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第561回 株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏
update 16/10/11
株式会社クリエイト・レストランツ
池田 宏氏
株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏
生年月日 1960年3月1日
プロフィール 山形県酒田市に生まれる。東洋大学卒。日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社に入社。9年後、宅配ピザ、「ピザハット」の立ち上げに参加。事業を軌道に乗せたのち、三菱商事に転職。オリエンタルランドとのコラボ事業である「レインフォレストカフェ」1号店の店長を務めた。そこで創業者の岡本晴彦氏の誘いで、株式会社クリエイト・レストランツに出向。
転籍後、岡本氏とともに、多彩な同社の事業をけん引する。
主な業態 「しゃぶ菜」「はーべすと」他
企業HP http://www.createrestaurants.com/

中学入学2日目、「大きなお世話だ」と吠えた。

今回ご登場いただく、株式会社クリエイト・レストランツ、代表取締役社長、池田宏氏は、1960年、山形県酒田市に生まれる。4人家族の2人兄弟。兄とは3つ離れている。
「子どもの頃から、影が薄かった」と池田氏は笑うが、中学入学して2日目、3年生に呼び止められている。本当に影が薄ければ、こうはならないだろう。
「入学して2日目です。3年生が『なまいきな奴だ』と言ってきたんです。『なんなんだ、こいつは』と思って『大きなお世話だ』って怒鳴り返しました。そこまではまぁ、よかったんですが、怒鳴り返したとたん、容赦ないパンチが飛んできて、ボコボコにされました(笑)」。
相手が悪かったそうだ。
「5年後、後楽園ホールで開催されていたボクシングの試合を観ていたら、その先輩というか、3年生がリングに上がって試合をしていたんです。そう、プロボクサーの卵だったんです。そりゃ、勝てません」。
未来のプロボクサーに吹っ掛けられたとはいえ、2学年下、しかも入学早々噛み付いたのだから、池田氏の中学生時代がほぼ想像できる。負けん気というか、怖いモノ知らずの性格もまた想像できる。

初ステージは、50円。ほろ苦いプロデビュー。

高校卒業、母の勧めもあって「東北電力」を受験し、内定をもらう。
「そうですね。あのまま、東北電力で勤めていたら、また違った人生だったでしょうね。むろん、内定をもらっていたんで就職するのが当然なんですが『いざ、就職か』と思うと、なんだか「まだ、働きたくないな』って思いが頭をもたげてきて。それで、内定を辞退して、3年生の年末から今までしてこなかった勉強を、なんとか開始して翌年、東洋大学に進学しました」。
 東洋大学を選択したのは、2人の好きな卒業生がいたからだ。植木等氏と、坂口安吾氏である。「今の人にはピンと来ないかもしれませんが、植木等は当時有名な歌手で、コメディアンです。坂口安吾は小説家です。私は、この2人を先輩にしたくて、東洋大学に進み、植木さんのようになりたくて、音楽サークルに入部します」。
 先輩が歌を歌い、池田氏がギターを弾いて、やがてプロデビューもした。もっとも、プロといっても観客1人に対し、100円支払うような契約だったらしい。「初ステージは悲惨でした。まだゼロのほうが、ある意味マシですよね。観客は1人。ステージが終わって、100円をもらって、2人で分けました」。1人50円のほろ苦いプロデビュー。母には、冗談で「ミュージシャンになる」といったが、信じてもらえるはずもなかった。

日本ケンタッキー・フライド・チキン、入社。

東洋大学を卒業した池田氏は、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下、ケンタッキー)に就職する。何ができるのか、何をしたいのかが、自分でもよくわかっていなかったので「成長している会社」に就職したのが正直なところだそうだ。
ケンタッキーは、1970年3月、日本に登場する。同年7月、三菱商事とKFCコーポレーションの出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が誕生。同年、11月21日、名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に1号店がオープンする。しかし、華々しいデビューとはいかず、半年で1号店は閉店に追い込まれている。
このあたりの経緯は、初代店長であり、のちに社長に就任される大河原毅氏を通し、お伝えさせていただいている。飲食の戦士たちの姉妹サイトであるクロスαをご覧いただきたい。
ケンタッキーは神戸三宮の「トアロード」に出店した4号店で、火が付き、軌道に乗る。池田氏が就職したころは、もっとも元気だった時代だろう。
三菱商事という商社がバックにある。資金力も、ネットワークもある。様々な事業も打ち出した。「私は、9年間、ケンタッキーで勤務します。最後の半年は、ハワイで勤務していました。ケンタッキーを辞めたのは、ピザハットを立ち上げることになったからです」。むろん、関連会社である。現在は、ともに日本KFCホールディングス株式会社の傘下に収まる企業である。

ピザハット

もし、「東北電力」に入社していれば、という話をした。今度は逆に、「ケンタッキー」に入社していなかったとしたら、というクエスチョンである。池田氏が、就職した頃は、ケンタッキーだけではなく、外食事業が花盛りの頃である。「日本マクドナルド」などのファストフードはもちろん、「すかいら〜く」や「ロイヤルホスト」などのファミリーレストランも全盛期である。
その中から、偶然にも、ケンタッキーを選択する。「いい選択でした。面白い仕事も、経験できた。その面白い仕事の象徴が、ピザハットです」。
ピザハットも、ケンタッキー同様、アメリカ企業である。「もともと、日本には以前からレストランとして登場していたんです。しかし、私たちのいうピザハットは、今みなさんが知っている宅配ピザの店です。日本ではまだドミノピザがあっただけでした」。
ともかく、宅配ピザ市場の黎明期である。
「ドミノピザがあったとはいえ、私たちにはノウハウもありません。それで、アメリカのカンザスにある本社へ、私を含め3人が派遣されるんです。何をすればいいかわからないから、とりあえず忠告にしがたってゴルフバッグをもって行きました。カンザスは山もないフラットなとてもいい町でしたね。それにちょうど乾季で、夜9時頃まで明るいんです。だから1日に3ラウンドもできました。でも、ゴルフバッグをもってきた私たちに、本社の人間は『何しに来たんだ?』とあきれ顔でした(笑)」。
もちろん遊んでいただけではない。店に出てオペレーションも学んだ。本社で、マニュアルの作成方法なども勉強した。「私がいちばん勉強したのも、この時だったと思います。帰国しても、準備室は一部屋です。そこでマーケティングなども、すべて教えていただきました」。同じ部屋で顔を並べた人の名を聞いて、なるほど、と思った。錚々たるメンバーだったからだ。
ウイキペディアには、1991年5月、日本KFC内に「デリバリー事業部」が新設され、「ピザハット」が営業を開始したと書かれている。

「なんでもあれ」、捨て身の覚悟で、起死回生。

「ケンタッキー同様、ピザハットも当初はまったくだめでした。だめというか、ロイヤリティも高くて、それを支払うと赤字になってしまうんです。それで、3店舗目の時に『もう何でもやれ』と号令をかけました。マニュアル通りだと、とても利益がでなかったからです」。何でもやれ、は、いわば「日本流にカスタマイズした」ということだろう。「それでなんとか黒字になった。あれで黒字にならなかったら、日本のマーケットからは撤退していたかもしれません」。
その後、池田氏ら創業メンバーに引っ張られながら、「ピザハット」は順調に業績を伸ばしていく。反面、「軌道に乗ると、面白みが欠けてきた」と、池田氏。8年勤務し、三菱商事に入社する。三菱商事がオリエンタルランドと組んで新事業を開始するタイミングだった。
「この時、岡本と知り合います」。岡本氏とはいうまでもなく「クリエイト・レストランツ」の創業者であり、現、株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス社長の岡本晴彦氏のことである。

クリエイト・レストランツ、入社。フラットな人生と、おさらば。

「私は、コラボ事業である『レインフォレストカフェ』の店長として再スタートします。実は、これが縁で『レインフォレストカフェ』が落ち着いてきた頃に、彼から誘われるんです。クリエイト・レストランツに来ないかって」。
 現在、池田氏の社長業の舞台となる「クリエイト・レストランツ」は、1999年に岡本氏が三菱商事在籍中に創業した会社である。当初は専務という立場だったが、2002年、三菱商事を退社し社長に就任。3年後の2005年には早くも株式を上場している。
 むろん、池田氏が岡本氏に誘われ転職したのは、上場するよりも以前の話である。「当時から、上場すると思われていましたか」と伺うと、「そうですね」という返答。
上場したことも池田氏にとっては、重要なことに違いないが、それ以上に今までフラットだった人生に、凸凹を残すことになったことが重要である、と言いたげである。
「子どもの頃から普通で。普通に大学を卒業し、ケンタッキーに入社してサラリーマンになって、ピザハットの時はものづくりというのを知って、楽しかったけれど、まぁ、フラットなサラリーマン人生です。ところが、『クリエイト・レストランツ』は、まだできたばかりの会社です。サラリーマン根性じゃ、務まらない。面白い話があって、うちに来ていきなり、『ひげを伸ばしますか?』って聞かれたんです。それ自体、変でしょ。『いや、ひげは伸びないから…』っていうと、『じゃぁ、代わりに何か一つ特典を上げます』っていうことになって、それでアロハシャツ出勤を認めていただいたんです(笑)。人生でいちばん面白い経験が始まります」。
今も夏は大半がアロハ通勤だそうである。自由度の高さが伺える話だ。服装ばかりではない。事業戦略も、かなり自由度が高い。だから、失敗も山ほどした。
「最初に、アイスクリームとホットドックの店があって、そこを『好きなものに替えてもいいよ』って言われるんです。それでクレープの店に。初めてゼロから私1人でつくるんです」。
今までも、決してマニュアル通りの人生だったわけではないが、自ら何かをクリエイトする人生ではなかった。そんな池田氏に初めて自ら創造する、もしくは、しなければならないシーンが訪れた。「好きなものに替えてもいいよ」の一言がその始まりだったわけである。
「今でもうちの会社は面白いと思いますよ。そういう風土は、残していかないといけないと思っています。失敗も成功の素っていう、社風も合わせて」。
ちなみに、池田氏が最初に手がけたクレープショップは見事に頓挫したそうだが、その失敗を恥とは思っていないそうだ。むしろいい経験をさせてもらったと語る笑顔が印象的だった。

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