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第559回 株式会社ニッコクトラスト 代表取締役社長 須藤高志氏
update 16/00/00
株式会社ニッコクトラスト
須藤高志氏
株式会社ニッコクトラスト 代表取締役社長 須藤高志氏
生年月日 1951年10月11日
プロフィール 東京都の両国で生まれる。駒澤大学卒後、株式会社ニッコクトラストに就職し、ニッコクトラスト一筋に歩みつづける。35歳の時には、海外勤務も経験。一つひとつの経験を糧に成長し、6代目社長に就任する。
事業内容 給食に関わる調理運営(一般企業内における社員食堂、学校給食、病院給食(患者食)、介護施設給食等)及び自社ブランドレストランの運営(「蓼科庵」「フィン・マクールズ」「フィンズ・カフェ&レストラン」)
企業HP http://www.nikkokutrust.com/

須藤、少年。

「一時は、プロのミュージシャンをめざしていた」と須藤社長は、笑う。昔の話である。
「親父は、とにかく頑固な性格でね。今思えば愛情の裏返しなんですが、中学生の頃には新聞配達をさせられましたし、中高一貫の男子校にも入れられました。一言で言えば、怖い父です。でも、高校くらいから、もうこいつはダメだって思ったんでしょうね。好き勝手しても、何も言わなくなりました(笑)」。
小学校の頃は、大人しい性格だったそうだ。父親が、中高一貫の男子校に進学させた理由の一つである。「男子校に入れば、もう少し活発な人間になると思ったんでしょうね。たしかに男子校。だんだん、性格も矯正されていきます」。
父親の期待通り、活発な少年になってはいくが、そのぶん、父の手から離れるようになる。父親への反抗心もあったが、父親もまた、それを望んでいたような気がする。
息子を自立させるため、きびしく躾ようとしていたように思えるからだ。
「中学生の頃から小遣いもない。新聞配達をしろ、と。そういう教育だったんですね、父は。実は、教師に一度、止められたんです。子どもが朝早くから危ないって。でも、親父は『これがうちの教育だ』ってつっぱねました」。もっとも、お金に困っての新聞配達ではない。須藤氏が手にした給料は、父親の手によって、そっくり貯蓄された。
「反抗していたはずなんですが、結局は、父の手のひらのうえにはいたんでしょうね」。一方、父親にも案外、やさしいところがあった。「たとえば、中学からブラスバンドに入り、ドラムを叩き始めるんですが、その時、ドラムを買ってくれたり、ね。ひょっとすれば、少しずつ私のことも認めてくれるようになっていたのかもしれません。ただし、この時、フルセットで買ったものだから、うちにはスペースがない。それで、母方の、母方の祖父は代々のお金持ちなんですが、そこのうちの離れに置かせてもらって練習をしていました」。
新聞配達とブラスバンド。教師が反対した理由もわからなくはない。新聞配達は朝が早い。3時半には起きだして、出勤する。学業とクラブ活動だけでも両立はむずかしいのに、よくつづいたものだ。
夏はまだいいが、冬は走り出すと、氷の刃が向かってくるばかりだ。それでも空は澄んでいたし、たぶん、少年に声をかけてくれる大人との、あったかいふれあいあったことだろう。ブラスバンド部ではドラムを叩き、メンバーと息を合わす。そうしたことを積み重ねることで、少しずつ大人の階段を少しずつ登りはじめたに違いない。
なかなかできる教育ではない。

就職。

「高校では、飲食のバイトも始めます。今思えば、これが私の原点ですね。就職の時に『飲食』が念頭にあったのも、この時に『飲食っていいな』と思ったからなんです」。
須藤氏は、駒澤大学に進学する。冒頭の一文はこの時のこと。ブラスバンドに熱中していた須藤氏は、この時、バンド活動に精力的に取り組んでいた。「私だけじゃなく、誰でも、一時はいけるんじゃないかと思うんです。でも、知れば知るほど難しいってことがわかてくる。言っても何千人に1人の世界でしょ。大きなカベが立ちはだかる。その一方で、就職が近づいてくるわけです。それでメンバーが1人抜け、2人抜け。やがて、『オレも』と、私も就職活動を開始するんです」。
前述した通り、就職するなら飲食だと思っていた。
チャンスは向こうから近づいてきた。
「就活の時期に、2人の従弟から誘われるんです。1人は、いまのうちの会社、ニッコクトラストで勤務していた人間で、もう1人は、レストランを何軒か経営していまして、『チェーン化するんで、来てくれないか』という話でした」。
はたから見れば、リスクはあっても後者のほうが楽しそうだ。「そうですね。でも、その時、両者には雲泥の差があったんです」と須藤。どういうことだろう。
「レストランのほうは、以前、バイトもしていたんで、だいたいわかるんです。朝7時〜夜11時まで。奥さんもいっしょだったし、寝ることも、休むこともできないことがわかっていました。逆に、ニッコクトラストっていう、つまり、うちの会社ですが、うちで連れていかれたのは、大手町にある銀行の社内食堂です。そりゃ天国みたいですよ。2時には、ランチが終わっていますから、みんなでゆったり食事なんかして、笑いあっている。安定しているし、『利益もいいんだ』って、聞かされて」。
なるほど、雲泥の差である。
「『どうだ、うちはいいだろう』って言われて。『そうか、そうだよな』です(笑)。天国と地獄があるとすれば、そりゃ、ニッコクトラストが天国でしょ。そう、まさに天国だと思って入社するんです。ふつうの人なら、もうちょっと事前に調べるかもしれませんけどね(笑)」。
安パイを取った。正確に言えば、取ったつもりでいた。

天国でみた地獄。

「もっとも最終的に決めたのは、面談で口説かれたからなんです。でも、どこかに天国っていうのが頭にあったから、承諾したんでしょうね」。
ところが、初日から雲行きがおかしかった。入社初日。スーツを着てきた須藤は「市ヶ谷にある印刷工場に行け」と、いきなり1BOXカーに放り込まれた。
「調べておいたほうがよかったと思う間もなかったですね。考えてみれば、銀行の社食だけじゃないのは、すぐわかりますよね。私が、配属されたのは印刷工場です。印刷工場は朝・昼・晩・夜中・深夜の合計5食です。ランチ、ディナーの2回転より、3回も多い。しかも、365日24時間です。天国のはずが、地獄だったんです(笑)」。
たしかに、最終的には、面接官に「音楽も、料理も人を楽しませるという意味ではおなじだ」と口説かれ、この世界を選択した。しかし、この世界では、ドラムも叩けなかったし、叩くドラムもなかった。つまり、音楽のように誰かを楽しませることもできない。ちからがなかったからだ。
「半年は、『洗い』です。周りはパートのおばさんでしょ。大卒だって『ボーヤ』ですよ。半年くらいで厨房に立ちますが、それでも『ボーヤ』です。とはいえ、『ボーヤ』と言われようが、私らは将来の幹部候補です。そうそう怒るわけにはいきません。しかも、幹部候補生といったら響きはいいんですが、実態は召使のようなもんです。『人手が足りないから』という理由で帰れないし、休めない。たまに、『今日は帰れるな』という日があっても、急にパートさんが出勤できなくなって、それで、延長です。残業もつかない(笑)」。
たまったものではなかった。しかし、まだ、きびしい社会の幕は上がったばかりだ。
「1年後に、蕎麦屋に異動します。こちらはれっきとした外食です。つまり、外食より、給食がいいと思って入社したにもかかわらず、外食で、蕎麦屋です」。頭の隅で、もう1つの、レストランという選択肢があったことを思い浮かべても、罪にはならないだろう。
蕎麦屋に異動したことで、さすがに週1日は休みを取れるようになったが、いきなりの異動である。理不尽と言えなくもない。
「3年目くらいには、アシスタントマネージャーになるんですが、今までよりもていのいい補充要員です。人が足りなくなったら、そこに行く、みたいな」。
蕎麦職人からも、顎で使われた。「蕎麦を打て、天ぷらを揚げろ、つゆを取れ…」。
「最初は、従弟の紹介だったもんですから、すぐには辞められないなと思っていたんです。でも、だんだんと、悔しくって、ある程度、私自身がかたちになるまで、辞めるもんかと思うようになるんですね。でも、思い描いていた仕事とは、まったく違います。あの、ゆったりした食堂の風景は、どこにいってしまったんでしょうね(笑)」。
どこにも行ったわけではなかった。不思議なもので、食堂の風景も忘れた頃に、辞令が下りた。都内のある銀行の食堂への異動だった。

念願の食堂勤務。しかし、プロたちのきびしい視線が降り注ぐ。

「銀行と言っても、国策のための銀行だったもんですから、大使館や外交官もいらっしゃるんです。食堂でパーティを開かれたり、ですね。特別食堂です。パーティの際には、フランス料理人のチーフに来ていただいて、ギャルソンなんかも外部から調達するんです。『ようやく、銀行の食堂か』と勇んでいたんですが、いうなれば、蕎麦屋のマネージャーが、いきなりフレンチの、しかも外国の要人もいらっしゃるようなレストランのマネージャーになったわけです。ギャルソンとかに、ワインの指示などもしなくっちゃいけないんですが、もともと蕎麦屋ですよ。フォークやナイフの並べかたも知らない。だから、さんざん苦労もしたし、笑われたりもしました」。
絵にかいたようなのんびりした風景は、どこにもない。プロは、いつもさげすむように、蕎麦屋から来たマネージャーを見下ろしていた。「でもね、こっちが真剣だったら答えてくれる人が絶対、出てくるんです。この時は、料理長でした」。
この時の料理長は、のちに取締役にもなられる水間氏だった。水間氏は、須藤氏のことを見込んだのか、富裕層が開く、個人のパーティにも、部下の1人として連れて行ってくれた。おじぎの一つ、言葉使い一つが勉強だった。須藤氏は、貪欲に吸収する。
一方、楽しさにも気づき、仕事にのめり込むのも、この時だ。
「銀行の総裁や副総裁が、ふだん行員にはお見せにならないような表情で食事をされ、『いい料理だったよ』とねぎらってくださったり、『あなたのサービスがよかった』とおほめいただいたり。もう、そうなると、うれしいし、おもしろい。辞めるなんて思いは、その言葉で、どこかに行ってしまいました(笑)」。
今も須藤は、「地道で堅実な経営。誠実な対応。料理に対する思いが大事」というが、この3つの言葉は、この時に、芽生えたものかもしれない。それらが、本来の仕事の楽しさにもつながることを知ったのが、この時だからだ。
しかし、人生の修業はまだ終わらない。

アメリカ、イリノイ州に旅立つ。

「37歳の時に、アメリカのイリノイ州にあるブルーミントンという町につくった日本食のレストランの再生に駆りだされました。このレストランは、ある商社とのコラボで始めた事業だったんです。でも、うまくいっていなくって。そこに、多少は英語もできましたが、私が投入されるんです。『英語ができる』と、『コミュニケーションが取れる』はぜんぜん違います。相手に指示や思いが伝わるか、伝わらないか、の違いなんですから」。
アメリカと日本の文化の違いにも驚いた。「向こうは役割が決まっていて、それ以外のことは一切しないのが基本なんです。食事を下げる係は、それだけで、それ以外のことは、まわりがどれだけバタバタしていても一切、手伝いません。つまり、日本流のマネジメントなんて一切、通用しないんです(笑)」。
もともと、内陸である。「そこで刺身料理を、というにも無理があった」と須藤氏は言う。「刺身も、空輸です。多少は日本人もいたんですが、そもそも、刺身なんて知らない。ニューヨークでもなければ、ロスでもないんですから」。
地形は、広い盆地だそうだ。夏は40度、冬はマイナス20度。それも初めて経験したことだ。
「結局、数字が成り立たないとレポートを提出し、店を閉める提案を、本社に送りました。それで帰国するんですが、『頑張ればアメリカで社長になれたのに』なんていやみも言われました。それでも、これもいい経験ですね。文化の違いをリアルに知れたのも、この時があったからです」。
今考えれば、早すぎたのかもしれない。日本食が、今ほどポピュラーになっていたとしたら、事情は変わったかもしれない。ちなみに須藤氏が35歳といえば、1986年のことである。日本ではバブル全盛期。金にモノを言わせて海外に進出した企業も少なくない時代である。しかし、まだまだ日本人や日本の文化は、軽んじられていたはずだ。ひょっとすれば単身、渡米した須藤氏もまた、アメリカ人たちから軽く観られていたのかもしれない。少なくも日本人は、リスペクトの対象ではなかったはずだ。須藤氏の苦闘も、想像できる。店を閉めるという苦渋の選択も、けっして白旗ではなかったはずである。つまり、次の一手のための、勇気ある決断である。
「はっきりいって、あの数年間があったおかげで、人間やれば、なんでもできる、と思うことができるようになったし、怖いモノもなくなりました」と、須藤氏も語っている。

6代目の社長に。

ともあれ、こうして、人間を練り、飲食の経験を積んだ須藤氏は、帰国後、営業部長となる。その後管理部門に異動して社内のシステムの改善の指揮を取り、取締役、常務を経て、5年前に、現職である社長に就任する。むろん、思ってもいなかった「椅子」である。
「経験は人を強くすると言いますが、そういう意味でいえば私は、すべて経験を通して、ちからをつけさせていただいて今がある、と思います」。
たぶん、部下にも、社員にも、パートやアルバイトにも、そういう経験をさせてあげたいと思っていることだろう。ちなみに、ニッコクトラストは昭和16年の創業である。須藤氏で、6代目の社長となるそうだ。「食」も、「職」も、人を育てるという好例かもしれない。
ここで須藤氏に学ぶことは、地道につづけることであり、やり抜くことでもあるだろう。まさに、一筋のちからである。「こっちが真剣だったら答えてくれる人が絶対、出てくる」という一言にも重みがある。見習いたい先人の一人だ。

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