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第557回 株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏
update 16/09/13
株式会社ヨシックス
吉岡昌成氏
株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏
生年月日 1954年7月18日
プロフィール 大阪市生野区に生まれる。大学卒業後、建築関係の仕事に就き、社会人スタート。大手弁当チェーンの店舗の建築を請け負うため、自らもフランチャイズ契約をむすび、弁当屋を出店。これが、飲食事業の始まりとなる。のちに、自社ブランド『や台や』『や台すし』を立ち上げ、ブレイク。株式上場の基盤をつくる。
主な業態 「や台や」「や台すし」「ニパチ 」他
企業HP http://yossix.co.jp/

「何しろ、暇がない。高校2年からずっとそうやった」。

吉岡氏の父は、メーカーの下請け工場を営み輸出用カバンを作っていた。小さい頃から何かにつけて手伝わされていた吉岡氏にとって、それがイヤだった記憶がある。高校は工業高校の機械科に進んだ。当時は生徒会長をやったり、学生運動にも参加したりしていたそうだ。
「私が生まれ育った大阪市の生野いうたらね、おなじ大阪の平野や八尾もいっしょやけど、町工場が立ち並ぶ町ですわ。うちも、その内の一つで、典型的な家内工業やった。ところが、高校2年の時に親父が亡くなってしもうて、それで工場はたたみました。それからは、バイトに明け暮れ、大学には進学したんですが、受験当日しか学校に行った記憶がないねんな、これが(笑)」。
高校では機械科だったが、進んだのは建築科。
「最初は、うちの家も工場やったし、漠然と機械科かなと思うてた。でもそれやったら、うちの親父といっしょで家内工業どまりちゃうかなぁ思うところもあって、今にして思えばちょっと生意気な考えやけどね。そんな時、あるTV番組で女性建築士を観たんやね。当時は、列島改造論とかで建築にスポットがあたっとってね、その女性がえらい格好よう見えて。それで、『建築や』と、建築科に進んだ。単純なもんや(笑)」。
『建築や』と思って入学はしたが、出席した記憶はないという。前述のとおり、時間の許す限りバイトに明け暮れていた。バイト歴を列挙すると、鉄筋工、工場、屋根瓦葺、レストランのボーイ・・・と、割のいいバイトには片っ端から申し込んだ。大卒の初任給が約12万円の時代に、月のバイト料が20万円にもなったというから、その働きぶりが窺い知れる。もっとも無駄使いは一切していない。10万円を家に渡し、残りで学費を払っていたそうだ。
「お金はあっても、友達と遊ぶなんて考えられへんかった。何しろ、暇がない。これは、高校2年からずうっとそうやった」。

「その弁当屋さんに、飛び込んだんです」。

通った記憶がないという大学を無事卒業するのが1977年のことである。
「就職したのは姫路のガス屋さんです。入社してすぐに、新規事業の建築関係部署に先輩と配属されて、2人で営業しました。工事が絡むから、契約が取れると、受注額は結構大きな金額になった。しばらくしたら、既存の事業より売上率が高なった。そりゃ忙しかったけど、ハナ高々で、給料もほかの部署の同期より良かったんちゃうかな。けど、そのうちにどんどんノルマが凄うなって、先輩がノイローゼみたいになってもうた。会社出てけえへんようになってしもたから、部署はもうワシ一人や。それでも、情状酌量なんてあらへん、『一人でなんとかせえ』ですよ。なんや、いっぺんにアホらしなって、それで辞めました」。
3年8か月勤続した会社だった。
「会社辞めて、いっとき、毛皮の卸なんかもやりました。スナックで知り合った、その店の常連さんに紹介されて始めたんやけど、400万円くらい売り上げた月もあったわな。原価がだいたい3割やったから、少々値引きしても100万円くらい利益はあった。でも、毛皮が売れるのは冬だけやった。2月になったら、全然売れへんなって、これも辞めました。けど、1回でも100万円も儲けたらアカンな。サラリーマンは、もう無理やった。ほんで、なんかええ仕事ないかなぁと、昔のお得意さん回っとったら、ある会社の人が、『あの弁当屋さんが、建築関係の人探しとったで』いうて教えてくれはったんです。『よっしゃ。それや』思うて、その弁当屋さんに飛び込んだんです」。
神戸に本社を置く、のちに大手となる弁当チェーン店だった。それが、飲食との出会い、と言えば出会い。
「建築の仕事をもらう代わりに、フランチャイズ契約を結んで、私も弁当屋を始めました。ちょうど名古屋に進出する時やったんで、私も一緒になって出てきて、うちが名古屋1号店を出店しました。そやから、元々飲食は、建築の仕事をもらうために、ある意味しゃぁなしに始めた事業やったんです。でも、無理しても、やって正解やった。弁当屋さんの仕事が実績になって、居酒屋やファミリーレストランからも、内装・外装の仕事をもらうようになります。名古屋で有名な店も、何店舗も手掛けました」。
その一方で、フランチャイズで始めた弁当屋も拡大する。
「せやね、20店舗くらいまでになったんちゃうかな」。
ただし、この時はまだ、副業という感覚でしかなかった。これが、1985年の話である。

「強力なライバルの出現や」。

「弁当屋は出店コストも人件費も、そう掛からへん。ええビジネスなんやけど、困ったことに、人が育てへん。管理者が育てへんから、ある意味、むちゃくちゃやった。儲かったけど、いつもごちゃごちゃしとった。で、そうこうしてるうちに、コンビニエンスストアが弁当を置くようになった。強力なライバルの出現や」。
1985年当時のコンビニエンスストアの数は、3,000〜5,000店だったそうである。ところが今や50,000店。吉岡氏が経営する弁当屋の周りにも、コンビニエンスストアが次々にオープンする。
「こんなん言うたら失礼やけど、コンビニのは、弁当いうても、最初は美味しなかったでしょ。せやけど、それが、みるみる美味しくなって。そうなったら強いわ。わざわざ弁当屋に来ることもない。それまで出店を続けてたフランチャイズの本部にも、陰りが見えて、出店が止まってしまいました。そうなったら、うちも弁当屋をしてる理由がなくなる。建築の仕事をもらうために、やっとったわけやから。それで、弁当屋を少しずつ、業態転換していったんです」。
「飲食では、弁当屋しか経験がなかったけど、建築の方では、いろんな店を手掛けとったから、言うたらなんやけど、『簡単に儲けられる』って思うとった。ほんで2,000万円くらい使うて、アンテナショップいうか、自前の店を出店したんです。店づくりは、お手の物やからね。当時、流行っとったんは、ダイニングレストラン。薄暗くて、ところどころにスポットライトがあって、格好ええ器に盛った、きれいな料理が出てくる。もう、やる前から、全部頭に入っとった。自信満々でオープンして、最初は良かった。順調に行ってたんが、だんだん売上が下がってきて、結局、1年くらいでクローズしてしもた。さっき言うたように、弁当屋の売上は年々下がってくるし、業態転換しても、なかなか上手くいかん。1998年頃になって、飲食のために別会社にしたヨシックスが赤字になりかけてしもたんです」。
副業感覚ではあったが、トントン拍子だった事業がお荷物になってきている。このまま飲食事業を、どこかに売却するという選択肢もあったかもしれない。
「せやけど、もう1回だけ、やってみよ。そう思うて、押切町ってとこにあった15坪の店を、お好み焼き・鉄板焼きの『や台や』いうてオープンしたんです。今度は、格好つけんと、ワシが行きたいな思う店を作ったんです。これで、アカンかったらしゃぁない、思うて」。
「もう1回だけ」で始めた『や台や』がブレイクする。
「この『や台や』で、ヨシックスが一変するんです。まず、今までやってた弁当屋を『や台や』に衣替えです。そうすると、弁当屋時代には、おらんかったような人材が入社してくるようになったんです。寿司屋で働いてた子が、『や台や』見て、『寿司屋させてくれ』って来たんも、この頃です。『よっしゃ、わかった。ワシが店作ったるから、君は、88円で本マグロの寿司が出せるようにせぇ』言うたんです。これが『や台ずし』誕生の瞬間です」。
8坪18席の店が、月商900万円を叩き出した。
「8坪いうてもね、店の前の歩道までお客さんがあふれて、そこに縁台置いて食べてもろてるわけやから。実際は8坪どころやないわな(笑)。時々、警察が注意しに来よるんやけど、お客さんが『わしら好きで、ここで飲み食いしてるんや』っていうてくれはって。この言葉聞いた時は、飲食業やってる者として、冥利に尽きる、思うたね」。
強力なライバルが出現したおかげで、ヨシックスが変貌を遂げた。ピンチをチャンスに変えた好例だ。

「上場したらイヤでも管理部にお金かけなあかんもんな」。

ヨシックスが、株式を上場するのは、2014年のことである。『や台や』をオープンしたのが、1998年、『や台ずし』は2000年のことだ。
「駅前にも出店するようになって、店舗数が拡大していった。それでいつの間にか、飲食の方が本業になって、ヨシックスの中に、建築会社を取り込んだんです。上場も考えた。せやけど、私の場合は、その理由がちょっと変わっていて、ガバナンスを強化するには、それしかないって思うたんです」。
吉岡氏は、名古屋だけでなく、地方に出店を重ねた。その理由も吉岡氏ならでは、である。
「都市部は採用が難しい。弁当屋の時に、人が育たんで苦労したから、そう考えたんです。うちも、今では東京にも出店しとるけど、最低賃金からして、全然違うやろ。地方の方がよりたくさんの人が入社してくれるし、賃金も都市部ほど高くない。それで、地方に出店していったんです。そのためには、管理をちゃんとせなアカン。せやけど、私が営業畑の出身やからか、管理に経費をよう掛けんかった。それが、私にとって大きな壁や思うたから、『それやったら、上場しよ』って考えたんです。上場したら、イヤでも管理部にお金掛けなアカンもんな。それで、結果として上場もできて、ガバナンスが強化できたから、万々歳や。上場いうても、通過点やから、上場したことで何ができるか、それが大事やと思う。うちにとって、それは、ガバナンスの強化。それで、株主も、社員も、アルバイトも、パートさんも、そして何よりお客様、みんなが笑顔になってくれる、それが一番や」。
2016年現在、ヨシックスは、『や台や』・『や台ずし』の他に、<ジャンボ焼とり・釜めしが旨い店!『ニパチ』>、<大阪の味は 串カツ『これや』>など21都道府県に出店している。株式も、JASDAQと名古屋証券取引所市場2部から、東証2部にステージを上げた。
今後の目標を伺うと「東証1部上場」だと言う。
大阪市生野区。雑多な町で生まれ育った少年が、いつしか株式上場企業の社長となった。それ自体、極めて痛快である。さらに特筆すべきは、目の前の現実を、自身の力で覆してきた、その底力である。いきなり会社を辞し職を失くした時、時代の流れに先が見えなくなった時、その都度、吉岡氏は、ピンチをチャンスに変えてきた。参考にすべきは、そこだろう。むろん、人重視の経営も、なかなかできることではない。人懐っこい笑顔と温かみあふれる関西弁が魅力的な経営者である。

思い出のアルバム
 

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