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第572回 株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏
update 16/12/27
株式会社太昌園
長岡信裕氏
株式会社太昌園 代表取締役 長岡信裕氏
生年月日 1962年9月15日
プロフィール 東京、上野に生まれる。明大中野高校から明治大学に進み、日本マクドナルドに就職する。家業である「太昌園」に入社したのは、その2年後。BSEなど様々な問題に直面しつつも、そのたびにピンチをチャンスに変え、組織の強化を図りつづける。2004年、42歳の時に2代目の社長に就任。老舗焼肉店の舵を取る。
主な業態 「太昌園」「立飲みカドクラ」「イルカドッチョ」
企業HP http://taishoen.co.jp/

1歳の時、父・正宗が焼肉レストラン「太昌園」オープン。

長岡氏は、昭和37年9月15日、生まれ。東京の上野出身である。小学校の頃は、不忍池でザリガニを取って遊んだりしていたそうだ。兄弟は4名。長岡氏は、長男。長男の長岡氏が、1歳の時、焼肉レストラン「太昌園」がオープンする。
「父が創業者です。オープンしたのは、私が1歳の昭和38年です。まだ、飲食店が少ない時代ですから、ディナー以降で3回転も、4回転もしていたそうです」。
母も父といっしょに店を手伝っていた。長男の長岡氏には、弟、妹たちの世話も託されていたに違いない。「お手伝いさんがきてくれたこともありましたね」と長岡氏。
ともあれ、お店は、毎日順調に推移していた。
「家族みんなで外食する事もよくありました。もっとも私ら子どもたちにも大事なミッションがあって。食べ終わると、『どんな味だった?』と聞かれるわけです。つまり、子どもらを連れていくのは、私たち子どもの意見を聞きたかったからなんです。それがわかっているから、私も、ああだこうだ、と評論していた気がします」。
小学校では、野球をやり、中学ではブラバン。高校ではバンドを組んで、ドラムを叩いた。校則が厳しく、髪も思ったように伸ばせなかったが、それでも、充分に楽しかった。

もっともたのしかった、学生時代。

「そうですね。今振り返って、いちばん楽しかったのは、大学生の時ですね」。長岡氏は、高校から明大中野に進み、明治大学に進学している。
「高校時代は、バンドをやっていたわけですが、海が好きだったものですから、大学では海洋スポーツを考えていました」。サーフィンとかいろいろあるなかで、チョイスしたのはスキューバダイビングだった。
「当時、明治大学にはスキューバダイビングクラブというのがあって、私もそちらに所属しました。練習は、プールで行いますが、海洋トレーニングは、伊豆がホームグラウンドでした。長期の休みには、沖縄などへ遠征です。といっても貧乏学生ですから、向こうに行って、水中ガイドやライセンス講習のアルバイトをしながら潜っていました」。「1年中、真っ黒だった」、という。大学4年時には、インストラクターの資格も取得する。「このまま海の仕事に就こうか」とふと頭を過ったこともあるそうだ。

マクドナルド、入社。

大学を卒業後、長岡氏は、「日本マクドナルド」に入社する。
「一度は、海の仕事とも思ったんですが、やっぱり、何不自由なく育ててもらっておいてそれはないだろう、と。長男でしたし。そういうこともあって、飲食のノウハウを勉強するために、当時、飲食でナンバーワンだった日本マクドナルドに就職したんです」。
当時は、日本マクドナルドの社史のなかでも、絶頂期と言われる時代である。新卒採用は400名にのぼった。むろん、長岡氏もそのうちの1人である。
「配属は、自宅から近くの店でした。当時は、そういう決まりがあったんです。それから2年、日本マクドナルドにお世話になります。幸い、成績も良かったし、勉強にも無論なりましたから、私としては、もう少しいたかったんですが、2年くらい経った時に、父から内部事情が色々あり、『戻ってくるように』と言われたんです」。

跡継ぎのボンボンを、待っていたもの。

「私が、入社した時は24〜26店舗でした。焼肉だけではなく、パブや居酒屋、カラオケなど幅広くやっていました。業績は、まだ悪くありません。何しろ、1986年バブルの時期ですからね。父親の先見の明もあった。しかし、組織が大きくなっていくなかで、不安もあったんでしょうね。幹部社員の独立もありました。だから、戻ってこいとなったんだと思います」。
父親は別として、社員たちには歓迎されていなかったようだ。「ジュニア」と陰口も叩かれた。「何が、明治。何が、マクドナルドだ」。長岡氏の耳にも、そういう声が届いた。
「そうですね。歓迎ムードは一切なかったですね。特に若手幹部連中には」と長岡氏は苦笑する。古参の幹部は、小さな頃、けなげに店を手伝う長岡氏のことを知っていたから、話も違ったが、数は少ない。
「知らない息子が、突然、現れたわけですから、拒否反応はある程度、織り込み済みです。しかし、精神的には、きつかったですね」。
しばらくの間、長岡氏には、冷ややかな目が注がれ続けた。ところが、あることがきっかけで、状況がいっぺんする。正確にいえば、批判の急先鋒だった若手幹部たちも、長岡氏のチカラを知り、黙らざるを得なくなった。古参の幹部たちは、「さすが、社長の息子」と、ひそかに手を叩いて喜んだはずだ。

最初の勲章。

「当時、オールディーズのライブハウスが流行りかけていたんです。それを見た父は、うちの店にも、その分野に詳しい人間がいたもんですから、彼を中心に、オールディーズライブハウスを始めたんです」。
期待されて、オープンしたものの、まったくふるわず、約2年間赤字続きだった。
「焼肉は、当時絶好調です。だから、多少、赤字でも問題なかったんでしょうね。しかし、赤字は、赤字。放っておくことはできないし、何より、事業を任された幹部連中たちの、やる気のなさに腹が立ち、オレに担当させて欲しいと父親に直訴するんです」。
勝算があったわけではなかった。計算するより先に、感情で突っ走ってしまった。「マクナルドで経験したこと、学んだことのすべてを総動員です(笑)。私自身のネットワークもフル活用します。そうして、私が担当するようになって3ヵ月目、黒字に転換しました」。
これには、誰もが驚いた。批判的な幹部連中の態度がいっぺんしたのは、この時である。「ジュニアは、さすがにやるな」。
正式に長岡氏が、スタッフや幹部たちに迎え入れられたのは、この時だったかもしれない。長岡氏、最初の勲章でもあった。

BSE問題。最大のピンチが訪れる。

その後、東京青年会議所で副理事長や専務理事を務めるなど、長岡氏は社内外で活躍するようになる。
「太昌園」のポリシーを一言でいえば、「いい肉を、リーズナブルな価格で」となる。長岡氏は、小さい時から、そう叩き込まれてきた。「当時はカラオケなど、いろんな事業を行っていましたが、どんな事業にせよ、『誠実』『奉仕』という理念がもとになっています」。
旨いだけでは、だめ。価格そうだし、量も多くしなければ、だめ。創業以来、紆余曲折はたしかにあったが、この理念がある限り、安泰だった。
しかし、それだけでは乗り越えられない問題が持ち上がる。長岡氏がもっとも頭を抱えた問題でもあった。
「今でもはっきり覚えています。2001年の9月1日です。国内で、初の狂牛病が出た、とニュースで伝えられたんです。海外から狂牛病のニュースは届いていましたが、しょせん対岸の火事だと思っていたもんですから」。
衝撃だった。しかし、その破壊力を知るのは、もう少し経ってからだった。「9.11のNY同時多発テロが起こり、TVは、そちらのニュースで一色になるんですね。しかし、10月に入るとTV局は思い出したように、BSE問題をクローズアップして取り上げだしました。よたよたと倒れる牛の映像が日に何度、流れたことか」。
とたんに、売上が半分になった。「半分で済んだらまし」という考えもできるが、「太昌園」は、大箱である。半分の売上は、相当な「額」となる。「うちの店は焼肉だけじゃなかったから、それにも、正直、救われました。しかし、焼肉はうちの本業です。一番きつかったのはあの時です」。
旨い肉を、リーズナブルな価格で提供してきた。「安全」にもむろん配慮してきた。しかし、配慮できる範疇を超えていた。「うちだけでは、どうしようもない問題です。それでも、半年くらいで8割まで戻り、ひと息つくことができました」。
半年という比較的短い期間で客足がある程度まで回復したのは、長年の信用のおかげだろう。長年、貫いてきた「誠実」な「奉仕」の理念が、ピンチの時に、客の行動となって現れた格好である。

100年企業へ。

長岡氏が、社長に就任するのは、2004年。長岡氏、42歳の時である。すでにBSE問題は、下火となったが、食の安全は、ますます声高に叫ばれた。さらにリーマンショックや、震災、また放射能の汚染問題、ユッケ食中毒問題など、様々な問題が持ち上がるたびに、苦戦を強いられたのも事実である。
「父親は最初、及び腰でしたが、私は、事業を果敢に縮小していきました」。
店をたたむというのは、そう簡単ではない。従業員を辞めさせることにもつながるから、尚更である。「父親としては、撤退したくありません。でも、それでは会社が倒れてしまう。そう思って、私が決断し、つらい役目も買って出ました」。テナントとして、入居している店は撤退し、自社所有の物件だけを残すと、6店舗となった。
ただし、これは事業の縮小ばかりを意味するわけではない。「筋肉質な組織にすることができた」と長岡氏はいう。さて、インタビューさせていただいたのは、2016年の夏。社長に就任して、早くも12年が経った。
「けっして、守りだけじゃない。守りだけでは、守り切れないと思っていますから」。いまやBSE問題の時がうそのように、肉ブームである。斬新なサービスで、客を惹きつける店も現れた。「一頭買い」や「熟成」「赤身肉」という仕入れや、嗜好もいままでとは異なってきた。
「昔は、ロースって言えば、どの部位でもロースだったんですが、今では、ミスジや、カイノミ、イチボやヒウチというようにより細分化されていますよね。そういうことにも、ちゃんと目を向け、私たち自身も、変わっていかなければならないと思っています」。
すべては、100年企業となるため、である。「父から受け継いだ事業をさらに次の時代へとバトンタッチする。それが、私のミッションだと思っています。守るべき伝統と時代の変化に合わせた革新のコラボレーションを常に連続させていく事が100年企業に繋がるものと思います」。
昭和38年の創業だから、100周年はまだまだ先である。しかし、その遠い先まで長岡氏は、見越しているに違いない。
長岡氏は同業他社がひしめきあう中、生き残っていく為には、何よりもスタッフが楽しくやりがいのある会社にしなくてはならないと考えている。その為に、社長自ら参加する漁業体験研修や海外視察研修等を含め、様々な取組みを行い、スタッフとのより良いコミュニケーションを取る努力をしている。100年経っても変わらないもの。それは、「誠実」「奉仕」の二文字だ。

思い出のアルバム
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前代表(父)との2ショット 大学生時代、雑誌CanCanに! 健康管理の為、
トライアスロンにチャレンジ!!
 

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