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第553回 アトム株式会社 代表取締役 花田利喜氏
update 16/08/16
アトム株式会社
花田利喜氏
アトム株式会社 代表取締役 花田利喜氏
生年月日 1957年2月21日
プロフィール 福岡県福津市に生まれる。高校を卒業すると同時に就職し、2社目の会社で、食肉の卸業を経験。自らもセリに立ち、知識を深める。入社9年目に独立を果たし、食品機械の販売会社を立ち上げる。その後は、食肉の小売、卸事業を立ち上げ、飲食店の経営もスタート。海外にも幅広いネットワークを持ち、自社ブランドも海外に展開。アメリカで牧場を経営し、国内でも、野菜や米づくりのファームを立ち上げる。食流通の真ん中に立ち、食材の供給を通し、数多くの飲食企業を支えている。
主な業態 「和心とんかつ あんず」「あんず食堂」「農場レストラン あんず畑から」「ピッツァ・パッツア」「ステーキとワインの店 ANZU」他
企業HP http://www.e-atm.co.jp/

たくましい、少年の選択軸。

福津市は、北九州市と福岡市のほぼ中間に位置する。政令指定都市にはさまれた格好である。北部は海に面している。「山と海があって、静かなところだった」と今回ご登場いただいた花田氏。花田氏は1957年に、この福津市に生まれている。
「福津市っていうのは静かなところで、産業といっても農業くらいしかなかった。うちも専業農家で、私は百姓の長男です。母方の祖父は、馬喰だった。馬喰っていうのは、牛の仲介人のことです」。
トマト、イチゴ、お米と、父の畑やたんぼでは、なんでも採れた。山も、食材の宝庫である。「春になると、『金になる』っていってね。山に、わらびやつくしを採りに行くんです」。仲間連中を引き連れて、山に行く。わらびやつくしを採り、それを父親にJAに持ち込んで、換金してもらっていたそうだ。なんとも、たくましい話である。
中学生から土建屋で、アルバイトもしている。
中学ですでに身長は177センチ。ちなみにピーク時には、体重も92キロあったそうだ。
「大学に進学するつもりもぜんぜんなかった。進学する奴は多くいましたが、それより、お金が欲しいから就職を選択します」。早く給料もらって遊びたい、それが本音だった。
次のエピソードもおもしろい。「最初に就職したのは、業務用の厨房機器の総合メーカーです。船舶で使う厨房機器の分電盤をつくるエンジニアでした。でも、半年で、転職します。いっしょに社会に出た同級生1人1人に、いくら給料もらっているのかを確認して、いちばん高い会社に転職したんです」。職種は、営業だった。「ま、職種は、なんでも良かった。大事なのは、どれだけ給料がいいかだったんです」。
豪快な選択である。

セリに立ち、未来を広げた、20代の話。

「転職したのは、ローカルではいちばん大きな食肉卸の会社でした。月13万円。独立までの9年間、この会社にいました」。
仕事は、ルートセールス。車に食材を積んで、肉屋やスーパーに運び、営業した。
「まだまだ小僧だったんですが、入社してスグに現場を仕切るようになりました。とにかく、先輩にも『あれせぇ、これせぇ』って生意気な奴です。でも、私が段取りしたほうが早く終わるから、みんな言うことを聞きます。16:45になったらタイムカードの前にならばせて、17時にはオフィスは無人です(笑)」。
「遊びに行かなあかん」。だから、花田氏も必死だった。もっとも、花田氏が仕切るようになって、業績もアップした。朝は早くから働いた。学校給食も担当していたから、朝7時前には荷物を積んでオフィスを出発する毎日だった。
「とにかく早く終わって遊べるようになったから、それは、それで良かったんですが、大手だから、拠点も少なくない。だから、転勤する先輩も少なくなかった。そういうのが、だんだん見えてくるんです。このままいけば私もいつ転勤させられるかわからなかったから、セリに立ったんです。本社近くに市場があり、セリに立てる人間は、転勤はまずさせられないことがわかったからです」。
もちろん、すぐにセリに立てるわけではない。昼休みを利用して、毎日、セリを見学した。「観ているだけでしたが、毎日、少しずつですが、理解できてくるんです。半年くらいしたら、セリに立って肉を買うまでになっていました」。
セリに立つ。あの喧騒とスピードにひるまない、度胸も、判断力もいる。むろん、判断するには、いい目をしていなければいけない。花田氏にはもともと、天賦の才があったのだろう。セリに立っただけで、肉質までわかった、という。だから、顧客の要望通りの肉を仕入れることができた。
「それまでは、セリに立つ人間が、自分がいいと思う肉だけをセリ落としていたんです。でも、私は逆で、顧客が欲しいと望む肉をセリ落としました。それが評判になって、指名されるケースが増えて最終的には部署のお客様のほとんどが、私の顧客なってしまいました」。
当時の社長も元気な新人の、花田氏をかわいがってくれたそうだ。21歳の時には、「視察だ」と言って、渡米した。費用はでなかったが、休みはもらえた。
「そうですね。当時は4階建の工場だったんですが、やがて、工場全部、私の傘下におさめました(笑)」。24歳の時には本社の課長職に、その若さで抜擢されている。異例の人事だったはずだ。
「社長にすれば若返りという狙いもあったはずです」。ともかく花田氏は、みるみる頭角を現し、地位を固める。社長とも直に話ができる立場になった。そして、入社して9年が過ぎた。
「独立のきっかけは、社長の代替わりです。でも、顧客もぜんぶ、私の客でしょ。なかなか認めてもらえません。それで営業所をだす感覚でどうですか? と言って、それでようやくOKがでました」。
花田氏が立ち上げたのは、食品機械の販売会社。「肉をさわれば、すぐに儲かる」とわかっていたが、1年間は、手をださなかった。育ててもらった恩義もあったし、花田氏自身のこだわりでもあった。

自社でも、飲食ブランドを。新たな取り組み。

「2年目から、東京で肉を扱いはじめました。最初はスーパーのテナントとして入って小売をしていました。しかし、しばらくすると、福岡で大手と言われていたスーパーが潰れて、もはやスーパーの時代じゃないと思って、小売業から撤退し、問屋業に転換しました」。
決断すれば、実行は早い。先をみるちからにも、洞察力にも優れているから打つ手に間違いはない。
「それから、外食産業に納品を開始したんです。当時、外食産業は伸び盛りだったこともあって、取り扱いがドンドン広がり、量も拡大していきます。その一方で、私たちも飲食店を独自に立ち上げました。最初にオープンしたのは、肉屋なのに、魚介メインの居酒屋です(笑)」。
なんでも肉が専門だからといって肉メインにすると、安ければいいという安直な発想に流れてしまいがちになる、という。それを危惧して、魚介からスタートした。海鮮丼ぶりがヒットして、売上も順調に伸びた。顧客もついた。しかし、しばらくしたら、暗雲が垂れ込めた。
「当時うちは、糸へんの、つまり繊維ですね。そういう業種の流通センターの近くに出店していました。糸へんの業界の業績がピークの時期です。しかし、ピークが過ぎると、倒産する会社も現れて、流通センターにも人がいなくなってしまったんです。それで、このままでは、と、またまたチャンネルを回して、今度は、表通りで勝負すると宣言するんです」。
今度は、得意の肉で勝負する。
「以前に群馬の豚の生産者に、私たちが望むおいしい豚づくりをはじめませんか? とオファーしたことがあるんです。その時5つの農家が『やってもいい』と返事をくれましたので、『じゃぁ、システムもかえましょう』と、直接、私たちが買い上げるしくみを作ったんです」。
市場流通は、相場に左右されるから計画的な生産ができない。赤字の月もでるから経営も安定しない。「だから、私たちが望む豚を育てていただく代わりに、あらかじめ価格を決め、年間で買い取りましょう、と、そういうしくみをつったんです」。
プレミアの豚だった。とんかつブームもあって福岡の郊外に1500坪の土地に店を出した。「4店舗の集合体です。私らは、そこで『和心とんかつ「あんず」』と『アジア居酒屋』を出店しました」。
むろん、「とんかつ店」をメインに算盤をはじいていた。
「佐世保のアーミーたちもきました。もっとも彼らの目的は、アジア居酒屋だったんですが(笑)」。ついでに、と思ってつくったアジア居酒屋が、繁盛した。
「いやぁ、計算違いでした。アジア居酒屋は、私が原料調達で、アジアにしょっちゅう行っていたから、せっかくだからやろうってことでオープンした、いわば、おまけだったんです。ところが、この、おまけの店が繁盛して、本業というか、自信があったとんかつ店がぜんぜんだめで、毎月2〜300万円の赤字です。食材も、うち用に育ててもらっているポークでしょ。器とかも、ほかの店とは、ぜんぜん違います。有田焼。1400円のお料理の器が、5万円です(笑)」。
たしかに、サラダのボールひとつ2万円もするのだという。「茶碗蒸しのふたが割れると、『あ、5000円割れた』って言っていました。うちの器は、懐石料理で使うのと同じ器だったんです。それだけかけても採算が取れる自信もあったんですが、見事にスタートダッシュでつまずきました」。しかし、しばらくすると、状況がいっぺんする。

飲食文化を支える1人に。

花田氏は、明太子で有名な「やまや」の取締役も兼務している。やまやの運営する「博多もつ鍋やまや」を立ち上げを全国区にした手腕も、高く評価されている。ところで、とんかつ店の話だが、月を追うごとに認知され、客が増えた。アルコール規制が強化されたこともあって、アジア居酒屋が、少し業績を落としたが、今度は、「とんかつ店」が浮上する。月商が1000万円から1500万円になり、1800万円にもなった。時代が、花田氏の五感と、共鳴したのだろう。
2016年5月現在、主要業態である<和心とんかつ「あんず」>は、FCも含め国内8店舗。台湾に16店舗、タイ、韓国、シンガポールにも1店舗ずつある。肉はもちろん食材には徹底してこだわっている。1号店は、いまでも行列ができる店だ。
「今後も海外には積極的に出店していきます。今は、オランダ、ハワイ、シカゴ、ベトナム、ニューヨークにそれぞれ出店を計画中です」。
海外に出店する企業に対して食材の供給も行っている。取引先を挙げていただくと、大手どころが、ズラリと並んだ。「日本企業が海外で展開できるプラットホームづくりを行っていきたいと思っています」と花田氏はちから強くいう。
ちなみに現在の事業は、食肉事業を中心に、食品加工事業、食品機械事業、外食事業、これらに加え、アメリカ合衆国では「和州牛」という独自のブランド牛を肥育し、アメリカ国内にて供給するSPB「スーパー・プライム・ビーフ」という会社も運営している。また、国内でも、自社農場 「農事組合法人とことんファーム」を運営。「あんず」の各レストランへ、毎朝収穫した野菜と米を供給している。
平易な言葉で恐縮だが、まさに「やり手」という言葉がぴったりかもしれない。しかし、海外に進出する企業のためのプラットホームづくりなど、けっして自社の事業だけを優先しているわけではない。「とことんファーム」も、「SPB」もまた消費者にとって安全で、安心、しかも旨い食材を提供するという思いから生まれた事業に違いない。
日本の飲食は、たしかに、人の心によって支えられている。花田氏も、間違いなく日本の飲食文化を支える、欠けてはならない重要な戦士の1人だ。

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