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第558回 有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏
update 16/09/20
有限会社誠屋
宮田朋幸氏
有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏
生年月日 1970年10月6日
プロフィール 茨城県出身。高校の時にバンドを結成。高校卒業後、プロのミュージシャンをめざし、上京。27歳、バンドのかたわら、初の正社員に。その店が「百麺」。宮田のラーメン人生のベースとなる店である。
主な業態 「誠屋」「百麺」「中山堂」他
企業HP https://www.m-s-co.jp/

バンド時代の始まり。

宮田氏は、1970年10月6日。茨城県で生まれる。2人兄弟の長男。
「両親はともに銀行員で、職場結婚だそうです。父は勤勉なタイプで、夜が遅いもんですから、土日しか家にいない人だと思っていました(笑)。母の躾が厳しく、その反動ではねっ返りになったことも…。小さな頃は、母の実家である和菓子屋に行って、家族で手伝ったりもしていました」。
父の転勤で、東京や栃木で暮らしたこともあるそうだ。
「小学校に入学する前に東京に行き、3年まで東京にいて、そのあと、6年の夏休みまで茨城の古河で暮らしていました。夏休みが明けると、今度は真壁町。中・高になってようやく、勝田で落ち着きます(笑)」。
結構な転校歴だ。
「転校するのはイヤでしたね。それなりに知恵もつくんですが、最初の転校ではいじめられたりもしましたから」。
小学校からサッカー選手だった。古河時代には7つの小学校の選抜メンバーに選出されている。
「読売のサッカークラブと試合をしたんですが、惨敗です(笑)」と宮田氏。試合が始まる前から飲み込まれていたそうだ。「サッカーが盛んな町の、いわばエリートばかりなんですが、相手を観て、すぐさま観念しました」。
さすがに小学校の選抜メンバーといっても、クラブチームにはかなわなかったようだ。中学校でも、宮田氏はサッカーをつづけている。だが、少しずつ関心の天秤が「遊び」に傾いた。
「練習に出ない日がだんだん多くなって、遊びが生活の中心になっていきました。中学3年生の時には、ドラムを叩いて遊ぶようになりました」。ただし、こちらは、のちに「遊び」の域を超える。
「小学校6年生の時に、ブラスバンドを観てドラムに憧れていたんです。友人宅の、納屋にあった機材を引っ張り出してきて、ドラムの練習を開始したんです」。
これが、バンド時代の始まり。

ブレイク。その時をめざし、上京。

高校は、工業高校に進んだ。なんでも、当時流行っていた次原隆二氏作の「よろしくメカドック」に触発され、「自動車整備士になろうと思っていた」からだそうだ。
「初めは工業高校の独特の雰囲気に圧倒され、『失敗した!』と思いました。でも、慣れは怖いもんで、どんどん楽しくなっていくんです。この頃から、バンドに打ち込むようになりました」。
他校までアンテナを広げ、楽器がうまい奴をスカウトし、4人でパンクバンドを結成した。その一方で、バイクにもハマり、暴走族にも入りかけた。「大晦日に走ることになっていたんですが、たまたまバイクが故障して走れず、運よく暴走族入りを免れました(笑)」。
当時の宮田氏は、ライブともなれば、ストレートパーマをかけ、髪を立てていた。美容室には、月に2回。常連だった。
ただし、遊びじゃない。ファンもいた。評価もされた。
「当時は、イベントホールのようなところで、オーディションを勝ち抜いた高校生がプロと一緒にライブができるイベントがあり、それによく出ていました。ちょっと人気者になって、今思えば、結構、個性的なファンが集まってくれていたと思います」。
学校では、はっちゃけていたが、バンドは真剣である。高校を卒業して1年後、4人で上京。「イエローモンキーのようなバンドに憧れていた」という。バンドのメッカだと高円寺に住み、おなじメンバー4人で、5年間活動した。
「ベースが抜け、ギターが抜け、メンバーを入れ替えながらやっていたんですが、うまくいかず解散しました」。宮田氏は、別のバンドに参加し、活動をつづけた。
とはいえ、プロでないぶん、バンドとバイトは、おなじ意味だった。バンドをつづけるには、バイトを辞めるわけにはいかなかったからだ。

ラーメンとの出会い。

「27歳の時にバンド仲間の紹介で世田谷の『百麺』でバイトを始めました。これが、ラーメンとの出会いです」。バイトを開始し、半年後。当時の店主から「社員にならないか」と誘われた。
「正社員になるとバンド活動ができないからと断ったんですが、店主もそれは承知で、『バンドの時間はなんとかする』と言ってくれたんです。それで、人生初の正社員です」。
ふつうなら、「修業」である。しかし、宮田氏は、かわらずバンドに精を出した。
「週に2〜3回スタジオに入り、月に1〜2回ライブを開きます。30歳くらいまで、このペースでした」。ラーメン職人+バンドマン。意外に格好いい。
「『百麺』は、インテリアデザインの会社の外食事業部という位置づけでした。私が入り、1年後に板橋、翌年に中目黒と出店をつづけます。しかし、私が31歳の時に、いろいろあってリストラしなくっちゃならなくなったんです。それで、部下といっしょに4人で退職しました」。
調整を任されたのは、宮田氏。1人残る選択肢は、ハナからなかったようだ。
「むろん、ラーメン店で起業という野望もありました。しかし、その前に決着をつけておかなければいけないことがありました。バンドです」。
すでに31歳。おじさんの仲間入りの年代である。最後の勝負と、宮田氏は、1年間、バンドに集中した。しかし、思ったような結果がでなかった。悔しいというより、清々したのではないか。1年後、今度は、ラーメン店開業に向け、ホンキで走り出した。
ちなみに、現在、「百麺」は、宮田氏が経営している。かつての経営母体から、買い取ったそうだ。

背水の陣で、船出。

「最初は、事業計画書などをつくって、プレゼンも行い、資金集めをしたんですが、そうそううまくいきません。そんな時、ある社長に出会いました。その社長が新店をオープンするとのことでしたので『私にやらせてください』と打診しました」。当初、宮田氏が描いていたのは、オーナーとして出資してもらい、運営は、すべて宮田氏が行うというプランだった。
「しかし、向こうの社員さんの手前もあって、『まずはうちの正社員となって結果を出して欲しい』と言われ、承諾しました。ただし、メンバーは全員、『百麺』時代の仲間です」。
スタイルは違っても、もう一度みんなでできる。宮田氏は、小躍りした。しかし、ひょんなことで、舞台が反転する。
「その社長が、『お金が用意できなくなった』っていうんです。もちろん、私にもお金がありません。しかし、このチャンスは逃がせないと思ったんです」。
ご両親が老後のためと蓄えていた1000万円を貸してもらった。背水の陣。「しかし、初めてでしょ。なんだかんだ費用がかさんで、200万円もオーバーしてしまったんです」。
取引先の営業マンに相談して、4ヵ月の分割にしてもらった。4ヵ月。それまで払い終わらなければならない。2月にオープンしたから、夏までの4ヵ月。すべては、この4ヵ月。ラーメン、ライブが始まった。

熱血、ライブ。

「『百麺』の味がベースになっています。そこに少しアレンジを加え、スタートしました」。「百麺」のバイト時代は、いわば第一次のラーメンブーム。出店すれば、たいてい成功した。とはいえ、ブームはそう長くつづかない。味も、サービスも洗練されたものだけが、残る。
「スタート時は、11:30〜24:00、年中無休でと思っていたんですが、いっしょに始めた3人とも現場を離れて1年経っていたもんですから、深夜営業はできないと考え、深夜帯の営業は休止することにしました」。
これも経験の知恵である。とにかくスタート勝負。
「『百麺』ではオープン時に、いつも半額セールを行っていました。それが、のちの集客につながったんですが、やろうにも人手不足。悩んでいた時に、昔の仲間たちが、朝に3人、夜に3人ずつ応援に来てくれたんです」。泣くほど、嬉しかったそうだ。そういう仲間の助けもあって、予想以上に快調なスタートを切る。
計画通り、4ヵ月で、オーバーした200万円を完済。社員を新たに1人採用した。
バンドも実は1年後に再開している。
店舗も拡大した。「百麺」も買い取った。順調な一方で、クローズした店も1軒ある。
「高円寺の店です。思い入れも強かったですが、駅地下にラーメン横丁がオープンし、そのあおりを受けました」。
現在の店舗数は7店舗である。
「ラーメン店として、店舗拡大していくのではなく、店舗数は少なくても、地元に愛される店づくりをしていきたいと思っています。2世代で来てくださったら、本当に嬉しくなりますね」。
カフェやバーにも興味があるそうだ。もちろん、楽器演奏ができるスペースも、設ける。いまは、楽器なしのステージだが、それらの新店がオープンすれば、どうなるだろう。益々、宮田氏の熱血ライブが、心に響くはずだ。

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高校時代 バンド時代 ツーリング仲間と温泉
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