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第564回 株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問湯澤大地氏
update 16/11/01
株式会社千里
湯澤大地氏
株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏
生年月日 1967年10月24日
プロフィール 神奈川県に生まれる。高校1年から2年半、海外に渡る。帰国後、父が経営する会社に入り、中華料理店の店長として勤務。6年後、父が他界。資産とともに、莫大な負債を引き継ぎ、兄とともに再生に奔走。その一方で、NPO法人「全国てらこやネットワーク」の設立。現在、地域総掛かりの教育プロジェクトをめざすNPO法人「鎌倉てらこや」の特別理事も務めている。
主な業態 「チャイナダイニング 千馬」「中国料理 千里」「千里飯店」他
企業HP http://www.senri-dining.com/

父と少年。

母の出身が奥多摩だった。夏になると、その奥多摩に行き、アマゴ釣りなどに興じた。
父は、鎌倉市の大船で中華料理店を営んでいた。その父について、湯澤氏は「先見の明があった」と語っている。中華料理店を出店する一方で、回転寿司や吉野家とフランチャイズ契約を結んだ。
「まだまだフランチャイズが一般的ではなかった時。吉野家にしても、フランチャイズビジネスは、まだアーリーステージの頃でした」。
「事業欲がつよかった」とも言っている。「とにかく、投資ですね。バブルの頃には見事に踊った口でした(笑)」。最盛期に、店は60店舗まで拡大した。「100億円をめざす」。それが父の口癖だったそうである。
ところで、湯澤氏が生まれたのはバブルのはるか以前。出身は神奈川県である。兄と妹、弟の4人兄弟。仲のいい兄妹だった。むろん、裕福である。「外食も良く行っていたほうです。デニーズができた時も、早速親子で出かけました。父と接する時間は多くありませんでしたが、短い時間でも、いい思い出ができるように気を使ってくれていました。それがわかるから、やっぱりいい父ですね」。
そんな父親の教育方針は、自主・自立。
「つまり、放任ですね。兄が良くできたぶん、弟の私は、規格外でもいいかと思っていたんじゃないですか。中学時代に、ともだち5人と自転車をこいで、2泊3日の旅行に行ったりしましたが、特別、注意もされませんでした」。

自転車でかけた中学時代、アメリカに向かったのは、高校1年の時。

中学時代の話。
「私は、出会った1人のともだちにすっかり魅了されました。彼は、自転車競技をやっていて、私もいっしょにレースに出たりもしました。それで、自転車旅行にもでかけたりもしたんです」。
箱根まで往復100キロの日帰りも、決行した。中学生でなくても、かなりの距離である。ともだちと5台の自転車をならべ、走り抜いた。山中湖にも向かった。手製のテントをひろげ、樹海で泊まったこともあるそうだ。
「もし、彼と出会っていなかったら、絶対、そんな旅は、やっていませんよね。そういう意味でも彼は、私の人格形成のなかで、重要な役割を果たしてくれたと思っています」。
何にも縛られない自由な生きざま。それが、中学時代に、湯澤氏がみつけた人生のコアではなかったか、と思う。高校に進学して、さっそく、海外に向かったことも、顕著にそのコアの影響が表れている。
「そうなんです。高校に入ってすぐに、アメリカに向かいます」。
湯澤氏は、長男ではなかったので、父の料理店を継ぐ気はなかったそうだ。しかし、父のほうはどう考えていたんだろう。兄と弟を違ったように教育する。それは、いずれか1人でも、という計算があったからかもしれない。父親が渡米を勧めたのも、弟、湯澤氏に兄とは異なる期待を寄せていたからかもしれない。
「向かったのは、アメリカと南米です。とくに南米は、たのしかったですね。たぶん、自転車で、箱根や浜名湖まで出かけた中学生の時代に、冒険心も育まれていたんでしょう。向こうではバイトをしながら、糊口をしのいで、約2年半過ごしました」。
アメリカはもちろん南米は、湯澤氏の期待にたがわず、冒険に満ちていたはずだ。いったん、冒険を終え、帰国した湯澤氏は、父が経営する会社に入社した。
冒険は終わり、現実の日々が始まった。

バブル、崩壊。父が残した、資産と負債。

「帰国したのは、正確にいえば、バブルで経営がきびしくなって仕送りがなくなったからなんです(笑)。それで、仕方なく帰国し、父の店ではたらき始めます。今思えば、当時が最盛期で、店舗数は60店舗。父が、100億と言っていたのもこの頃です」。
出店が足かせになった。しかし、出店は止められなかった。キャッシュフローを生み出すためには、出店するしかなかったからだ。
「当時のメインは、和食居酒屋だったんですが、私は、中華料理店の店長からスタートしました。それから、6年後に父が突然、他界します。それからが、ある意味、私の苦闘の始まりです」。
父は何も言わなかったが、6年もいたわけだから、多少なりとも経営状況は理解できていた。だが、ふたを開ければ、想像以上に莫大な借金があって、倒産もできないほどだった。それを知って唖然とした。
「資産はありましたが、借金も、1億、2億ではききません。ただ、倒産もできない状況でしたので、兄にももどってきてもらって、なんとか再生しようともがきます。借金の額も、そうですが、それに負けずに店もなかもたいへんな状態だったんです(笑)」。
なんでも、「歯がない」「名前が書けない」、スタッフがいたそうだ。店に住んでいる者までいたというから驚きだ。
「そういう人たちも、父は、黙って受け入れていたんだと思います。そうしないと働き手がいない。今も人手不足ですが、バブルは、もっときびしい人材不足の時代でした」。
不正もはびこっていた。ほおっておくわけにはいかない。「従業員を全員あつめて、私たち兄弟が、父のあとを継ぐことを伝え、『不満があるなら、いますぐ辞めてくれ』と言いました。辞められたら、困るんですが、そういうしかありません」。
決意を示すことで、少なくとも心ある従業員は、残った。もっとも不正がとまらず退職させた例もある。包丁を突き付けられ、すごまれたこともあったそうだ。
「そういう時に、あの中学時代や、南米で過ごしたことが生きてきたんです。荒れた町や乱暴な人もいた。そういうところでフラフラしていたから、最後には『何とかなるさ』って思えちゃうんです」。
莫大な負債もまた、湯澤氏にとってはなんとかなる対象だったのかもしれない。そう思わなければ、押しつぶされていたはずだ。

人と人、心と心をつなぐ。飲食経営者が取り組む、もう一つの事業。

「今年まで兄といっしょにやってきたんですが、もうそろそろ大丈夫だろうと、兄と私で会社を分けました。ケンカをしたわけじゃありませんから、安心してください(笑)」。
二人三脚で、ともかく、しのいできた。不動産という父が残した資産を活用して得たテナント料も、返済と投資に充てた。それらが、とにかく一段落して、今がある。
「今うちが経営しているのは、12店舗です。中華料理店から、回転寿司まで。私自身は、料理人ではないんで、お客様の立場から指導するよう努めています」とのこと。むろん、赤字だった店も、見事、黒字となっている。だが、湯澤氏には、父のような無謀な事業意欲はない。むろん、時代も異なる。湯澤氏が「父のマネはしない」と言い張っても、おかしくない話である。
父を教師として学んだこともあるし、反面教師として学んだこともある。無謀な投資は、反面教師とした一例だろう。そう意味では、今なお、湯澤氏は父とともに歩んでいると言えるかもしれない。
ちなみに、今、湯澤氏は父が知らない事業を行っている。NPO法人「全国てらこやネットワーク」もその一つだ。「私財を投げ打って、生野学園高等学校という不登校児のための学校をつくられた森下一先生に出会ったのがきっかけでした。知人の紹介でお会いして、手を貸して欲しいと言われたのが、最初です」。
森下氏に急速に惹かれ、思いを共有した湯澤氏は、やがて、NPO法人「全国てらこやネットワーク」を設立する。驚くべことは、すでに13年ほど経つということだ。13年前といえば、湯澤氏自身が、父が残した莫大な借財に埋もれ、もがいている時だ。その時に、湯澤氏は、子どもたちに手を差し伸べている。
湯澤氏の地元には、「鎌倉てらこや」がある。「私たちのような大人だけではなく、大学生とも連携を取って行っています。子どもたちが逃げ込むことができる、そんな場所づくりも行っています。子ども食堂もはじめます」。
「鎌倉てらこや」に参加する学生が、湯澤氏の店でバイトするというケースもあるそうだ。世の中、実は一つにつながっている。人と人も、今も、未来も。湯澤氏の話を聞いていると、そんな気がしてきた。
飲食の事業もそうだし、「てらこや」も、そうだ。ただし、どこかに、そのコアとなって、人と人を、思いと思いを、今と未来を、つなぐ人がいる。湯澤氏は、その役割を立派に果たしている。
湯澤氏の心の豊かさとやさしさが垣間見られる。

思い出のアルバム
 

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