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第576回 株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏
update 17/01/31
株式会社ネオ・エモーション
桑田朋之氏
株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏
生年月日 1963年2月23日
プロフィール 東京都葛飾区生まれ。大学時代、飲食に興味を持ち、「ホテルニューオータニ」に就職。そののち、辻調理師専門学校など様々な会社を渡り歩く。やがてコンサルティングなども行い、地位を固めるが、「ホテルの総支配人になる」という宿題を思い出し、再度ホテルマンに。転々とした人生は、つねに高みをめざす旅そのものである。
主な業態 「十代目 彌左エ門」「まぐろ問屋」「まぐろ問屋 三浦三崎港」「まぐろ問屋 やざえもん」「三浦三崎港 めぐみ水産」他
企業HP http://www.neo-emotion.jp/

「ホテルニューオータニ」に入社するまで。

「会社を立て直してくれ」の一言で、ネオ・エモーションと桑田氏の付き合いは始まる。「お世話になっていた現石橋会長の言葉ですから無碍にはできません。まずは取締役任期でという約束で、現在1年経ったところです」。
桑田氏が1年といったのは、2016年4月のことである。
桑田氏は1963年東京都葛飾区に生まれる。3人兄弟の長男。
「父は高校の教師で、予備校でも国語を教えていました。母は保育士。どちらも教育関係です。だからでしょう。教育にはかなり熱心でした。私も小学3年生から塾通いです。当時、塾に通っているような子はそういませんでした」。
「私が中学2年の時、妹の受験の関係で北千住に引越しました。それまで暮らしていたのは清瀬市です。当時は、すごい田舎でした。登校途中に鶏舎・牛舎があったくらいですから(笑)」。
北千住に引越した時には、カルチャーショックを受けたそうだ。都会はすごい。対照的に清瀬市が益々、田舎に思えたに違いない。
桑田氏は中学からバスケットボールを始めている。一方、猛勉強も開始し、見事、「立教高校」に進学。高校でも好きなバスケットボールに熱中した。
「大学は、社会学部観光学科に進学します。その一方で、かつて通った清瀬中で、女子バスケット部のコーチとしてデビューします」。
朝夕、練習に参加し、土日には試合を指揮した。女子生徒たちからは、鬼コーチとして怖れられたそうだ。
空いた時間を利用して、父親が経営する塾や友人の勤めるファミリーレストランでバイトもした。
「ファミリーレストランでのバイトが引き金です。漠然とですが、外食をやりたいと思うようになり、大学卒業後、『ホテルニューオータニ』に就職しました。もっとも叔母のコネ入社です(笑)」。

ホテル、調理師学校、イタリアレストラン…、旅が始まる。

当時、「ホテルニューオータニ」では入社から3年間のジョブローテーションがあり、4年目に行きたい部署を選択する制度が敷かれていたそうだ。研修制度も様々なものが用意されていたようで、桑田氏がチャレンジした海外研修もその一つである。
「社内で開催される英語のスピーチコンテストで、いい成績を残すとスイスのローザンヌ学校のサマースクールに行かせてもらえたんです。当時、私たちのなかでは最高峰の学校です」。
「何が何でも、と頑張った結果、選んではいただけたんですが、いかんせん実務経験が足りずに入学できませんでした(笑)。さすがに、かわいそうだってことになって、代わりにサンフランシスコのホテルで研修させていただきました」。
「『ホテルニューオータニ大阪』に転勤が決まったのは、その後」と桑田氏。この転勤が、人生の大きなターニングポイントになった。
「『ホテルニューオータニ大阪』では勤務も楽しく、学べることも多かったのですが、もっと勉強したいと欲がでて、辻調理師専門学校に勤める大学の先輩に相談したんです。その際、山縣副校長先生と出会いました。『ホテルニューオータニ大阪』に転勤していないと、山縣先生にお会いすることもなかったと思います。そういう意味でも、この転勤は一つの転機でした」。
面接で「学ぶのではなく、教えてみてはどうだ」。つまり、「生徒ではなく、講師をしてみろ」、とアドバイスされたそうだ。
「それで実は、大阪辻調理師専門学校で9年間、生徒を教えているんです。生活が安定したこともあって、37歳、2000年の2月に結婚。しかし、その翌月に辻調を退職します」。
結婚して、すぐに退社。奥様から見れば、心もとない選択である。しかも、しばらくして、山梨に向かった。むろん、理由がある。
「山縣先生の息子さんがイタリアレストランを経営されていまして、その方が、山梨のブライダル施設のなかにイタリアンレストランをオープンすることになったのです。それをサポートするために、1年間、向こうで寮に入って仕事をしました」。
 季節が一回りし、桑田氏は38歳になる。東京に戻った桑田氏は、前職の山梨のブライダル施設で知り合った総料理長が経営していた会社を手伝い、2001年8月からは半年、会議の運営代行を行う会社に勤務した。
「せっかく、就職した会社だったんですが、社内の労働環境が厳しい会社で、正義感じゃないんですが、経営陣の前で『やってられるか』と啖呵を切って、退職したんです」。桑田氏の男気を示すエピソードである。しかし、またまた職探しがスタートする。
「そのあとは、例の総料理長の会社を、企業化するコンサルティングを行いました。この時、1000万円を借り入れ、法人化を進めます。それを1年間で返済し、コンサル契約は、満了です」。
不安がなかったといえばウソになる。しかし、転々とすることで、新たな力を習得したのも事実だ。むろん、そのなかで、新たな人とも出会った。実は、この時、同社の法人化に尽力いただいた方が、ネオ・エモーションの現会長の石橋幸男氏である。

思い出した宿題。

「それから青山にある『宣伝会議』のグループとして外食企業の立ち上げに取締役として参加します。『株式会社ハートップ』という社名で、イタリアンやフレンチ、洋菓子の店を出店しました。こちらで2003年から2007年まで勤務。それから人材紹介を介して、ヒルトン東京に料飲統括責任者として転職します」。
転職の動機は、「ホテルの総支配人になる」という、ニューオータニ時代の宿題を思い出したからだ。
「ヒルトンに転職できたのは良かったのですが、外資系のヒルトンでは、日本人は今からのステップアップではすぐに総支配人になれないとわかったので、1年半で退職します。そして、50代後半の総支配人が多くいた『ホテル日航』ならと、JALホテルズに直談判。昔、知り合った方が人事になっていたという偶然も重なって、無事入社できました」。
ただし、という言葉がつく。最終面談は9月30日のこと。しかし、入社できたのは、翌年の5月。「優先的に採用しなければいけない人がいた」ということを後で知った。
「あの時はきつかったですね。7ヵ月、無職です。しかも娘の小学校進学と重なって、お金もいりましたし、なにより無職で面接に行けません。だから、かたちだけの会社をつくってやり過ごしました(笑)」。
「月50万円は…」とバイトに精をだした。バイトで50万円となれば、相当、きつい。なかなか家にも帰られなかったそうだ。そして、無事、JALホテルズに就職。運営企画部で結果を残し、念願の総支配人となり、ホテル日航豊橋、ホテル日航那覇グランドキャッスルを担当した。

旅のその先。

「JALホテルズを退職したのは、2014年です。私はずっと現場にいたかったのですが、そうもいかない。わがままかもしれませんが、それで、転職を決意するんです。他のホテルから内定がでて、お世話になった石橋会長に、ご挨拶に行くと『会社を立て直してくれないか』と打診されたんです」。
それから1年と少しが経過する。ガバナンスの強化をはじめ、制度も大胆に改革してきた。内部体質は、大幅に改善されたはずである。しかし、ネオ・エモーションも任期がある。
「任期以上される気はないのですか」と伺えば、「お尻が決まっているから、時間にも追われ、改革も大胆にできる」と桑田氏はいうに違いない。
転々とする、まさに旅人のような人生だ。そのうえ、行先の一つひとつで結果を残してきた、その実力には驚かされる。ところで、この旅は、いつまでつづくのだろう。いまからはじまる、旅のその先をみてみたい気がした。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1    
サンフランシスコのホテル研修にて
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