有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏 | |
生年月日 | 1958年6月14日 |
プロフィール | 兵庫県神戸市に生まれる。高校卒業後、飲食店などで勤務し、経験を積んで25歳で独立。時代を先取りした「焼鳥BAR」や「和食レストランBAR」をオープンし、その名を知らしめる。 |
主な業態 | 「レッドロック」「ふわとろ本舗」「復活酒場」「ひつじやジンギスカン」他 |
企業HP | http://www.rb-syuhari.com/ |
「日本でいちばん給与が高い会社を作る」とスタッフにとっても嬉しい目標を掲げるのが、今回ご登場いただいた、有限会社「R&B守破離」の増田昭社長である。同社の看板メニューの「ローストビーフ丼」は、TVでも何度となく取り上げられているので、ご存じの方も少なくないはずだ。
増田氏が生まれたのは、1958年。兵庫県の神戸市出身である。
「父は淡路出身で、母は高知出身です。父と母は、2人で屋台の焼鳥屋をしていました。小学校の頃は、好き放題。勉強もあまりした記憶がありません(笑)」。
ご両親の屋台は繁盛していたようで、屋台も2連結だったそうである。増田氏が、好き勝手できたのも、ご両親の目が、忙しい仕事に向けられていたからだろう。
ともかく昔の少年は、増田氏に限ったことではなく、ともかく奔放だった。TVゲームの代わりに、メンコやビー玉で遊んだ時代である。増田氏も、その1人だったに違いない。
「中学でハンドボール部に入りました。ほんとは野球部とかが良かったんですが、何分、グランドが狭くって、そういう部活がなかったんです。でも、ハンドボールをやったのは正解でした。高校も、スポーツ推薦で、進むことができましたから」。
高校時代には、ハンドボールでインターハイにも出場している。増田少年は、ともかく運動神経、抜群の少年だった。
「高校を卒業してからは、知人の紹介で東京にも行きました。遊び半分でしたが、和食の店に住み込んで1年半くらいは向こうにいました」。
増田氏は、「面白かった」と表現するが、住み込みに逃げ道はない。給料は安く、それでいて長時間労働が当たり前の時代の話である。
「1年半くらいで神戸に戻ってきます。家の手伝いも少しはしました」。
実は、増田氏。1度だけ、サラリーマンの経験がある。「この時、知り合いに頼まれて、創業してすぐの会社に就職しました」。
着慣れぬスーツ、カッターシャツにネクタイをまき、革靴を履いた。
しかし、3日で、断念したそうだ。
「いやぁ、ぜんぜんあきませんでした。向いてないって思って、それで3日目に『辞めます』っていったんです」。
「相性が悪かった」と増田氏。親和性という意味では、やはり飲食だったのだろう。
「両親が飲食店だったことも影響していると思いますが、私自身が昔から、『好き』だったんだと思います。起業しようと思い立って、最終的に独立したのは、私が25歳の時です」。
9坪で20席くらいの「焼鳥BAR」だった。
「いまやったら、いろんなスタイルの店がありますが、当時焼鳥っていうたら、うちの両親みたいに屋台とかね、少なくても、BARみたいな店はありませんでした」。
独立に際し、増田氏は、「もともと、大きな会社にしようとか、金儲けしようとか、そういう気持ちはさらさらなかったんです。好きなようにやれたらええ。たべものづくりを楽しめたらええ。そんな感じやったんです」。その思いを具現化させたのが、「焼鳥BAR」である。「焼鳥」と「BAR」という組み合わせが、新しくて、面白い。
「特別、流行らなくてもいい。でも、スタイルにはこだわりたかった。かっこいい、って思われる、そういう生き方に惹かれていましたから、ふつうの焼き鳥店では満足できなかったんですね」。
もっとも、ルーツは両親の店。「タレも、参考にしています」と増田氏も言っている。
「焼鳥BAR」、響きもいい。バンド活動も行っていたという増田氏である。センスも良く、時代を先取りできるタレントの1人だったのだろう。
「次に出店したのは、3年後くらいです。今度は、和食のレストランBAR。25坪のそれなりに大きな店でした」。この店でも、増田氏は、メニューの開発から内装のデザインまですべて手がけた。
「1号店の『焼鳥BAR』は何だかんだと言って2000万円くらい投資しました。月商は600万円くらいです。2号店の『和食のレストランBAR』」は、800〜900万円。儲けるつもりはなかったですが、結果、儲かりました(笑)」。
もっとも2号店の出だしは悪く、2ヵ月ほどは、「店の前を素通りする客を見詰めていた」そうである。「でも、『絶対いける』という確信がありました。だから、大丈夫、もうすぐブレイクする、もうすぐ。と思っていたら、口コミで少しずつ広がって、この店もブレイクすることになるんです」。
店づくり。今もそうだが、メニューの開発からオペレーションの開発まですべて増田氏が行うのだという。店舗デザインも、増田流である。「どのようにすれば、いままでにない店がつくれるか。つくる私が楽しいと思えるかどうかも、大事な基準でした」とのこと。
この視点がいいのだろう。増田氏の「ジブン、好み」「ジブン、スタイル」。それが、人を魅了する。もちろん、失敗例もあるそうだ。「タイ料理の店は、早すぎた」と言って笑う。
さて、ローストビーフ丼でも知られる「レッドロック」。このブランドのプランを練り始めたのは、実は最近で、5〜6年前というから2010年くらいの話である。
「それまでは、乱暴に言えば、『好きにやる』のが、私のスタイルでした。しかし、ある日、気づいたら、私もいい歳だし、スタッフも中年に差し掛かっている(笑)。そういうのを冷静に見た時に、はじめて、チェーン展開もできるブランドをつくろうと決め、手始めとして開発したのがレッドロックなんです」。
現在、このレッドロックは、神戸を本店に、東京、大阪、京都に展開。合計7店舗。これ以外でも、お好み焼きの「ふわとろ本舗」、「復活酒場」「田舎 吉祥寺離れ」「ひつじやジンギスカン」など、合計14店舗を展開している。
最後に、今後の目標も聞いてみた。
「まず、全国展開です。経営スタイルも含め、様々な点を刷新します。給料のしくみも、大幅に変更する予定です。そのうえで、私ももうええ年齢ですから、私が引退しても大丈夫なように、いまのうちに次の体制づくりをしておこうと思っているんです。これが、私の最後の仕事といえるかもしれません」。
ジブンがいなくても、いい会社。それをめざすのも、なんとも増田氏らしい。ただ、いままですべて増田氏が行ってきただけに、その穴を埋めるような体制づくりは、相当難しいのではないか。だからこその抜本改革なのだろう。
「改革の向こうに見えるのは、日本でいちばん給料が高い会社」。「いちばん、でかい会社」でもなく、「いちばん、儲かる会社」でもない。「いちばん、給料が高い会社」。
いままでの常識に縛られない、増田氏らしい目標である。
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