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第560回 有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏
update 16/10/04
有限会社たのし屋本舗
下澤敏也氏
有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏
生年月日 1965年12月7日
プロフィール 横須賀出身。関東学院大学卒。飲食店での起業をめざし、4年間、居酒屋で修業。念願の独立を果たすが、素人に近いオーナーが開いた店に客は来ない。その時、三浦半島が食材の宝庫だと、改めて実感し、食材を求め、生産者たちとも交流を図る。当初、相手にもしてくれなかった漁港の人たちも少しずつ心を開いてくれ、魚を仕入れることができるようになって、店はブレイク。以来、三浦半島にある最高の食材をリーズナブルな価格で提供する人気店となり、店舗数を拡大していく。「地元愛」を語る経営者だ。
主な業態 「うれしたのし屋」「〇う商店」他
企業HP http://www.uretano.co.jp/

横須賀の町に抱かれて。

「母と2人暮らしだった」と今回ご登場いただいた有限会社「たのし屋本舗」下澤 敏也氏。3歳から大の祭り好き。25歳〜45歳くらいまで神輿の頭を任されていたそうだ。
「小学校くらいから、母と私の2人暮らしです。父とはちょくちょく会ってはいましたが、母1人、子1人です。親戚も少なかったもんですから、心を通わせることができたのは友達だけでした」。
そのぶん、友達を大事にした。当時は、商店街もまだイキイキしていた。子どもたちは駄菓子屋にむらがり、歓声を上げた。大人たちも、そんな子どもたちを時には叱りながらも、目を細めてみていたはずだ。
下澤家は友達のたまり場。いつも下澤氏の周りには友人がいた。祭りもみんなといっしょだった。「祭りが大好きな理由は、どこかで、真剣な触れ合いを求めていたんだと思います」。
小学6年生の頃からはバイトもした。「お彼岸やお盆の時期に、お花屋さんでアルバイトしました。日給7000円。超破格です(笑)」。
中学は、私学の横須賀学院。「中・高一貫の学校です。ドアツードアで40分。中・高一貫ですから、当然、高校も横須賀学院です。ちゃらちゃらした、楽しい学校でした(笑)」。
中学時代には海の家でバイト。バイトで貯めたお金で7万円もするギターを買ったが、すぐに飽きてしまって高価な置物になった。
ところで、横須賀は、神奈川県の東南部、三浦半島に位置する。東は、東京湾、西は相模湾に挟まれた格好だ。下澤氏の家も海に近く、下澤氏も、高校時代、毎日、海で遊んでいたそうだ。
横須賀という町に抱かれ、下澤少年は、大きくなっていった。

「三浦半島」で、みつけたもの。

「大学だけは出ておこうかなと思って、受験します。進んだのは、関東学院大学の夜間です」。やりたいことがなかった。なにをすべきかもわからない。「そうですね。方向が決まっていたら、大学にわざわざ行かなかったでしょうね」。
昼間も、実は、夜もバイトに明け暮れた。だから、大学にはほとんど通っていない。知り合いのクリーニング店を中心に、添乗員や、ラーメン店でもはたらきました。
卒業後も25歳までクリーニングで勤務した。「その頃から独立は意識していました。クリーニング店を退職した後、30歳まで4年間、居酒屋で修業。調理も一通り覚え、いよいよ独立と、創作居酒屋を立ち上げたんですが、お客様がぜんぜんいらっしゃらない(笑)」。
当初は、「いつかは、横浜や東京へ」とも思っていたそうだ。創作居酒屋で、女子の目も意識して、料理もスタイリッシュなものにした。友達も、知り合いも、たくさんいたから、それはそれで、「なんとかなる」と思っていたそうだ。20席。いま思えば信じられないが、席が埋まることもなかった。見事に鼻を折られた。
「たしかに、みんな来てくれたんですが、だいだい夜中なんです。彼らが来るのは。で、朝まで(笑)。それはそれで楽しかったんですが、儲からない。半年くらいで、行き詰まりました。ヤバイと思った、そんな時、1人で三浦半島をぐるっとひと回りしたんです」。
「衝撃を受けた」と下澤氏はいう。「江戸前の穴子は旨いと聞いていました。でも、それだけじゃなかったんです」。
「三浦半島は、食材の宝庫」と、知ったのはこの時。太平洋に突き出した半島は、東が東京湾、先端が南で太平洋、西が相模湾と3方向が海に囲まれている。「東と西では、獲れる魚も違うし、同じ魚でも味が異なる」そうだ。「陸に上がれば、畑には野菜があるし、卵もある、もちろん牛肉も。海に囲まれているから土も豊かで、ミネラルが豊富なんです」。
そこに暮らしながら、そこを知らなかった。ただしく言えば、三浦半島に暮らしながら、三浦半島のかたちしか知らなかった。もう少し下澤氏的にいえば、「三浦半島の食材のちからを知らなかった」ということになるだろう。
「それからです。魚も、野菜も、オーバーに言えば切るだけ。それが、うちのメニューになりました。ところが、創作時代より、お客様がいらしてくださって」。
もう、オープンして20年以上になるが、実は、この日、インタビューしたのは1号店。大人から子どもまで、にぎやかな声が、インタビューテープに刻まれている。席はほぼ満席だった。
「そうですね。これが、三浦半島のちからだと思うんです」。むろん、下澤氏が仕入れる食材は簡単に手に入らない貴重なものばかりだ。
「東京で食べれば、価格もぜんぜん違いますし、なんであれ、やはり鮮度がまったく違いますから」。食材のストーリーまで語れるようになった。「この魚が旨いのはなぜか」といったストーリーは、「旨さ」を際立たせる調味料となる。しかし、この調味料こそ、そう簡単には手に入らない。

三浦半島のブランド化を推進する。

「私が、食材のストーリーを知ったのは、何度も、何度も漁港に通ったからです。もちろん、当時は、素人が漁港に入るのも、禁止だったんです。でも、私もがむしゃら。無茶を承知でお願いしました。尻を叩かれても、めげずに通います。できるだけ仕事も手伝って、三浦半島にある34港、すべての漁港を一つひとつ歩き回りました。そうしているうちに、少しずつ心を開いてくださる方も増え、仕入れもできるようになっていくんです」。
しかも、それらの積み重ねが、7年前に大きな扉を開いた。
「もともと、34あった漁港は、協同組合としてまとまっていくんです。そのうちの一つに三浦協同組合というのがあって、その組合の入札権を特別組合員として取得することができたんです」。
むろん、ほかにはない。絶対の優位性となる。「入札権というのは、仲介ができる権利です。それを、店を開いている私が持っているわけですから、この意味は大きい」。この話を聞けば、圧倒的なコストパフォーマンにも、納得できる。しかも、のちに横須賀長井共同組合の会員にも名を連ねることになる。
下澤氏が、三浦半島を回って知ったのは、もう一つある。下澤氏自身が、生まれ育ったこの町を愛していることだった。
「地元愛ですね。だから、もっとこの町を、この半島を日本に知らせていきたいと思っています。三浦半島のブランド魚など食材のブランド化もそうだし、クラフトビールを始め、横須賀の地ビールを作りたい、と思っています」。
祭りが大好きな少年は、いま横須賀、そして三浦半島で暮らしを営む人々が担ぐ、神輿の、その頭ともいえる位置にいる。

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