年代別社長インデックス
掲載時期別社長インデックス
オススメ求人サイト
リンク
第555回 株式会社ZUND 代表取締役 橋本龍八氏
update 16/08/30
株式会社ZUND
橋本龍八氏
株式会社ZUND 代表取締役 橋本龍八氏
生年月日 1978年
プロフィール 兵庫県姫路市生まれ。高校を2年で中退。建築関連の仕事を続けていたが、ある日、TVでみた青年の姿に惹かれ、ラーメン業界へ。独学で勉強し作り上げたスープで勝負したが、3年近く閑古鳥が鳴く。しかし、それでも研究を続け、進化を続け、ついには、人気店に。現在は、ニューヨークにも進出。海外1店舗を含め合計、24店舗を出店している。
主な業態 「ラー麺ずんどう屋」
企業HP http://www.zundouya.com/

子ども時代から、23歳まで。燻った少年時代。

「ライバル店より50円安くしたが、ぜんぜん客が来なかった」と笑うのは、株式会社ZUND、代表取締役、橋本龍八氏である。1人のラーメン店主に惹かれ、ラーメン店をオープンした頃の話である。
橋本氏が、生まれたのは1978年。出身は兵庫県姫路市である。ご両親は、焼肉店を経営されていた。「親父は甲子園にも何度か出場している有名な高校でピッチャーをしていました」。背番号は「1」。「私も、小学生の頃は、いずれ、と思っていたんです」。リトルリーグで、4番ピッチャー。申し分ない位置にいる。しかし中学生となり、シニアのチームに入ったとたん、「上には、上がいる」と知って、中学2年で野球を辞めてしまった。
野球を辞めた橋本氏は、3年生になって、本人いわく少しぐれた。「暴走族に入って、やんちゃなチームに参加するようになりました。しかし、暴走族といっても、基本明るいヤンキーといった感じです。家庭教師がついていたくらいですから(笑)」。
「工場でバイトを始めたのもこの頃で、パチンコもこの頃からです」。ご両親が離婚されたのもこの頃で、橋本氏は、母について、姉、妹といっしょに家を出た。
卒業文集には、「社長になる」と書いた。小さな心に、小さな炎が灯ったのだろう。
「中学はもちろん卒業したんですが、高校は9ヵ月しか行きませんでした。理由ですか? パチンコに行って、勝った日は軍資金があるでしょ。遊んでいたら、出席日数が足らなくなってしまったんです(笑)」。
16歳で、社会にでた。「23歳までは、建築業で仕事をしていました。だいたい10社くらい経験しました(笑)」。給料は悪くなかったから、車も買った。19歳の時には、現在取締役を務めている奥様と結婚もしている。
「でも、けっして満足していたわけじゃなかったんです。心のなかでは、いつも何かをしてやろうと思っていました」。
いったん灯った炎は、どこかで燻っていた。情熱を傾ける何かが足りなかったからだ。

TVでみつけたヒーローを追いかけて。

「ひとつです。ひとつだけ上。それなのに、すごくかっこよかった」。そのとき、橋本氏の目に飛び込んできたのは、天空から落とすように湯切りする若きラーメン店主の姿だった。
「TVの情熱大陸に、中村屋の中村栄利さんが取り上げられていたんです。それを拝見して、いてもたってもいられなくなって」。歳がひとつ上。「お店とか、会社をやれるようになるのは、もっとおじさんたちになってからだと勝手にイメージしていたんです」。
中村氏のひとふりの「天空落とし」が、そのイメージを破壊した。翌日、橋本氏は中村氏に直接電話をかけ、車で7時間かけ、会いに行っている。「どんな人間か、この目でたしかめてみたかったんです」。
その日のうちに、アパートのコンロを改造した。寸胴を買ってきて、研究に勤しんだ。
「この時も、建築関係の会社で勤務していましたから、仕事が終わってからです。もちろん、ラーメンなんてインスタントしかつくったことがなかったし、食べた回数も、そうなかった。そんな私が、ラーメンづくりに熱中するんです」。ラーメンの向こうには、中村氏の姿があった。それを追いかける。ラーメンづくりのノウハウ本を片手に、である。家賃5万円のアパートがラーメンづくりの研究室と化した。
「最初は鶏ガラ、テールのスープでした。どちらかと言えば、あっさり系が好きで、鶏ガラのことが本に書いてあったからです」。
もちろんラーメンも食べ歩いた。いまのとんこつ系になったのは、食べ歩きの結果、である。「最初につくったのは鶏ガラ、テールのスープも結構、旨かったんですよ」と橋本氏は笑う。
研究を始めて半年後、橋本氏は早くも1店舗目をオープンしている。冒頭の話は、その時のことだ。
「私と妻と3人のバイトでスタートしました。そう、かなりでかい店です。坪数でいえば30坪ありました。味も悪いわけではなかったんですが、2つ隣に行列のできるラーメン店があって」。それで、そこより50円安くしたわけだが、客は振り向かなかった、わけである。
問題は、橋本氏にもあった。素人である。1杯なら旨いラーメンがつくれたが、その味を維持することができなかった。だからオープン3日で、一度クローズした。「営業をしながら、スープの味を維持できなかったんです」。
ラーメン店を開業したものの、「ラーメン屋は、地獄だ」と思ったそうだ。
中村栄利氏の背中が遠のく。

24店舗、すべて直営。ニューヨークにも出店。

「継続はちからなり」といった人がいる。しかし、継続がすべてちからとなるとは限らない。「どうすればいいか」、戦いの旗を降ろさず、日々、進化する。それができてこそ、「継続」という言葉が「ちから」に置き換わる。
まさに、橋本氏の3年はそうだった。「今思えば、最初の2年は、私の味を確立するための時間だった気がします。毎月、売上はカツカツです。それでも、めげずに戦いつづけました。味も、進化をつづけます」。
3年目になって、それまでの努力が一気に花開く。売上が目に見えて上がってきたのである。
「5年目には、なんとか月商で800万円をクリアするようになりました。でも経営は、それほど良くなかった。原価率が、とにかく悪かったから(笑)」。
いいスープをつくるために、原価をかけた。カバーするには、効率化とともに、売上を拡大するしかない。
「27歳の時に、2店舗目をオープンします。2008年に、3店舗目を出店し、法人化しました。この時、素晴らしい公認会計士の方と出会って、この方のアドバイスのおかげで、会社は飛躍します」。
こうして、素直に感謝できるのが、橋本氏のもう一つの魅力である。
「ここまで来たんで、次は、3億円だと、それを目標にしていました」。
目標も、次々、設定する。
「この頃は、私はもちろん妻もいっしょに店に立っていました。まだまだ余裕もない。4店舗目をオープンするタイミングで、セントラルキッチンをつくりました。チェーン化のためには、味を統一しなければならなかったからです」。
エリアも拡大し、大阪に6店舗目をオープンした。赤字が続いたが、2年目からじわじわ流行り、3年目には爆発した。そうした経験もすべて、血となり、肉となっている。
現在ZUNDは、関東にも進出。ニューヨークにも店舗を持っている。合計24店舗。今後も、東西半々で出店していく考えだ。
パチンコにうつつをぬかし、高校を中退。19歳で結婚し、子どもももうけた。ある意味、豪快な生き様である。しかし、それだけで終わらなかった。
ちなみに、このインタビューには奥様も同席されていた。創業時からともに苦労された仲間でもある。2人で描いた思いが、いまかたちになっている。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
創業当時 会計士さんと 新宿店にて
思い出のアルバム4
中村さんとNYにて    
ご登録はこちら

この企業にご興味のある方は、下記フォームよりご登録下さい。
求人情報が出次第、お知らせします。

ご登録はこちら