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第573回 株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏
update 17/01/11
株式会社ダイニングファクトリー
人見洋二郎氏
株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏
生年月日 1977年2月18日
プロフィール 中学生時代から様々なアルバイトを経験。23歳、一流の会社を知るべく上場企業に入社。27歳で課長になるなど頭角を現すものの、「日本一の会社」の会社をつくるために、飲食での起業を決意。数年間、二足の草鞋を履いていたが、31歳の時についに会社を辞め、本格的に飲食事業に専念する。2016年9月、現在、まだ設立より10年も経っていないが、すでに100店舗を達成している。しかし、まだまだゴールは遠い。
主な業態 「鳥放題」「九州男児」「焼肉MONSTER」「東北魂」「鍋奉行」他
企業HP http://www.kkry.co.jp/

未来への助走期間

今回、ご登場いただいたのは株式会社ダイニングファクトリーの代表取締役社長、人見洋二郎氏である。人見氏が生まれたのは1977年2月18日。父親はいるが、めったに現れない。直接、会った回数もそう多くはなかったらしい。「初めてあった時に『おまえが、洋二郎氏か』って言われたのを覚えている」と笑う。「父親は、水戸で有名な建築会社の社長で、市議会議員もしていたそうです」。
だから、人見家は、いつも母と、2つ離れた兄と人見氏の3人だった。「兄貴とは昔から仲がいいほうです。もっとも性格は反対で、兄は大人しいんですが、私のほうは中学からグレてしまって」。
中学生の時からバイトにも精をだした。だから、学校に通う時間がない。教師が「この日だけでは」という日だけ、仕方なく教室に向かったそうだ。
ところで、どんなバイトをしていたんだろう。
「だいたいは土方ですね。ガソリンスタンドでもはたらきました。高校に行くつもりはさらさらなかったですね。でも、就職もせずに中学を卒業してもバイトばかりしていました」。
バイト先ではリーダーシップを発揮しこの時期から仕事に対する資質がうかがえる。勉強よりも仕事、しかし暗中模索の日々が18歳まで続く.....

99の案を消去して、残った一つの目標。

「18歳から宇都宮で暮らします。そうですね。当時は『10代は、死ぬほど遊んで、20代は、死ぬほど真面目に仕事をしよう』というのが、ポリシーみたいなもんでした。最初に遊ぶほうですからね。20代になっても、いろいろツケが残りました(笑)」。
ホームページをみると、1992年3月に茨城県水戸市立笠原中学校卒業とあり、1992年4月からアルバイト生活がスタート。1996年4月に、株式会社KKレジャーオフィスという会社に入社している。20代、一歩手前の19歳の時だ。「キャバクラです。こちらで4年、仕事をしました」。
ハードワークなうえ、ルールも厳格だったそうである。音を上げることはなかったが、からだも、心も休まる時はなかった。しかし、この4年間は、萌芽の時期でもあった。
「この頃です。ともだち4人で、いつも『面白いことをやろうぜ』って言ってたんです。いうだけじゃなく、100個、面白いことを紙に書いて、それを消していくと、『一流の会社をつくる』っていうのが残ったんです。いちばん難しそうだけれど、いちばん面白そうだ、っていうことで」。
「一流の会社」。その定義はなんだろう。23歳、その答えを知りたくて、人見氏は、ある上場会社に就職する。

中卒、大卒と机をならべ、善戦する。

就職したのは、2000年の7月。「意欲はあったと思いますが、中卒でしょ。上場企業に相手にしてもらえるはずがありません。でも、30社受けて、1社だけOKをくれたんです。それが、現在は、飯田グループHDとなっている、飯田産業という会社でした」。
周りは大卒ばかりである。「そうですね。もう23歳なんで年齢はかわらないんですが(笑)」。社会人としては、先輩だとしても、それで尊敬されることはない。しかし、大卒たちとは、仕事に対する覚悟が違っていたのは、事実である。
「そうですね。私にとってはハードでもなんでもなかったんですが、周りの人は、たいへんだ、とぼやいていました」。たしかに、簡単でもなければ、楽ちんな仕事でもなかったはずだ。
しかし、そこはやはり、経験と覚悟の違いなのだろう。人見氏は、1年目から早くも頭角を現す。1年目の年収は、同期のなかでもトップクラスで、500万円だったそうである。
同期のなかには、「学歴は、モノを言わない」と悟った人も少なからずいたことだろう。中卒と大卒。その違いは、肩書ではなく、それまで何をして、何を考えきたか、実際、それに尽きる気がする。その後も人見氏は、業績を残しつづけ、同期より早く出世もする。27歳で、課長職に就いた。

二足の草鞋。

「もともと、一流企業をつくろうと思っていたでしょ。その頃には少し考えがかわっていて、『日本でいちばんの会社をつくろう』だったんです。でも、いまから不動産会社で、日本でいちばんというのは、無理。それくらいは私でもわかっていました(笑)」。
その一言を聞いて、昔の志を忘れていないことに驚かされた。もう、27歳。ともだちと目標を定めてから何年も経っていたからだ。しかし、人見氏は、かわらない。さらに強い志で「日本一」を具体的なイメージに落とし込んでいく作業を開始した。その作業の向こうにあったのが、「飲食」である。
むろん、飲食業界にも錚々たる企業がある。しかし、いったん狙いを定めた人見氏に迷いはなかった。
「資金は1000万円。それで、スタートできるというのも飲食をターゲットにした理由です。昔、語り合ったともだちのうちの1人といっしょに飲食店を開業します」。
その店が「SUI」1号店である。家賃は25万円。居抜きということもあって、初期投資は500万円で済んだ。「最初は、飲食の経営なんてぜんぜんわからないわけです。料理もできないから、白状すると最初は、冷凍食品ばかり(笑)。でも、そのぶん、安くして」。
ところで、飯田産業のほうはどうなったんだろう。「今だから言えますが、なかなか辞めるといいづらくて。それで、ずるずると」。
仕事が終わってから、店に向かった。
「たまたま採用できた店長がいまして、彼にぜんぶ任せていました。その彼も給料は、15万円くらい。私と、いっしょに始めたもう1人は、給料『0』円です。売上は150万円くらいで、利益もいちおう30万円くらいは残りました。そりゃそうですね。だれもちゃんと給料を取らないんだから。その彼ですか? ハイ、今もうちで頑張ってくれています。給料は、当時と違って段違いですが(笑)」。
つまり、二足の草鞋を履いていたことになる。

目標は売上、日本一。ちょっとやそっとで、満足できるわけがない。

二足の草鞋は、案外長く続いた。改めて、年表をたどると、2004年12月「創作ダイニングSUI 開店」、2006年9月、株式会社心屋設立、代表取締役社長就任。2008年3月、株式会社飯田産業退社。つまり、二足の草鞋は、ほぼ3年半に及ぶ。その間、100万円あったボーナスはぜんぶ、ぶち込んだ。
「借り入れしたのは、4店舗目からです。それまでは、とにかく自己資金で展開していました。赤字とは言いませんが、ギリギリでした」。
めざすのはもちろん、飲食、日本一である。ひるんでいるわけにはいかない。店名も、刷新した。SUIは、豚肉料理専門店「ぶたごや」に、2店舗目は、ダイニングバー「リトルガーデン」に、ただし、3号店も含め、採算はとんとん。しかし、借り入れまでして出店した4号店目が、化けた。
「いままでは駅の西口だったんですが、4号店目は東口に出店しました。それも幸いしたと思うんです。月に100万円の利益がでました」。3ヵ月後には、5号店となる「九州男児」を出店する。今度は、利益が2倍の200万円になった。むろん、それでも「日本一」は、まだまだ先の話である。普通なら、満足というレベルである。
「そうですね。利益だけを考えれば満足できるレベルだったし、ほかにも様々なやり方もあったと思うんです。でも、あくまで飲食で、売上日本一。それだけを目標にしていましたから、当然、満足とはいきません」。

栃木で3位。まだ旅の途中。

20代、前半。何もすることがなく、何をしていいかわからない連中で、考えた一つの目標。「一流の会社」が、「日本一の会社」となり、それが人見氏の、ライフワークとなる。それだけ大きな目標を抱えているにも関わらず、人見氏の話ぶりは、飄々としていて、そのギャップが面白い。とてつもないことを成す人とは、案外、こういうタイプなのかもしれない。
このインタビューをお願いしたのは、2016年の9月である。ブランド数はすでに14に及び、店舗数は100店にも達しているという。前職を退職したのが、2008年のことだから、本格的に事業を行ってからまだ10年にも達していない。それで、これである。よく言われる3店舗のカベも、30店舗のカベも、楽々、突破した。
「栃木だけでいえば、いまで3位です。でも、栃木ですから」と人見氏は、笑う。むろん、これでいい、という笑いではない。目標は、「日本一」。まだまだギアをあげるつもりである。

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