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第579回 株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏
update 17/02/21
株式会社エスクリ
渋谷守浩氏
株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏
生年月日 1966年6月18日
プロフィール 奈良県桜井市に生まれる。建築系の専門学校を卒業し、家業でもある株式会社「渋谷」に就職。新たな風を吹き込むとともに、製材業から建築業へと事業をシフト・チェンジする。4代目、当主として社長に就任したのは2008年。のちに、株式会社エスクリからM&Aの提案を受け、それを了承。現在、渋谷氏は、エスクリの創業者である岩本氏から社長の席を譲り受け、株式会社渋谷の代表を兼務しながら株式会社エスクリの事業発展に努めている。
主な業態 レストラン:「ルシェクリ」「レス アルカーナ」「ラグナヴェールプレミア」他
企業HP https://www.escrit.jp/

4代目。

奈良県桜井市は、奈良県の中部に位置する都市。歴史は古く、ヤマト王権の中心地とも言われている。今回ご登場いただいた、株式会社エスクリ代表取締役社長、渋谷守浩氏が、この桜井市に生まれたのは1966年のことである。渋谷家は、代々事業家であり、創業者でもある曾祖父は、郵便を山間部の人たちに届ける飛脚業をされていたそうだ。
「曾祖父から数えて私で4代目です。2代目の祖父は、曾祖父の事業を、木材を運送する事業にシフトします。山間部では吉野杉という有名な杉が採れますから、郵便よりこっちが儲かると判断したからです」。
儲かると言っても危険で、当時のように牛や馬で木材を運ぶことは、それ自体が命がけだったそうである。
「私の父の代になってからは、運送より林業家のほうが儲かると、今度は製材業にシフト・チェンジです。とにかく現状に甘んじない、変化をし、進化をし続ける、これが、たぶん、うちの一族の正体なんです(笑)」。
いまはもう、渋谷氏の代になっている。「私は、製材業から建設業にシフト・チャンジします。4代かけ、だんだんと進化をしてきたわけです。さらに、私の代でパラダイムシフトを行いました。挙式・披露宴の企画・運営を行う、上場企業、株式会社エスクリのグループ会社となったんです。
建設業へのシフトは父親も賛成だったが、エスクリの傘下りについては猛反対。父親だけではなく、親戚一同からも猛反発をくらったそうだ。しかし、すでに社長になっていた渋谷氏は反対の声を押し切った。

少年に起きた、奇跡。

渋谷氏は、3歳の時に大怪我をした。父親が製材業を開始した直後、フォークリフトの下敷きになったのだ。
「足切断のピンチだったんです。医師からは切断を勧められたそうなんですが親父がまったく納得しません。医師が黙って切断しないように、手術室まで入って見張っていたそうです」。
手術はとりあえず終わったが、切断しなかったことで状況は以前より悪くなる。「そうなると親父も観念したのか、有名な医師を連れてきて、『これでだめなら』という話に落ち着いたそうです」。
つまり、だめなら足切断。だれもがあきらめていたそうだ。
ところが最後の最後になって父親の思いが天にとどいたのだろうか。
奇跡が、起こる。
「切断しなければいけないと言われていたのに、やがて格闘技も習いますし、高校ではレスリングの国体強化選手に選ばれました。足は奇跡的に治り、治ったどころか、それだけ動かせるようになったんです」。
いつの時の運動会だっただろうか。渋谷氏が出場するというので、親族も集い、固唾を飲んで渋谷氏の走りを見守っていてくれたそうだ。果たして、うまく走れるんだろうか? しかし、渋谷氏は、そんな心配もどこ吹く風というかのように、観戦する親族の前を駆け抜けた。あとから大歓声が追いかけてきたそうだ。
「みんなが泣いてくれていて、あのシーンはまだ記憶しています」。
足が完治する。もともとわんぱく小僧だ。しかし、小学校ではイジメにもあったそうだ。
「『お金持ちやろ』って。金持ちがええかっこしぃにみえた時代だったんです。昔のイジメはカラっとしていたっていう人もいますが、あいつらは、けっこう陰湿やったんちゃいますか」。
いまとかわらない陰湿なイジメ。しかし、当時はいまと違って登校拒否などできなかった。
「最初は、からかわれるたびに落ち込んでもいたんですが、段々、言われっぱなしっていうのが我慢できなくなって。でも、ケンカしても体格が違うし、敵いそうありません。実はそれで、格闘技を習い始めたんです」。
4代かけ、4つの事業を行い、上流工程に上り詰めたように、これも渋谷家の伝統か、とにかく長い目でものをみる。いまは敵わないが、いつかきっと。
格闘技のセンスがあったのだろうか。それとも目的があったからだろうか。ともかく渋谷氏は、みるみる上達する。体格で劣っても、もう負けないと思うまでになった。
2年生になった時にはメキメキと頭角を現した渋谷氏は、イジメの筆頭だったクラスメイトとも対等な関係となるどころか、上回る存在になっていた。

サバイバル生活。

小学生の話をあと2つ挙げておこう。「1つは、5年の時です。地球人学校に参加します」。参加といっても自主的にではない。「地球人学校っていうのは、都道府県からそれぞれ1名選ばれて、グアム島で生活をするんです。テントを張って、海に潜って魚を獲って。サバイバルです。勉強なんてぜんぜんないんです。『生きるちからをつける』。それがテーマでした」。
地元グアムの小学校にも放り込まれたそうだ。「だいたい英語がわからんでしょ。でも、だれも助けてくれません。そりゃ、脱落者もでますよ。でも、この経験は、今も私のなかで大きな財産となって残っています」。
試練を終え、帰国。
「なんだかんだ言って、まだ小学5年生でしょ。かあちゃんが恋しいんです。帰国して、ようやくかあちゃんに会えたと思ったら今度は沖縄へ!!「少年の船」に乗せられました。これが、2つ目。ようやく帰ってきたのに、家にいたのはたった1週間でした(笑)」。
スパルタ教育である。「『勉強しろ』なんて言われたことは一切なかったんですが、たぶん、こういうのが親父の教育だったんでしょうね」。
渋谷氏が3才の時の足の怪我でかかった費用は、会社が傾くくらいだったそうだ。親戚にも、借金した。「だから、私にかまっているような暇もそうなかったんでしょうね。昔から『勉強しろ』なんて言われたことはなかった。ただ、『お前は、奇跡を起こした男だ』と、それが、私の自信となるまで言いつづけてくれました」。
父親の愛情は深い。
ところでふだんは何も言わない父親が、反対した一件がある。大学進学の時の話だ。

父親のススメ。

「夜間に行けっていうんです。ふつうの大学に進学したら、ろくなことにならないからって」。
大学進学時の話である。
だから渋谷氏の最終学歴は、大学ではなく専門学校卒である。
小さな頃から、得意だったのはサバイバルな生き方だ。グアムでも、沖縄でも、イジメっ子ともたたかってきた。人に負けることが大キライ。渋谷家のDNA通り、負けることが許せなかった。
しかし、この時はあっさり負けを認めている。
「ぜんぜんだめ。敵わないんです」。
周りの生徒の話である。渋谷氏はこの時、進んだのは建築系の夜間の専門学校だ。
「日中は住宅・都市整備公団(現:UR都市機構)で仕事をし、夜、学校に行き勉強します。当時は、今と違って建築士や施工管理技士の人気が高く、周りの生徒たちも、そのために学びに来ていたんです」。
「もし、あの時」と渋谷氏はいう。「父の言う通りにしていなければ、どんな人生だっただろうか」と。それほど、専門学校の2年間は、渋谷氏にとって貴重なことを気づかせるとともに濃密な時間ともなった。
「夜間に通う学生たちはほぼ全員が昼間に働いて、学校に来るのはそれからです」。
工事現場から直行したのだろう。汗くさいまま席に座る。セメントが服に、顔についている生徒も少なくない。「親じゃなく、ジブンのお金ですよ。何に使おうが自由なのに、そのお金を使って学校に通う。なんだかんだいって坊ちゃんだった私には信じられない光景でした」。
「苦学生のド根性をみた」と渋谷氏は笑う。少しでも彼らとの共通項を見出そうとした。「大学にふつうに行っていたら、そりゃ、遊びまくっていたでしょうね。アルバイトして、儲けたお金で、女の子を追いかけていたかもしれない。でも、あのなかで1人、そんなことできるわけがないですよ」。
毎日、机にかじりついた。今までいちばん意味のある人生勉強の2年間だったともいえる。

離職の嵐。

学生時代の2年間を終えると、URの仕事に区切りをつけ、父が経営する株式会社渋谷に転職する。父の代から製材業に業態転換を行い、運送業の時代と比較しても業績は急拡大していた。
むろん、恩恵を味わったのは株式会社渋谷だけではない。バブル経済という孵卵器は、いくつもの会社を比較的短時間に育成した。しかし、その大半がバブルとともに消えたこともまた事実である。
経営者のかじ取りがいちばん難しかった時代ともいえるだろう。渋谷氏が転職したのは、そんな時代でもある。
1年も経たないうちに、古い社員たちとの間に軋轢が生まれた。
「いままで誰もできないような数字をたたき出したんです。それが、彼らには気に食わなかったんでしょうね」。
社長の息子という立場も、彼らは気にいらなかったようだ。会社を育ててきたのは我々だ、という自負もあったはずだ。それが、かえって事態を混乱させる。
気が付けば、渋谷氏だけが孤立しているかのような状態だったらしい。しかし、それにめげる渋谷氏ではない。それは、小学校の時にすでに証明済みだ。
「結局、みんな辞めていきました。そう、私に反発していた人は、だれも残らなかった。それでいいと私も腹をくくっていたんです。それからは、私の腹心で周りを固め、私を軸にした組織にしたんです」。
離職の嵐で、異分子が一層されたともいえるが、当時の渋谷氏の思いはどうだったんだろう。ともあれ、渋谷氏が先頭を走ることで、売上は益々拡大する。建設業にも進出し、ブランド力も高めた。そして、42歳になった2008年、社長に就任する。

岩本会長との出会い。

冒頭で、「エスクリとM&Aをした」という話をしたが、4代目の当主となった渋谷氏率いる株式会社渋谷はいま、株式会社エスクリのグループ会社となっている。「エスクリ」は、ご存知の方も多いだろうが、ブライダル事業を展開する上場企業である。まったく畑違いだが、どのような経緯で、両社は結ばれたのだろうか。
「証券会社の仲介で岩本さんとお会いして、最初は、内装工事などをさせていただいていたんです。年齢がひとつしか変わらないこともあってその頃から、岩本さんとは馬が合って。仕事をいただくだけではなく、相談にものってもらっていました。ある時、M&Aの話が来たので、相談したら、『だったら、うちと一緒にしようよ』って誘ってくれたんですね。『渋谷』という会社をより一層強く育て、未来永劫つづく会社にするためには、これが最良の答えだと、岩本さんからいただいた話をお受けしたんです」。
こちらもすでに述べたが、父親からはもちろん、親戚筋からも全員、反対されたそうだ。しかし、反対意見はすべて突っぱねた。岩本会長に対する信頼もそうだが、資本力のある会社のグループに入らなければこれからの時代は生きていけない、という経営判断からである。
「従業員にしてもそうですね。待遇も用意できるものが違ってくる。そういう判断軸もありました」。M&Aしたからといって、株式会社渋谷が消えたわけではないし、飲み込まれたわけではない。資本力という鎧をまとうことで、より強い会社に生まれかわったと言ったほうがいいだろう。
しかも、いまや渋谷氏が、「エスクリ」の社長となっている。岩本博会長の「いっしょにやろうよ」には、このような未来に対する思いまで含まれていたのかもしれない。
ともあれ、M&Aが、未来永劫の発展を願う渋谷家、4代目の決断である。代替わりのたびに業容を次々とシフト・チェンジしてきた渋谷家のDNAが、新たなフィールドを進めと促したのかもしれない。

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