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第566回 株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏
update 16/11/15
株式会社ゼットン
鈴木伸典氏
株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏
生年月日 1971年
プロフィール 岐阜県で生まれる。愛知大学卒。大学卒業後、一時は司法書士をめざすが断念し、「ゼットン」に入社。入社以来、創業者の稲本 健一氏をサポート。「ゼットンを企業にする」という使命を掲げ、奮闘。2016年現在、稲本氏に代わり、社長に就任。カリスマ的な稲本氏とは異なり、人間臭い経営を行っていくという。
主な業態 「ALOHA TABLE」「gz」「チカニシキ」「猪口猪口」「金山ソウル」他
企業HP http://www.zetton.co.jp/

「たばこ」と父の鉄拳制裁。

鈴木氏は、1971年10月23日、岐阜県の現山県市に生まれる。
「山県市は繊維の町で、うちの家も祖母の代から縫製加工業を営んでいました。父は苦労人で、母と見合いで結婚し、婿養子として事業を継ぎます。私自身は、小さな頃から裕福な家庭だったものですから、苦労知らず、でした。勉強もできたし、小学校の頃から児童会長などの役職にも就いていました。周りのみんなが、持ち上げてくれていたんだと思います」。
中学でも成績は良く、みんなに慕われた。高校は、自由な校風に惹かれ「岐阜北高校」に進学する。
「父との思い出はいっぱいあるんですが、いま思い出すのは、高校1年の時のことです。たばこを吸っているのがばれて、目の玉が飛び出すくらい往復ピンタを食らいました。いま思えば、あれだけはったら、父の手も痛かったはずですよね」。
もともとは温厚なタイプな父親なのだという。
「でも、あの時は違った。父親は小さな頃から苦労しているから、社会のルールに従わないと烈火のごとく怒りだすんです」。
「嘘はつくな」「友だちは大事にしろ」。父親はそう言いつづけたそうだ。その躾が、いつしか鈴木氏の背骨となり、からだを貫くようになる。

DCブランドと鈴木氏。

「大学は愛知大学へ進みました。大学ではアルバイト三昧です(笑)」。高校時代から、洋服が好きだった鈴木氏は、当時、流行っていたDCブランドショップで勤務する。
「ファイブフォックスのコムサデモードです。大学1年の時から3店舗を掛け持ちしていました。というのも、アルバイトなんですが、売上が群を抜いていたんです。それが評価されて、社員が休みの時になると駆り出されるんです」。
「名古屋パルコでしょ。岐阜パルコと、栄ノバっていうDCブランドの商業ビルがあって、その3店をぐるぐる、ぐるぐる(笑)」。
服も好きだし、面白いように売れたから、仕事が楽しくないわけはなかった。そのうえ、会社からの評価も高い。しかし、人間関係にイヤケがさした。
「私が担当していたのはレディースだったんです。スタッフは大半が女性です。う〜ん、ちょっと…、いや正直に言えば、当時は、かなりドロドロしていました」。
それで退職し、今後は、喫茶店でアルバイトを開始する。喫茶店というと古めかしい響きだが、こちらも、コムサデモードに負けずおとらず時代の最先端だったようだ。「いまでいえばカフェのハシリですね。名古屋でも有名なお店でした。この店で勤務していたことで、稲本とも出会うんです」。

クラブ・ディスコで出会った1人の青年。

「ナンパのための基地としていたクラブ・ディスコがあって、その店のバーテンダーが稲本だったんです」。
当時、「プリンセス大通り」は、夜になるとナンパ通りと化していたそうだ。喫茶店で勤務していた鈴木氏は、友だちとともに、夜な夜な、このナンパ通りに出没する。その時、行動の起点となったのが、そのクラブ・ディスコだった。
「稲本は、当時、プロダクト・デザインの仕事していたんですが、夜になるとクラブに現れ、バーテンの仕事をしていたんです。その時、初めて彼と出会いました。彼は、名古屋造形短大出身。現在の専務も、同じ大学で、稲本とは先輩・後輩。当時、稲本が25歳で、現専務が23歳。私が21歳の時でした」。
20歳を超えたばかりのとんがった学生をみて、稲本氏はどう思ったのだろう。2人は、しばらくして、打ち解けるようになる。
「私は、父との約束で『出会った人を徹底的に大事にしろ』という言いつけを守っていましたから、稲本との出会いも絶対大事にしようと思っていました。とはいえ、こんなに長い付き合いになるとは思ってもいませんでしたが」。
出会いは、人を育てる。ただし、それは、いかに、出会いを大事にするかで決まるのかもしれない。

「うちにこないか」、稲本氏の一言。

「司法書士事務所の先生も、稲本も同じことをいうんですよ」と鈴木氏は笑う。
「私は大学を卒業してから司法書士になろうと思って、司法書士事務所でアルバイトをしていたんです。昼はそちらで、夜はバーテンダーです。ところが、司法書士事務所の先生に進路を相談したところ、『鈴木君は司法書士に向いていない』って太鼓判を押されたんです(笑)」。
同じことを稲本氏からも言われたそうだ。
司法書士向けの予備校にも行ったが、遊びほうけてばかりだったそうだ。
一方の稲本氏は、ゼットン1号店をオープン。2人の距離は、みるみる離れるかに思えたが、稲本氏も鈴木氏との出会いを大事にしようと思っていたのだろう。
「そうですね。私がふらふらしている間に、稲本はゼットン1号店を出店していて、そりゃ凄いいきおいでした。だんだん雲の上のような存在になっていく稲本からある日、いつまでもふらふらしているんだったら、『うちにこないか』って誘われたんです」。
「特別、気乗りがしたわけではないんです。ただ、司法書士は私自身も『どうもちがうかな』って思い始めていましたし、何より『稲本さんの下なら何か面白いことができそうだな』って思って、誘いに乗りました。もっとも、その時は、腰掛け程度の気持ちだったんです。いつかは、自分でことを起こす、その腕試しというか、前哨戦のようなつもりだったんです」。
ところが、そんな悠長な気分は、すぐに吹っ飛んだ。
「いままでのような付き合いというわけにはいきません。はじめて稲本の下に立って仕事をするんですが、これが、ハンパないんです。『できる、できないじゃなく、やれ』と一言。もう、めちゃくちゃスパルタなんです。彼自身がすごくストイックなもんだから、自他共にめちゃくちゃ厳しい。いろんなところで、情報を仕入れてきては、それを『やれ』って。『もう、やっとれるか』と思ったことも数え切れません(笑)。でも、そこが、稲本という人間の引力というか、凄さなんでしょうね。彼の言葉にビンビン引き寄せられる。だから、そんな状況にもかかわらず、だれも辞めようとしない。もちろん、ゼロではないですが、離職率もびっくりするくらい低かったはずです」。
稲本氏とゼットンが生み出す、クリエイティブな熱気が、客だけではなく、スタッフの心までわしずかみにした証だろう。「レストランビジネス」という言葉も、その熱気のなかから生まれていったに違いない。
いつしか鈴木氏も、腰掛け気分だったことを忘れてしまう。
この時、鈴木氏は、「ゼットン」のことを、店とも、ブランドとも言わず「哲学」といった。たしかに、稲本氏がプロデュースした「ゼットン」は、当時の若者の思想、ファッションを具現化した、一つの「哲学」だったように思う。

店長昇格、苦境の始まり。

「メディアにも、さんざん取り上げられました。それで、さらに火が付くんです。実は、1号店はスタートダッシュで苦労したんですが、いまじゃ冗談にしか聞こえないでしょ」。
稲本氏がメディアに取り上げられる回数もまた増えていく。
「当時まだ開発前の栄の南側。稲本は、そのエリアにあった30坪、6F建ての倉庫を借り、基幹店とするとともに、そこに本部を置きました。1〜4Fまでが店で、5・6Fが本部です。私はその店の店長となって、この大箱のオペレーションを引き継ぎました」。
在籍スタッフ50名。年間売上2億円。それが、引き継いだ時の状況だった。
「ところが、私が店長になって、とたんに業績が悪化するんです。外的な問題ではありません」。2割、落ちた。年間でいえば4000万円がぶっ飛ぶ計算となる。
「あの時は、階上が本部でしょ。稲本がいるわけですよ。何かあれば、すぐに電話が鳴る。そう、もちろんカミナリです(笑)」。
追い詰められた鈴木氏は、起死回生のため、捨て身の戦法にでる。「もう、カミナリばっかりでしょ。怒られても、どうしようもない。で、ある時、吹っ切れたんです。もう、『稲本のほうをみて仕事をするのは、やめよう』って。スタッフのほうを、またお客様のほうだけみようって」。
考え方を改めただけで、すべてが好転するわけではない。しかし、それが、何においても起点である。
「社長になったいまも、社員全員と個別に話をしようと行動しているんですが、それはこの時の、流用です。困り果てた私は、バイト全員と個別の面談を開始しました。好きなことを言っていいと言っていましたから、それはもう、辛辣な、耳が痛い、話ばかりです(笑)」。1人残らず思いを、聞き取った。「それだけではありませんが、私が現場に出て部下に任せるべきことまで、つい全部やってしまっていた、それがいけなかったんですね。手足は動かしていましたが、逆にマネジメントをしてこなかったんです」。
アルバイトにも、ある一定の権限を認めたのも、この時のことだ。
いまのゼットンの経営幹部たちも、実は、この頃、鈴木氏と苦労をともにしている。小さな声にも耳を傾け、大胆に権限を認める。
スタッフのモチベーションがアップすると、今度は、落ちていた業績がとたんに回復した。30坪×4Fで合計120坪とスケールは大きいが、まだ開発前のエリアである。そこで、なんと鈴木氏は、2000万円を超える月商を叩き出すに至っている。苦境もまた、考え方一つでバネにかわるという好例でもある。

託された社長のイス。

「もう20年来になる」と鈴木氏はいう。稲本氏との付き合いだ。「ゼットン」は、それからも好調な業績を維持し、東京にも進出。「ゼットン」が、レストランビジネスの象徴と評価をされる一方で、稲本氏も時の人となる。
鈴木氏は、そんな稲本氏をつねにサポートしてきた人物でもある。すでに稲本氏から社長の席を譲られはしたが、「いまでも、稲本と私が組めば最強のタッグ」といってはばからない。
実は鈴木氏には、いまも、忘れられない稲本氏の一言があるそうだ。「あれは、29歳の時です。独立というのが念頭にあって、ある面談で、稲本にその話をしたんです。すると彼は、『いや、それは違うよな。独立するくらいなら、俺からゼットンを乗っ取れば?』といったんです」。
その一言で、「目標が明確になった」と、鈴木氏は言う。
「それから僕はゼットンを辞めない宣言が始まりました。絶対、ゼットンを大きくして、ゼットンの社長になる、と決意したからです。東京、銀座に出店する時に、『オレを店長にしてください』と稲本に直訴したのも、『ゼットンを大きくする』という使命を、だれよりも強く、深く抱いていたからです」。
鈴木氏は、稲本氏と自身の違いをこう表現する。
「彼は、チームの先頭を走り俺についてこい、というタイプ。私は、どちらかといえば、チームの集団に入りスタッフを伴走するというタイプなんです」。
ゼットンはすでに株式も上場している。社長を退いた稲本氏は、ワールドワイドなビジネス展開に向け、海外を駆け回っているそうだ。日本の足元は、もちろん、鈴木氏が守っている。
ちなみに2016年9月、鈴木氏は、いま声をからしていることだろう。というのも、前述通り、全社員と面談を行っているからだ。その数なんと360人。1人30分計算だから、1日8時間で計算しても、1日16人としか話せない。
「11月くらいまでにはなんとか終わらせたいですね。それで、しっかりみんなの本音を聞いて、そして、稲本とは異なるやり方で、もう一度、組織を再構築する。すべては、このマラソン面談から始まると気合を入れて取り組んでいます」。
稲本氏というカリスマがつくった組織を どう引き継ぐか。鈴木氏のすべてが問われるのはいまからである。

思い出のアルバム
 

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