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第563回 旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏
update 16/10/25
旭鮨總本店株式会社
丹羽 豊氏
旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏
生年月日 1956年2月9日
プロフィール 群馬県 国定村(現:伊勢崎市)に生まれる。高校卒業後、上京し、「旭鮨」にて、寿司職人になるべく、修業を開始する。以来、同社の経営の近代化などに努め、2015年、代表取締役に就任。90年という1世紀近い歴史を持つ老舗企業の、今からを託される。
主な業態 「旭鮨總本店」
企業HP http://www.asahizushi.com/

やりだしたら、途中で逃げない。それが流儀。

群馬県国定村。今では伊勢崎市となっている。この国定村に、丹羽氏が誕生したのは、1956年である。兄と妹に挟まれた次男坊。運動神経が良く、中学時代から始めた卓球で群馬県の郡大会で優勝している。
「高校は前橋商業に進学しました。卓球が強い学校で、インターハイにも9年連続で出場しているような学校でした」。県立だから、むろん推薦で入学はできない。にもかかわらず同期には、中学時代に全国大会で1位や2位になったような選手がいたそうだ。
「そういう奴がいたもんだから、1年の時は入部を見送ったんです(笑)。でも、さすがに何もしないというのもなんだから、2年になって入部します。もともと巧い選手ばかりでしたし、1年の遅れがあったもんですから、なかなかいい成績は残せませんでした」。
それでも、当時は3年連続インターハイに出場している。県では群を抜いたチームだったのだろう。「練習は、それなりにきつかったですね。辞める奴も結構いました。私は2年からですが、最後までちゃんと続けました」。
1年のブランクは、肉体的にもハンディキャップとなったはずだ。おなじ練習をしても、疲労度は、1年分、異なる。それでも、やりだしたら、途中で逃げない。それが、丹羽氏の流儀なのだろう。
これから先を進めていくわけだが、我々は、度々、その流儀に、驚かされることになる。

旭鮨総本店で、寿司職人になるための、見習い期間がスタートする。

「私が鮨屋をやろうと思ったのは、なんといえばいいんでしょうね。何もやりたいことがなかったから、っていうのがいちばん正しい気がしますね」。
丹羽氏が鮨屋に入る経緯はこうだ。
「もともと鮨屋でバイトをしている奴がいたんです。もちろん、群馬で、です。そいつが『高校を卒業したら、東京の鮨屋で仕事を始めるからついてきてくれ』っていうんですね。それで、私もついて行って面談もいっしょに受けたら、家に帰った時には、その鮨屋から合格通知が届いていたんです」。
その鮨屋が、その後、40年以上勤務することになる「旭鮨総本店」である。
「それで、さっきも言ったように、『これだ』っていうものがなかったから、『鮨屋でもいいか』って、私が就職して。いっしょにいった奴は、結局、地元の鮨屋ではたらくことになったから、私1人が東京に向かうことになるんです」。
高卒で、鮨屋というのは、当時、どういう選択肢だったんだろうか。丹羽氏が18歳とすれば、1974年のことである。1970年、万国博覧会が開催され、食文化においても、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」が日本に登場する一方、「すかいら〜く」などのファミリレストランも台頭する。飲食店の経営が近代化されていくのも、この頃からだ。
しかし、鮨屋は、まだまだ旧態依然とした、伝統文化に染まったままだったに違いない。鮨職人も、むろん徒弟制の時代だったはずである。
「旭鮨の創業は、1927年ですから、私が入社した頃ですでに50年ちかく経っていました。いわゆる老舗です。いい寿司職人がいて、その技を代々、受け継ぐことで、はじめて成り立つ商売ですから、私たちも、ある意味ちゃんと育てていただきました。いまはもう、そういうシステムではないんですが、当時は5年です。5年続ければ、見習い終了です」。
5年といえば、ずいぶん長い期間だが、伝統の技を受け継ぐというのはそういうことなのだろう。
「私の同期は、8名です。実は、この8名が全員、5年の修業を終え、見習いを卒業するんです。その後も含めていままでの90年間で、全員が辞めずに卒業したのは、私らが唯一なんです」。
いい勲章である。8人は寮生活。数名が1部屋でいっしょに生活した。どんな話をしていたんだろう。へこんだ仲間がいれば、励ましあい、逆に、いいことがあれば、全員で喜びあった、そんな関係だったに違いない。いずれにしても、「やりだしたら、途中で逃げない」という丹羽氏の流儀はここでも貫かれている。

儲かっているはずが、原価を計算すると、赤字だった?

ところで話はずいぶん飛ぶが、丹羽氏が「旭鮨総本店」の社長に正式に就任したのは、2015年のことである。就任要請の話は、2年前くらいからあったそうだ。
老舗の鮨屋といえば、同族経営というイメージが強く、実際、「旭鮨総本店」も3代目までは、オーナー家が社長を務めていた。にもかかわらず、どうして、丹羽氏が4代目となったのだろう。
直截に疑問をぶつけると、「むろん、私が初めてです」と断りながら、話を進めてくれた。
「ひとつのきっかけ、といってもずいぶん以前の話ですが、私がまだ津田沼店の店長時代の話です。店長になって、その話をうちの親父にしたら、『で、儲かってんのか?』って問われたんです。売上はもちろんわかっていたんですが、儲かっているか、どうかでいえば回答できなかったんです」。
この時、初めて、「原価」という二文字を知ったという。では、うちの店の原価はどうなっているんだろう。
「そう思ってですね。経理の人に話を聞きにいくわけですが、原価はわからないって話でした。正確に言えば、棚卸をしていない、つまり原価計算をしていないってことだったんです。『それはまずいだろう』ということで、経理の人も含めて、4人で営業本部室を立ち上げました。そういう原価に対する観点がなかったし、いうならば経営も旧態依然のままだったので、それを打破するという意味で評価をいただいたんだと思います」。
原価を調べるために、1年間、鯛やマグロの歩留まりを計算し、魚介類の1年間の平均を取った。これが原価のベースとなる。やりだしたら、むろん、途中で逃げない。
「それで、計算してびっくりするんです。何と、私の津田沼店は、赤字だったんです(笑)。原価率が47%です。そりゃ、だめですね。しかも、人件費も、正直、ざるだった。これではだめだってことで、営業本部室を立ち上げ、経営の近代化を図りました」。

社長、就任と、その時の覚悟について。

「この話に象徴されるように、当時は何もしなくても、たとえば原価を知らなくてもいい、そんな時代だったんです。旨い鮨が握れれば、それが最高の職人という時代でもあったんですね。しかし、そういう時代がいつまでも続くとは限りません」。
丹羽氏は、経営の近代化を訴えた。しかし、それが、もとで、経営陣といざかいになったことも少なくないそうだ。それでも、「何もしなければ、どうにもならない時代」がやってきた。
「とくにリーマン・ショックのあとですね。どこのお店でもおなじだと思いますが、経営が苦しくなってきました。うちの場合は、金融機関からの借り入れも少なくない。その一方で、創業家のなかで社長をやると手を挙げてくれる人がいなかったんですね。それで、『丹羽さん、やってくれないか』という話になり、お受けしたんです。そして、昨年、正式に社長に就任しました」。
受ける代わりに、条件も出した。創業家が、経営には一切関与しないことである。
「そうしなければ、抜本的な改革もできないと判断したからです。代わりに、私は、負債の大部分も引き継いでいます」。相当な決意の表れである。
「やりだしたら、途中で逃げない」というか、もはや、逃げられない立場となった。
「追い込んだわけでも、火中の栗を拾うってわけでもなく、そういう立場で苦労してやろうと思っています。百貨店にテナントとして入っているケースが多いんで、大手の経営者の方ともお話しするんですが、みなさん苦労されている。だから、私の社長就任も、みなさん『良かったな』って言ってくださいました」。
それからすでに1年が経つ。改革は、道半ば。業績の回復も、途に就いたばかりだ。それでも、手ごたえを感じている。「来年の2月が、創業90周年なんです。そういう意味では、まだ私にもツキが残っていたなと思いました」。どういうことだろう。ホームページを観ると、答えは、一目瞭然である。
「そうなんです。ホームページでも、大々的にアピールしていますが、90周年を記念にして、『とろにぎり』一個、90円としたんです。これが、ご好評で、いまでは『いくら軍艦』も一個90円でサービスさせていただいています」。
それまで、右肩下がりだった店が、このキャンペーンで、次々に盛り返した。

託された優れた職人軍団の今から。

「もう少し早い段階で、打ち切りにするはずだったんです。マグロのトロが、仕入れられない状況だったからです。でも、業者さんが、協力してくださって、なんとか継続することができています。これを継続することで、いままで『旭鮨』を知らなかった人に知ってもらう。まずそこだと従業員のみんなには言っています」。
その一方で、新たな仕掛けも検討中とのこと。何より、優れた職人軍団である「旭鮨総本店」の職人技をどう活かすかが課題だという。
しかし、すでにその方法も浮かんでいるのではないか、と思う。創業より90年、丹羽氏を含め、何人もの職人たちが受け継いできた職人技である。活かしてもらわなければ、もったいない。

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高校卓球部時代 見習い卒業時 前代表と晩酌
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会社の人とゴルフ 子供と2人で ビジネスコンサルタントの組合にて
 

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