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第556回 株式会社J・ART 代表取締役 坂井哲史氏
update 16/00/00
株式会社J・ART
株式会社J・ART
株式会社J・ART 代表取締役 坂井哲史氏
生年月日 1948年1月9日
プロフィール 岐阜県各務原市に生まれる。大学を卒業し、3年間サラリーマンを経験したのち25歳で、独立。「刀剣ビジネス」を開始する。その一方で、飲食事業に参入し、「焼肉屋さかい」をオープンして、業界の価格破壊を起こす。創業わずか、6年で東海エリアだけではなく、全国を制覇し、100店舗を達成。株式上場を果たす。2006年6月、株式会社焼肉屋さかいを退任。翌2007年、「さかい珈琲」をリリースする。
主な業態 「さかい珈琲」
企業HP http://www.j-art.co.jp/

代々、引き継がれた起業家精神。

「株式会社美濃坂」という美術刀剣を製造・販売する会社がある。本社は岐阜県各務原市にあり、創業は1973年に遡る。「1973年。私は親父が経営していた合資会社坂井縫製を合資会社美濃坂に改め、刀剣ビジネスをスタートさせました」。坂井家は代々、起業家精神が旺盛な家系だ。父親も、祖父も起業家である。今回、ご登場いただいた株式会社J・ARTの坂井氏は、そうした星の下に生まれている。
「ただし、私は、大学を卒業すると坂井家の長男にあるまじき決断をして『岐阜プラスチック工業』という会社に就職しました。親父も、祖父も、経営者ですから、サラリーマンとはどんなものか想像するだけでしたが、やってみると案外、快適でした(笑)」。
「もちろん、就いた仕事にも関係していると思います。営業職だったんです。駆け引きも楽しく、仕事も楽しい。評価もいただけた。それに、賞与という臨時の給料だっていただけるわけでしょ。辞める気もぜんぜんありませんでした。でも、ある日のこと、ある得意先が販売している模造刀をみて、祖父や親父から受け継いだ起業家精神が、いきなり目覚めたんです」。
坂井家には代々伝わる真刀があった。
「真刀と比べると、模造刀は良くできてはいるものの、言っても、おもちゃです。でも、その、おもちゃの刀が飛ぶように売れているというんです。そりゃ、火がつきますよね」。
3年に亘るサラリーマン生活にピリオドを打ち、坂井氏は、25歳の時にして「刀剣ビジネス」を開始する。はからずも坂井家の血を証明することになった。
むろん、紆余曲折はあったが、坂井氏が経営する「美濃坂」は、3年足らずで刀剣製造販売のトッププレイヤーとなる。そして、坂井氏は潤沢な資金を手にすることになった。

好奇心旺盛な少年時代。

坂井氏は、1948年、岐阜県の各務原市に生まれる。いまでは岐阜市や名古屋市のベッドタウンでとしても有名だが、祖父が旅館を経営していたことからもわかる通り、当時から、人口は少なくなかったようだ。
「一時、岐阜市でも暮らしましたが、私が小学校に上がる頃、ふたたび各務原市で生活を始めます。小学校では、チャンバラごっこ。好奇心が旺盛な少年で、とにかく、いろんなところに出かけていました。一方、勉学には無関心で、授業はたいくつでなりませんでした(笑)」。
勉強ギライというより、知識を押し付けるだけの授業がイヤだった。坂井氏も次のように言っている。
「子どもの頃から、管理されるのがとにかくイヤ。だから、『早く大人になって、自由にやりたいことを、やってやる』と思っていました」。
中学校生活も、勉強という意味では、たいくつな毎日だった。
「父や母は、勉強しろとは一切言いませんでした。ただし、祖母は、『金勘定をきちんとしろ』など3つの戒めを口ぐせのように語っていました」。
ちなみに、この祖母は、坂井氏が尊敬する一人で、「祖父以上に経営者だった」と語っている。「美濃坂」を命名したのも、この祖母である。
祖父祖母、父母、起業家精神にあふれた坂井家の人々と比べれば、学校の先生も、失礼な話だが物足りなく映ったのだろう。「リスペクトできるような先生はいなかった」と坂井氏も語っている。
やがて、義務教育の中学校を卒業。高校生活が始まる。

勉強のできる者がいい人生を送れるとは限らない。父は実践派タイプの経営者だった。

「坂井家は、代々、ハイリスク、ハイリターンの人生を送ってきました。そんな坂井家にあっては、とくかく、机上の勉学は不要なものと映っていたのでしょう。父も『勉強のできる者がいい人生を送れるとは限らない』と考えていました。当然、息子である私に対しても、『勉強しろ』とは言いません。しかし、『事業を継げ』とも言わない。わが道は、自身で切り開けというタイプでした」。
そんな父に影響されたわけではないが、坂井氏は、高校に入ってしばらくすると受験勉強に見切りをつけてしまう。「実社会で使えないことを学ぶことが、ピンとこなかった」と言う。代わりに高校生になってからは毎日、父の仕事を手伝った。もっとも、大きな声ではいえないがと断り、「仕事のまえにビール1本あけていた」と笑う。30代で、自粛するようになるが、それ以前は、ビールも、水も、そう違いはなかったらしい。
早くから受験勉強に見切りをつけた坂井氏だったが、「東京の大学に進学したい」とは思っていたそうだ。「矛盾した考えですが、地方の青年ならだれもが描く、願望です(笑)。しかし、両親が自宅から通勤できる大学じゃないとだめだって、めずらしく反対するもんですから、その声にしたがって『愛知学院大学商学部』に進学しました」。受験勉強をしなくても済んだ大学だったのかもしれない。そういう風にして、坂井氏の大学時代はスタートする。
大学では、アルバイトにも精をだした。運送屋を1ヵ月集中でやって、月10万円の給料をもらったこともあるそうだ。むろん、この時は、将来「刀剣ビジネス」の会社を起業するとは思っていなかったし、まして、「焼肉屋さかい」を創業するとは露にも思っていなかったはずだ。

価格破壊の旗手、「焼肉屋さかい」誕生。

さて、大学を卒業した坂井氏は、前述通り「岐阜プラスチック工業」という、プラスチックの家庭用品や真空成形の包装材を製造販売する会社に就職。ストレートな物言いと誠実な仕事で、評判の営業マンとなる。しかし、これも前述した通り、坂井家のDNAが騒ぎ、「刀剣ビジネス」を開始することになる。このビジネスで資金を得た坂井氏は、飲食に狙いを定め、「王将」のFC店を開業する。
「あの頃は、王将さんもまだ20億円くらい。王将の加藤社長と話が弾んで、2店舗の同時出店を条件に、『王将』のFC店をはじめさせてもらいました。かなり、儲かりました。当時、王将のようなタイプの店はぜんぜんなかったんです。すぐに採算ベースに乗りました」。
その後、坂井氏は、焼肉業界に打って出る。
「母からも『焼肉はだめだ』って言われていたんですが、挑戦してみたくなって。とにかく、ハイリスク・ハイリターンの家系ですから、アイデアが思い浮かべばジッとしていられない(笑)」。
「焼肉の料金を下げる」。坂井氏のアイデアは、これ。ただし、いい肉を使って、価格を下げる。
「安い店はあったんです。でも、そのぶん、肉も良くない。私が贔屓にしていた焼肉店は、家族5人でいけば、2〜3万円もする。一般の家庭ではなかなか払えないでしょ。でも、これが、1万円だったら、どうだろうって思ったんです」。
良質な肉を使い、価格を下げる。当初は、むろん、バイイングパワーもない。「だから、原価60%です(笑)」。コンセプトからして、原価は下げられない。となると、回転率でカバーするしか方法がない。もっとも、流行らなければ、元もとれない。
前例がない。まさにハイリスク・ハイリターンである。1号店は、岐阜市にオープンした。1993年のことである。年代を確認すれば明らかだが、バブルはすでに弾けている。
「無理だ、流行るわけがない、なんて言われていたんですが、私の狙いは、的中しました。安くて、かつ旨い店がなかったからです。『牛角』が登場するのも、もっとあとです。とにかく毎日、毎日、お客様がいらして、フランチャイズで店を出したいというオーナーさんも次々いらして、6年目には株式も上場するんです」。
クリーンな経営を行っていたから、上場するにも時間がかからなかった。
しかし、2度に亘ってBSE問題が襲い掛かる。
試行錯誤の連続だったそうである。それは、ブランド戦略にも表れている。
「焼肉屋さかい」をはじめ、七輪を使った「炭火焼肉屋さかい」という焼肉業態に加え、鳥料理店「とりバックス」、イタリアンレストランの「ロッソえびすや」など、多彩なブランドをリリースする。低価格路線の「28さかい」もオープンした。「まるさ水産」、郊外型の「元町珈琲」もはじめた。
しかし、2006年。坂井氏は、ついに、経営権を譲る。現在は、株式会社ジー・テイストが運営主体だ。
「銀行さんも、ね」と、坂井氏は苦笑する。「ドラマみたいですよ。雨になったら傘を貸さない典型的な銀行員のね(笑)。たしかに、借金も一時は200億円を超えていたから。まぁ、向こうもたいへんだったんだろうけど」。
怖いもの知らずの、坂井氏だったが、唯一怖いと思ったのが「金」だそうである。「金だけは、怖いよ」と坂井氏は笑う。ともかく、2006年、坂井氏は、「焼肉屋さかい」から退いた。

「さかい珈琲」誕生。

いったん行うべき事業を失った坂井氏だが、坂井家代々のDNAは、むしろこの時にこそ、坂井氏を痛烈に動かしたのではないだろうか。「ベンチャー精神というかね。起業家魂ですよ」。
「焼肉のさかい」を離れ、坂井氏が創業したのは、東海エリアの文化でとも言われている郊外型喫茶店、「さかい珈琲」である。もともと珈琲好きの坂井氏ならではの挑戦だ。
もっとも、坂井氏は10年前に、同じ郊外型の喫茶店「元町珈琲」をリリースしている。
「あの時も、いろいろ反対されました。何しろ、田んぼの真ん中。でも、その田んぼから人がわいてきたんです。1日1000人ですよ、1000人」と「元町珈琲」1号店を出店した当時を振り返る。田んぼの真ん中にある喫茶店めがけ、神戸や横浜といった県外からもお客様がいらっしゃったそうだ。
「これが、ビジネスですよ。おもしろくて、たまらない」と坂井氏は目を細める。
ところで、「さかい珈琲」は、この「元町珈琲」をよりバージョンアップした珈琲店である。東海エリアの喫茶店文化を、新たなステージに導くパワーを持っている。創業は2007年。坂井氏、59歳の時のことである。
「あえて今ということでいうたらね。今までの喫茶店というのは、もう古いんです。競合が少ない時は、珈琲だけで良かったんです。でも、これだけ同じような店ができると、珈琲だけじゃ、もうだめ。だから、うちは喫茶店というカテゴリーを超えているんです」。「想定外の喫茶店だ」と表現する。
従来型の喫茶店と、「さかい珈琲」の違いは「ランチの時間に表れる」と坂井氏。「さかい珈琲は軽食だけではなく、ランチも充実しています。食べていただいたらわかりますが、ハンパのない美味しさです。喫茶店のレベルじゃありません。だから、午前中に来られた、たとえばママ友のお客さんが、みんなでランチも食べよ、となるんです。この違いは大きいですよ」。
実際に、「さかい珈琲」に連れて行ってもらった。食してみると、たしかに、お世辞抜きでレベルが違った。驚いているこちらをみて、坂井氏の表情がゆるむ。「ね、旨いでしょ。うちには、庭園もある。ゆっくりくつろぐ、という東海の喫茶店ならではのスタイルの、質を高めたのが『さかい珈琲』なんです」。
「これが、ビジネスですよ。おもしろくて、たまらない」。
2016年現在、「さかい珈琲」は、FC店も合わせ全国に11店舗出店している。「焼肉屋さかい」の絶頂期が250店舗だったので、それと比較するとまだまだ少ないが、そういう過去とは、また違った幸福がある。
ともあれ、ハイリスク・ハイリターンの精神は、まだまだ健在である。「これからもね、いろいろ仕掛けますよ」。インタビューの最後で、坂井氏は、「乞うご期待」といいながらニンマリと笑った。
坂井氏の人柄は、どこまでも謙虚で、どこまでも率先垂範の人である。仕事が大好きでもあるのだろう。
現在、J・ARTは、東京への本社移転やチャンスを活かし時流に乗り、新業態の開発も積極的に行っていく、としている。

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