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第570回 株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏
update 16/12/13
株式会社アークス
米田周平氏
株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏
生年月日 1985年10月6日
プロフィール 神戸市で生まれ、父親の転勤にともない東京に移り住む。高校を1年で通信制の高校に転入学し、高校を行きながら就職し仕事を始める。25歳までに起業することを決め、そのために一生懸命に仕事をし沢山のことを学ぶ。独立したのは、24歳の時。リサイクル事業を皮切りに、営業代行、プロモーション事業などを経て、「100時間カレーB&R」を立ち上げ、飲食事業に乗り出す。
主な業態 「100時間カレーB&R」
企業HP http://arcs-co.jp/

高校生から社会に出る。

米田氏は、1985年10月6日、神戸市に生まれる。
生まれてすぐ、父親の転勤で東京都の江戸川区に移り住んだ。子どもの頃は、喧嘩もし、何でもいちばんでないと我慢できない性格だったので、努力し常に1番を取っていたそうだ。
兄弟は、3人。米田氏は次男坊である。
「自儘」という言葉がある。「周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をする」という意味だ。子どもの頃の米田氏はまさに、その言葉通りの行動を取っていた。
高校を辞めることになったのも、いうならば自儘な生活が原因だった。
「その頃からすでに独立心が旺盛だったものですから、高校に行くにしても時間がもったいないなと思っていたんです。しかし、父親に説得されて、渋々、進学するんですが、1年目で早速、留年が決定的となって。そうなると、1年をもう一回やるわけで、『そんな時間、オレにはない』と思ってしまうんです。まさに、身勝手なヤローですよね。それから、通信制の高校に鞍替えしたんですが。高校を退学する時、父親が学校に来て、『申し訳ありませんでした』って先生に頭を下げていたんです。それをみて…」。
それをみて、親父に頭を下げさせてしまったことを反省し、このままじゃダメだと思い「すべてがかわった」、と米田氏はいう。

理不尽な社会のなかでみつけた、目標。

「それから1年生が終わるまではまじめに出席しました。そうすると、通信の学校に行っても2年から編入できたからです」。
「せめて高卒の肩書は」と、父親に勧められたに違いない。もっとも通信制だから、仕事もできる。早く社会に出たいと思っていた米田氏にとっても最良の選択でもあった。
「最初に就職したのは、土建関係の会社です。まだ17歳ですから、父親の了承も必要でした」。
父親はなかなか「うん」と言わなかったそうだ。しかし、結局、息子の意思をたしかめて、「承諾してくれた」という。同時に、一通の手紙が渡された。息子と社会に対する父の思いが綴られていた。「あの時の手紙は、いまも大事に残しています」と米田氏はいう。
「現場作業ですから、肉体的にも相当きびしかったんですが、それ以上に、まあ、理不尽な会社だったんです」。
「人に使われるというのは、こういうことか」。それをいやになるほど味わった。
「結局、経営陣のやりかたにに反発して、退職します。その時に、私のなかでは大きな目標が生まれたんです。『経営者になる』という目標です」。

経営者をめざすには、まず営業は避けて通れない。

「営業を知らなければと思って、通信系の会社に就職しました。そちらで、約3年間、営業の仕事をしました。
その後は経営を学ぶためにベンチャー・リンクに入社しました」。
ベンチャー・リンクとは、もともとかかわりがあったそうだ。「一度、ベンチャー・リンク関連の店で、アルバイトをしていたんです。そのとき、いまでも尊敬する上司となる山田さんという方に出会って」。

「ベンチャー・リンク」の日々。

ベンチャー・リンクに入社した米田氏は、日々の仕事と、日々の勉強に追われた。「あの時はさすがに、もうちょっと勉強しといたほうがよかったって、思いました」。
米田氏は笑っていうが、当時は、切実な悩みでもあった。「だって、仕事だけで、もう、24時間なわけですよ。それに勉強でしょ。時間がない」。
「相当、きつかった」と米田氏がいうのも頷ける。しかし、そこまで米田氏を動かしたものはなんだったんだろう。「一言で言い表わすなら、『夢』です。しかし、ベンチャー・リンクという組織のなかで仕事をしていたからだとも思うんです。尊敬できる先輩ばかりでしたから」。
大卒の先輩らと違って、20歳で入社した米田氏は、年下である。可愛がってもらっていたのだろうし、逆に米田氏が先輩たちに刺激を与えていたのも間違いない事実だろう。
「当時は、そういう意味では恵まれた環境だったと思います。私もそうですが、当時の先輩たちの多くも独立して、起業されています。その事実が当時のことを何よりも雄弁に物語っていると思います」。
たしかに、ベンチャー・リンクの、事業以外の功績を一つ挙げるとすれば、米田氏らのような「経営者を輩出したこと」となるだろう。外食ビジネスのなかだけでも、ベンチャー・リンク卒業生の、社長は数多い。

起業。小さなマンションの一室からすべてが始まった。

「ベンチャー・リンクを辞めて、独立したのは23歳くらいの時ですね。最初は、自宅をオフィスにして、リサイクル事業をしていました」。
とにかく、起業とは決めてはいたが、何をするか迷っていた。「お金もなかったんです(笑)」と米田氏。「リサイクルを始めようと思ったのは、資金を回すのが比較的カンタンだったからです。お金もないのに、従業員も2名、採用しました。彼らは、毎朝、私の自宅兼オフィスのマンションに通勤してくるんです(笑)」。
ポスティングもしたし、テレアポもした。商品が少しずつ回転するようになると、資金も膨らんでいった。
「当時は自己投資などでお金を使っていたんで、独立する時は10万円くらいしかなかったんです」
「独りでしたから、なんとかなったんでしょうね。お金はなかったんですが、仕事に没頭していたのでなんとかやりくりできたんだと思います」。

自ら、何かを生み出したい。

事業は、軌道に乗っていた。
17歳の時から、何をやりたいか探してきた。肉体労働も、営業も経験し、コンサルも体験した。自ら起業し、仲間も得たが、まだ道半ばである。
「ただ、こういう風には思っていたんです。自分たちはまだ何も生み出せていないな」と。
17歳の時、「経営者になろう」と誓った、その背景には、「経営者になって、世界に貢献したい」という大きな野望が隠されていた。
そのためには、自ら何かを生み出さなければならなかった。
「そういうように考えていた時に、素谷と再会したんです。素谷とはベンチャー・リンク時代もいっしょで、いつか事業をしようと語り合っていました」。
再会したとき、すぐに一緒にやろう、と誘ったそうだ。「すぐに決断してアークスに合流してくれた時は本当に嬉しかったです。そこから外食産業にいこうと決め、カレー市場の可能性を知り、カレー業態を選びました」。

「100時間カレーB&R」、オープン。

やろうと思えば、すぐに行動する。カレーで行こうと決めて数日、もう店をみつけてきた。
2号店目から、現在の「100時間カレーB&R」となる。「インパクトが欲しいと思って」と米田氏。ベンチャー・リンクで経営を学んできただけに、店名ひとつも仕掛けの対象となる。
もっとも、いくら店名にインパクトがあっても、美味しくなければ、客は来ない。競合も多いカレーともなれば、尚更だろう。
「おかげさまで、TVでもご紹介いただきましたし、『神田カレーグランプリ2014』でグランプリ、『神田カレーグランプリ2015』でも準グランプリ、『神田カレーグランプリ2016』では見事に王座を奪還し、グランプリをいただきました。このほかにも、オープン以来、いろんなTVや雑誌でご紹介いただき、賞も獲得させていただきました」。
あの「カンブリア宮殿」でも取り上げられている。

国内100店舗と、海外進出。

1号店がオープンしてからまだ約3年程度だが、すでに10店舗。FC店の募集も開始している。
「早いといってくださる人もいますが、私にすればまだまだです。もっとスピーディに出店を重ねていけるパワーはあると思っていますから。ただし、出店するには、人がいなくてはどうしようもない。それがネックといえばネックですが、この問題も少しずつ解消に向かっています」。
「カレーで大手は少ない」と米田氏はいう。
「ココイチさんというガリバーは存在しますが、あとはないですよね。それにはいろんな要因があるんだと思いますが、うちは駆け上がりますよ。それだけのパワーがある。実はいま、海外の話も進んでいるんです。まず、フィリピンですね。ライセンス契約を結び、合弁で開始するつもりです。タイやベトナム、上海、台湾なども狙っています。ただし、いまはまだ国内です。来年には、九州に初出店します」。
未来を語る米田氏の口調は、自信に溢れている。その自信の背景には、米田氏の下に集まった仲間たちの存在がある気がした。
「信頼する仲間たちと共に」。
仲間を信じる米田氏の強いメッセージのようにも聴こえた。

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