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第567回 株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏
update 16/11/22
株式会社石はら
石原誠二氏
株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏
生年月日 1966年2月1日
プロフィール 世田谷に生まれる。専門学校、中退。引っ越し会社と運送会社を経て、30歳から蕎麦屋で修業を開始する。3年後、独立。蕎麦「石はら」をオープンする。
主な業態 「蕎麦 石はら」
企業HP http://www.ishihara-soba.com/

石原家の話。

蕎麦屋といえば、古風な造りが頭に浮かぶが、蕎麦「石はら」は和モダンなイメージで、なかでも3店あるうちの1店舗でもある学芸大学店は、「蕎麦カフェ」といった趣だ。旨い蕎麦はもちろんだが、蕎麦前と言われる「だしまき玉子」や「蕎麦がき」などのつまみも、これまた旨い。
つまみで一杯やりながら、蕎麦で〆る。これが、江戸っ子の流儀なのだ。
さて、今回、ご登場いただくのは、その粋な蕎麦「石はら」の店主であり、株式会社石はらの代表でもある石原誠二氏である。
石原氏は1966年、東京都世田谷区で生まれる。
「兄が生まれ、1歳違いで、私が生まれました。お金がなかったから、2人も育てられないと、私は一時、捨てられる運命にあったそうです(笑)」。
むろん、そんな親の事情を知っていたわけではないが、「父親がオレをみる目が、兄を見る時とは違う」と思っていたそうだ。望まれなかったわけではないが、石原家に、それだけの余裕がなかった頃の話である。
「事実を知ったのは、ずいぶん大人になってからです。知ったからといって、何かがかわるわけもなかったですが、なんとなく、それまでのことが腑に落ちたのは事実です」。
親子で好きな球団がわかれていた。最初は、石原氏だけが巨人ファンで、父母兄は、阪神ファン。石原氏1人が違う球団を応援していることを知って、母は、石原氏とおなじ球団を熱心に声援するようになる。
1対3という構図は、母にとっても辛い構図だったのかもしれない。

高校進学で一波乱。

「兄も、私もそうですが、小学校の頃から番長みたいな存在でした。兄は、あることがきっかけで、中学から性格がかわるんですが、私はそのまま。野球もつづけ、中学時代には区の大会で準優勝しました。私はキャチャー5番です」。
遊んでもいたが、部活にもまじめに取り組んでいた。高校でもつづけるつもりだったが…。
「ぜんぶ、すべっちゃったんです(笑)。3校くらい受験したんですが、ことごとく(笑)。そうなると、中学浪人です。あの時は、ちょっとやばかったですね。でも、最終的には2次募集で、ある私立高校に合格します。それが、実は、たいへんな高校だったんです」。
入学したのは、2次募集の石原氏らをいれて350名。たばこの煙がもうもうとたち込め、授業にでてくる生徒も少なかった。「野球部もあるにはあったんです。でも、グラウンドが小さかったのと、戦績を聞いて辞めました。弱すぎなんです(笑)」。
学校の成績は、最初だけトップテン入りした。2次募集で進学しただけに、最初からその高校を狙っていた生徒たちとはさすがに差があった。
「最初の頃だけ」と笑うが、もともと石原氏は、頭の回転が早いほうだ。
「親父がばくちばっかりやっていたもんですが、子どもの頃からいろいろつき合わされて、そのおかげで計算はめっぽう早くなったんです。小学生の時は、クラスでいちばん頭がいいって子にも、算数だけは負けませんでしたから」。
しかし、むろん、勉強はしなければだめになる。卒業時には「真ん中くらい」になったのは、勉強をせずに済ましたからだろう。大学には、進む気もなかった。

居酒屋が専門学校だった。

「兄はいろいろ買ってもらっていたと思いますが、私はぜんぜんでした。だから、中学3年の頃からアルバイトをはじめ、そうですね、高校を卒業する時には7〜80種類のバイトを経験していました(笑)」。賭け事も経験する。なかでも麻雀は得意だった。
ところでバイトでもらったお金はどうしたんだろう。貯金とかしたんだろうか。
「それがぜんぜんです。もらったぶんだけ使っちゃいます」。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、子どもでもそうなのだろうか。
「私は結局、大学にはいかず、専門学校に進むんですが、こちらも、なかなか気が入りません。とくに居酒屋のバイトを始めてしまったもんですから、朝3時に帰宅という日がつづいて、正直にいえば、1年で学校にいったのは10回くらいで、結局、退学してしまいました」。
今思えば、居酒屋が専門学校だったのかもしれない。「この時、お客様から、『この仕事に向いているね、キミ』って言われるんです。あの一言がいまに生きていると思うんです」。

運送会社で勤務。給料は100万円にもなった。

蕎麦屋をやろうと思ったのはいつ頃だろう。ともかく、まだ先の先の話である。石原氏は専門学校を中退したのち、引っ越し会社に就職する。1年半後、会社の先輩から転職の話をもらい、いっしょに、ある運送会社に転職した。
「みんなやめとけって言ってたんですが(笑)」。
「給料はいいが、からだをこわす」と言われていたそうだ。むろん、長くつづく人は少ない。実際、石原氏を誘ってくれた先輩も1週間しかつづかなかった。
「私はそんなにみんながいうほどでもないな、と思っていました。最初の給料は50万円。1年後には100万円になっていました。合計9年ですね。その意味では、みんなの忠告を聞かずに正解でした。でも、いい給料はもらっていましたが、貯蓄はそうできなかった。性格は、まだ昔のままですね(笑)」。
運送会社を辞めた経緯は、会社そのものが少しずつ変貌したからだそうだ。会社の考えと石原氏自身の考えにずれが生じたらしい。その一方で、飲食に目覚めていく。
「実は、会社を辞める前から、蕎麦屋を開くための教室に通っていました。蕎麦屋というのが、私のなかで少しずつ大きくなって、ついには会社を辞めてチャレンジしてみようと思ったんです。もっともお金があるわけもなかったし、まずは修業だと思って八王子にあった蕎麦屋さんで勤務します」。
その時は、2者択一だったそうだ。
「都内にもこれはと思うお店があって迷っていたんです。考え方は八王子の店主のほうが、私と合ったんですが、なにしろ条件的には、都内の店のほうが断然良かったものですから」。
なんでも、結論日の朝に両者に電話をかけたそうだ。一方には店主がいて「いま、蕎麦を打っている」と言われ、もう一方には店主がおらず「11時まで来ないですよ」という返答だった。
「それで、『学ぶならやはりこちらだ』と八王子のお店で修業を開始したんです。私が30歳の時です」。

またたく間に客の心をとらえた、和モダンな蕎麦屋。「蕎麦カフェ」学芸大学店も好調。

学生時代のバイトで、お客様に言われた「向いているよ」の一言が、すべての始まりだったかもしれない。3年間の修業を終えた石原氏は、念願の独立に突き進む。といっても、独立資金があるわけもなかった。給料はけっして高くなかったし、掛け持ちでバイトをして、それでようやく生活ができていたくらいだったからである。
「銀行にいっても、相手にしてもらえません。ぜんぜんそういうのは疎かったからです。結局、母に資金を融通してもらいました。合計1000万円くらいになりました。お店にかかったお金は、全部で2000万です。銀行に1000万円借りました」。
修業から3年というから、石原氏が33歳の時だ。西暦でいえば、1999年である。店はすぐに軌道に乗った。蕎麦「石はら」は、たちまち有名店の仲間入りをする。
ところで、石原氏がどのようなお店をやりたかったかは、店をみればおおよそ見当がつく。「和モダンな造り」も、その一つだろうし、蕎麦に加え、一品料理を充実させたことにも、石原氏の考えが表れている。
そういう意味では、店主の考えは店をみればおおよそわかるということになるだろうか。ちなみに、グルメサイトで検索すると、いずれの店も高得点をたたき出していた。
〆の蕎麦を楽しみに、出かけてみるのもいい。

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