫、18万円で「ZUND-BAR」にあるセントラルキッチンに移った。中村氏の覚悟が、熊沢氏に伝播した、もしくは熊沢氏の魂に共鳴したことの証だろう。この2人の覚悟は、やがて2つの店に伝わっていった。

中村氏と熊沢氏、2人の思いが、やがて全員の思いに。

いろんな人が店を去った。歯が抜け落ちていくようだったに違いない。しかし、代わりに、新たなスタッフも育ち始める。「熊沢の味も、バンバン良くなっていった」と中村氏。2人のイメージは、どんどん共有されていった。話し合いと試作が積み重なる。「理論上こうした方が美味しいと思うけどどう?」という中村氏に、「今の現場だとここまでやると、こういう不具合が出るんで…」と、現実に落とし込み、問題点を指摘する熊沢氏。2人が両輪となって、2つの店が動き出す。
「今の味は、熊沢と2人で、設計しながらつくった味です。レシピも、食材も、ひるむことなくブラッシュアップしていきました。鮮度も極限まで高めてきましたし、香りもしっかり引き出せるようにしてきました」。「まだまだ、これからも高みをめざす」といいつつも、2人でつくりあげてきた味に確固たる自信が伺える。
味作りは熊沢氏に任せつつ、中村氏にはもう一つの仕事があった。コアができたとしても、それだけでは組織は成り立たない。「当時は、会社もまだ小さかったので、基本的にミーティングは全員参加です。散々やりました。そのなかで意見が合わず辞めていく人間もいました」。
人が1人辞める、その意味は大きい。そのぶんの負担が、残ったスタッフにのしかかるからだ。それでも、中村氏は、会議も、ミーティングもやめる気はなかった。そのエネルギーはどこから来たんだろう。「辞めていくのは、残念だし、残ったスタッフに更に負担が増えることも心配でしたが、あの時は、逆に純度を高めていった気がするんです。チームが一つになるというか、みんなで同じ方向を向くことができたというか」。
この時の経験は、9店舗になった今も、中村氏は大事にしている。完璧には無理でも、完璧に近づくようコミュニケショーンを取りつづける。それが鉄則だとも思うようになっている。
思えば、弟の栄利氏の一言から、ふたたび中村氏は、今の舞台に帰ってきた。そして、人財を重視し、それぞれのシーンで楔を打ち、1人1人のスタッフと絆を結んだ。やがて、その努力は実り、会社は、再生する。

一杯のラーメン。

以上の話を聞き、年表をみると、だいたいのことが想像できる。
まず、AFURI恵比寿がオープンしたのは、2003年である。2008年に復帰し、次に3号店がオープンするのは、2009年。6年の間がある。6年の時がかかった理由が、上記の話に潜んでいるわけだ。逆に言えば、そこからの躍進は、雨降って地固まったことを物語っている。ホームページから年表を抜粋する。
2009年「AFURI 原宿」オープン。
2011年「AFURI 中目黒」オープン。
2013年「AFURI 麻布十番」オープン。
2014年「AFURI 六本木交差点」「AFURI 三軒茶屋」「AFURI 六本木ヒルズ」をオープン。
2015年「AFURI 横浜」オープンとなり、
2016年5月現在で、AFURIは8店舗となっている。
そして、今年、2016年秋には「AFURI新宿」がオープンし、
更に、2016年10月、初の海外進出となる「AFURI Portland」がアメリカにオープンする。
見事な躍進ぶりである。
店舗の出店だけではない。海外のお客様も多く、日本でラーメンを食べるなら、「AFURIで」という流れにもなっている。冒頭でふれたホームページに、英訳が添えられていたのは、そのためだ。
才能もある、実行力もある、男気もある。しかし、それゆえに、いろんな道を辿った中村氏の、一つの答えがここにある。
ところで、中村氏と会話していると、ラーメン店の店主というより、クリエイターと会話しているような気になった。たしかに「ものづくりが好き」と中村氏は言う。
ただし、ラーメン店の店主に似合いそうなギラギラ感がまるでない。
つまり、店主というより、繁盛するラーメン店を生み出すクリエイター、そんな存在なのである。いや、大げさに言えば、「いままでとは違うあした」をつくるという仕事を中村氏は行っているのかもしれない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
2001年、ZUND-BARグランドオープン時のスタッフと。 毎年恒例、全社員での阿夫利神社への初詣。 阿夫利神社で、だるまとお札のお焚き上げ。
 

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