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第571回 神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏
update 16/12/20
神楽坂くろす
黒須浩之氏
神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏
生年月日 1964年1月10日
プロフィール 新潟市に生まれる。父は寿司職人。武蔵野調理師学校卒。リーガロイヤルホテル、ハイアットリージェンシーを経て、2008年、ザ・リッツ・カールトンに和食統括料理長をして迎え入れられる。その年から3年連続、ミシュランから1つ星を獲得。2012年1月10、誕生日に「神楽坂くろす」を開店。現在に至る。
主な業態 「神楽坂くろす」
企業HP http://www.kagurazaka-x.com/

父は腕のいい寿司職人。

黒須氏は、1964年1月10日、新潟市に生まれる。3歳下の妹との2人兄妹。
「小学校の頃は好き放題です。勉強なんてしたことがない。両親も忙しかったから何も言いませんでした」。
黒須氏の父親はもと塗装工。塗装工から転職し、黒須氏が生まれた頃にはすでに寿司店を経営される腕のいい寿司職人だった。
「最初は、駅前にあるカウンター数席と小上がり一つの小さなお店でした。それから私が小学3年生の時に駅裏に店舗兼自宅を構え、店も大きくなりました」。
「中学は水泳部でした。受験の進路指導では、中学の先生から父親の家業を継ぐんだろとハナからサジを投げられた格好でした」。
小学校でも、中学でも、高校でも、好き放題。バイクにも早くから乗った。
「友だちのバイクに乗って、帰ってきたのを親父がみて、『人さまのモノを傷つけるわけにはいかない』とバイク屋に連れていかれました」。
バイク店に行って言われた一言は、「好きなものを選べ」だった。しかも、250CCのバイクを選ぶと、「どうせ買うなら400CCだ」と、結局、400CCのバイクを購入することになった。
豪快な父親である。
「あの頃はもうかっていたんでしょうね。支払いは、なんでもキャッシュです。サラブレッドを2頭持っていました」。
サラブレッドとは、豪気な道楽だ。地方競馬だが、優勝経験もあり、愛馬といっしょに映った写真は長く実家に飾られていたそうだ。

やんちゃで、素直な少年。

「馬主になったのはいいんですが、ああいうのになると、いろんな付き合いができるんですね。うちの店は、住宅街にあったもんですから、ご近所さんにも良く利用いただいていたんです。しかし、馬主になってから友好関係が広がると、いつの間にか店の前に黒塗りのベンツが止まるようになって、常連さんが来られなくなってしまったんです。その結果、一時期、出前専門店に衣替えし、馬も、泣く泣く売ったそうです(笑)」。
ところで、父親の豪快さは、黒須氏も引き継いでいる。バイクは、通学用の50CC1台と、400CCが2台。「車は、35台乗り換えた」という黒須氏だが、その片鱗は高校時代にもうかがえる。
「高校の時は、単位がぜんぜん足りなくて。それでも、部活に入るなら『単位を保証してくれる』というので、相撲を始めました」。
相撲と聞いて、思わず唸った。格闘技のなかでも、かなり高度な部類に入る。そう簡単に巧くなるわけもない。
「まぁ、そこは、気合いです(笑)」。
黒須氏の話からは、バイクを乗り回すやんちゃな高校生をイメージしがちだが、「単位をくれるから」と、相撲部入りするなど、素直さも伺える。
ところで、黒須氏と料理、その源流はどこにあるんだろう。
「もともと親父が寿司職人だったことも大きいと思いますし、春・夏・冬と、旅行に行っては、旅館やホテルでいちばんの料理を食べさせてくれていたのも、今思えば、私の、料理の源流のような気がします。毎週、月曜日が定休日だったんですが、その日も、いつも外食でした」。
「父親から料理について教わったことはない」と黒須氏はいうが、案外、英才教育をされていたのかもしれない。
そういう意味では父親は早くから、黒須氏を料理人に仕立てようと思っていたのかもしれない。実際、黒須氏は、いくつかの大学から推薦をもらっていたそうだが、父親に反対され、結局、父親が勧める調理師学校に進んでいる。
「大学の金はださない。調理師学校ならだす、といわれて、それで初めて上京し、武蔵野調理師学校に進学したんです」。
この学校でも伝説を残している。「まだ2ヵ月くらいですか。父と母と一緒に学長さんから呼び出され、『いま辞めてくれたら、異例だが、入学金はもちろん、いままでかかったお金をぜんぶ返す』と言われました(笑)」。
なぜ、そうなったんだろう。
「まぁ、私自身は、高校時代とかわらないことをしていたんですが、みんな親元から離れているでしょ。心細いこともあって、リアクションがオーバーになっちゃったんじゃないですか」。
手を付けられない生徒。
だが、「授業は真面目に受けた」とこれは本人談である。
辞めろと言われたが、なんとか残って卒業した。「退学しても、何もすることがなかったから」というのが、本音らしい。

ホテルというステージ。

卒業後、黒須氏は、料亭などを渡り歩いた。本人がいうように、料理に対しては真面目だったのだろう。そんな黒須氏に、伺った。料理人にとって大事なことはなんですか? と。 
「センスですね。それと、そう大事なのは、勘。勘がない子はだめ。勘がないと、料理を模倣することもできないんです」。
レシピだけではないのだろう。奥深い料理の世界は、「調味料や食材のグラム数だけでは語れない」ことを示しているのかもしれない。
そういう意味で言えば、黒須氏には、大事な勘があった。むろん、意欲も高かった。この意欲と勘を開花させたのは、「ホテル」というステージに立った時だった。
「私がホテルに入ったのは、先輩に影響されてです。憧れていた先輩が、ホテル勤務をはじめたものですから、『ならオレも』と」。
「最初は、リーガロイヤルホテルで勤務し、広島など、新たなホテルの立ち上げに参加しました。1996年ですから32歳の頃にハイアットリ−ジェンシー東京(旧株式会社ホテル小田急)に転職。それから10年、ハイアットリ−ジェンシーで勤務します」。
ホームページに店主の経歴が書かれていたので、転載させていただく。
<1996年、式会社ホテル小田急(現ハイアットリ−ジェンシー東京)入社。すし割烹「京(みやこ)」、日本料理「賀茂川(現・佳香)」、2005年、和食料理長として「佳香」「omborato(おんぼらあと)」料理長を歴任。レミーマルタン「世界のシェフ」に選ばれる。>
実際のホームページにはつづきがあるのだが、いったん、ここで、話をインタビューに戻す。
「10年勤務していると、正直、慣れというか、緊張感がなくなるというか、そういうのを少し感じていた頃です。突然、『ザ・リッツ・カールトン』から電話がかかってきました」。
むろん、誘いのお電話である。
「興味本位で出向きました。ところが、面談が始まるとトントン拍子に話が進んで、GMとも面談し、『合格』だと言われました。え? って、料理を食べなくていいんですか? って、聞いたんですが、『もうそれは終わっています』と。わざわざ店に食べに来てくださっていたんでしょうね」。
後で聞いた話では、その頃、人事部長の机には、応募書類が束になっていたという。200通にも達する勢いだったそうだ。それでも、「ザ・リッツ・カールトン」は黒須氏を選択した。この選択は、すぐに間違いなかったと証明される。

星の威力。

「外資のホテルで出世しようと思えば、英語でケンカができるようにならないといけない」。どういう意味なのだろう。「つまり、料理人の意見をちゃんと伝えないといけないということです。実をいうと私も、入社してすぐに、『こりゃ、我慢できて半年かな』って思うようになっていたんです」。
外国人の経営層と意思疎通がはかれない。「私は、和食統括料理長という立場でしたので、最高のスタッフたちをチョイスしました。そういうのはよかったんですが、だんだん口出しされるようになってきたんです。それで、イヤになって」。
ストレスで、体重も増えた。意欲も萎える。しかし、料理にはまっすぐに向かった。しかし、「我慢できて半年」は、うそ偽りのない思いだった。
ところが、ちょうどミシュランが発行される年だった。これが、黒須氏と「ザ・リッツ・カールトン」を救うことになる。
「ザ・リッツ・カールトン東京がオープンして、私が和食統括料理長になったのが2008年です。このとき、日本で初めてミシュランが発行されました。そして、私が指揮する『ザ・リッツ・カールトン』は1つ星を獲得しました。1つ星を取ったこともうれしかったのですが、それで、経営層も何も言わなくなったのがうれしかったです(笑)」。
星の威力である。
2008年から3年連続、「ザ・リッツ・カールトン」は星を獲得する、間違いなく、黒須氏の手腕によるものだ。
ホームページのつづきはこうなっている。
<2007年よりザ・リッツ・カールトン東京の日本料理「ひのきざか」をはじめとした和食統括料理長。2008年から2010年の間、3年連続ミシュランガイド東京で一つ星に導く。伝統的な調理方法に現代的で繊細な盛りつけを融合させた正統派の日本料理を大切にしており、日本料理の味わいを構成する上で重要な要素である陶器や磁器にも自らが生産地に出向き厳選する。2012年1月 「神楽坂くろす」を開店。>
そう黒須氏は、2012年1月、「神楽坂くろす」を開店している。
「もともと50歳までにはと思っていたんです」。しかし、世界有数のホテルの、和食統括料理長という座を捨てるのにためらいはなかったんだろうか。
「もちろん、後ろ髪をひかれたのは事実です。でも、それ以上に勝負してみたかったんです。しかし、いざ退職し、資金集めをすると、急に現実を知ったというか、50万円のお金を借りるのもたいへんでした(笑)」。
それはそうだろう。ホテルでは、黒須氏くらいになれば1000万円も簡単に動かせていたはずだ。しかし、そうはいかない。
「ここで店を開けたのは、ラッキーでした。神楽坂もいいな、とは思っていたんですが、どこの不動産会社に言っても相手にされませんでした。神楽坂の物件というのは、表にもでてこないそうなんです。だから、ほんと、たまたま、偶然、お借りすることができました」。
古民家である。店内はカウンター含め、ぜんぶで15席となる。大きな店ではけっしてない。「私一人で、と思っていましたので、これくらいがちょうどいいんです。でも、いまは、女将と、料理人が、3人います」。
たまたま、借りることができた古民家が、いま接待にも利用され、息を吹き返している。ミシュランにつけられた1つの星。その星は、黒須氏の思いをエネルギーにして、いまも、燦然とかがやいている。

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