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第580回 株式会社SSS(スリーエス) 代表取締役 中山俊士氏
update 17/02/28
株式会社SSS
中山俊士氏
株式会社SSS(スリーエス) 代表取締役 中山俊士氏
生年月日 1987年3月14日
プロフィール 香川県高松市に生まれ、5歳の時に茨城県結城郡に引っ越す。中学卒業後、悪友たちと縁を切るため、四国に渡り飲食店で勤務。2年後、東京にある専門学校に進むと同時にバンド結成し、音楽活動を開始。その時、勤務した飲食店で4年間勤務したのち、独立。座右の銘は、十人十色をもじった「七色七人」。
主な業態 「桂」「四季」「蓮」「すずの邸」「鳥魚門」
企業HP http://sss0609.co.jp/

仲間と別れ、改心するために、向かった四国。

中山氏が香川県で生まれたのは、まだ父親が修業中のことだった。
「讃岐ですから、うどんの修業です。私が5歳の時に、父の実家があった茨城県結城郡に引っ越し、念願の店をオープンします。そうですね。かなり大きなお店でした。バブルが終わったあとですが、それなりに儲かっていたように記憶しています」。
中山氏は3人兄弟の次男で、兄と妹がいる。「兄は結構マジメだったんですが、私は中学の頃から周りにもたくさん悪友がいて、学校にもあまり行かない悪ガキでした」。
両親は仕事でいそがしい。中学の頃から早くも親離れである。しかし、いつまでも周りの悪友と付き合っているのも、性に合わなかったそうだ。
「だいたい人からとやかく命令されるのがイヤな性格なんです。にもかかわらず、周りの奴らといっしょにいると、だんだん先輩たちがいろんなことを指図するようになってきて、組織を抜け出そうと思ったんです。ですが、ご想像通り、縁を切りたくても、そうは簡単にはいきません(笑)」。
ヤキの一つでは済みそうもなかった。
「それで、逃げ出したんです」。
逃亡先は、四国。
「逃げ出したもう一つの理由は母親です。母は、私がどんなことをしても、陰であの子は『いい子なんだ』と、私をかばいつづけてくれていたんです。そんな思いをさせるのが、もう苦しくなって。だから、改心する意味もあったんです」。
父は、修業のために瀬戸内海を渡った。息子も、また、目的は違うが、そのあとを追った。

逃亡先でみつけた、音楽の魅力。

「四国では、母の知り合いの店ではたらかせてもらったんですが、逃げ癖がついていたんでしょうね。最初は、『はたらいては、辞める』の繰り返しです。ぐーたらが染みついていたのかもしれません」。
初めての社会である。きびしいことにも、理不尽なことにも慣れなければならない。「指示」という「命令」も、当然ある。それでも、母の知り合いのラーメン店からスタートし、会社は替ったりしたが、ともかく2年間、四国で暮らした。
「四国で暮らしてから、独り暮らしのわびしさっていうんでしょうか。それを紛らわせるためもあって、音楽に傾倒していきます。好きだったのは、XJAPANです。だんだん、音楽に対する思いが膨らみ、今度は東京にある音楽の専門学校に進みました」。
もともと音楽が好きだったわけではないらしい。楽器の経験があったわけでもないそうだ。にもかかわらず「専門学校」に進む選択をする。それなりの自信があれば別だが、かなり勇気もいり選択ではなかったか。
「ちょうど18歳の頃ですね。学校に通いながら、バンドも組んでいました。音楽活動一本です」。
実は、中山氏は専門学校も途中で辞めている。だが、今度は逃げるためではなかった。むしろ、アーティストになるために、進んで「専門学生」という肩書を捨てたと表現したほうがただしい。
「私は学校も辞めて『デビューにまっしぐら』と思っていたんです。メンバーたちと温度差があったのは事実です。彼らは、趣味のレベルを少し超えたくらいだったんです。彼らは、だんだんかけていきます。年齢も、もう25歳くらいの人もいましたから、仕方ないといえば仕方ないですよね。現実と向き合う、そういう選択を迫られていたわけですから」。
理屈ではわかっても、心では理解できないこともある。「結局、2年くらいで私自身ギターを置くようになりました。それ以上、バンドをつづけることができなかったからです」。

なくした指標とみつけた志。

バンドを組んで、メジャーになる。人生の羅針盤は、その方向に向いていた。しかし、メンバーがかけていくこともあって、いつしか、その思いへの磁力がなくなった。
「バンド活動は、週2〜3日。結構、マジメにやっていました。もちろん、バンドだけでは生活できません。当時、勤務していたのは、貿易会社の社長が趣味と言っては怒られるかもしれませんが、片手間で経営していた居酒屋です。だから、好きなことをさせてもらえました」。
もともと飲食を仕事にすることに抵抗はない。逃亡先の四国でも飲食の仕事をしていただけに、即戦力になれるくらいの自負もあった。
「もっとも最初は、バンドがメインで、こちらも片手間のアルバイトです。その店でアルバイトを始めたのは、バイトなのに寮までついていたからです。ま、代わりにバイトでも週5日は入らなければいけなかったんですが(笑)」。
最初は、たしかにバンド優先だった。しかし、バンドへの思いがなくなってからは、飲食が第一になった。いい店長に出会えたことも大きかった。
「当時の店長が経営のことが好きで、いっしょに株主総会とかに連れて行ってくれたり、『ビジネス本を読め』ってハッパをかけてくれたりして。あの頃は、レコード会社をつくるつもりだったもんですから、私自身、前向きに勉強しました。言い方をかえれば、そのおかげでレコード会社はつくれませんでしたが、飲食会社はつくることができました」。
バンドを辞めて、みつけた志。それは「独立」という二文字に凝縮される。

独立。24歳の決断。

「結局、その店には4年いました。独立したのは、24歳の時です。最初は、いったん店を辞め、当時の先輩がはじめた店をしばらく手伝っていたんです。その時、その店の社長から業務委託の仕事をふっていただけて、それが独立の一歩となりました」。
「委託だとしても店をやるのなら会社をつくろう」と、「株式会社SSS」を早くも設立する。
ところで、SSS、すなわちスリーエスとはどういう意味なんだろう。直裁にうかがってみた。
「SSSは、『サービス』『センス』『スクール』という意味で、その名の通り、センスのあふれたサービスをみんなで学び、教えていくところという思いを込めて社名にしました。ちなみに私の座右に名は、『十人十色にちなんで、七色七人』。私の大好きなラッキーナンバーでもある『7』と『人それぞれ違う色を持っている』を合わせた言葉です。いろんな色を掛け合わせて、最高のカラーをつくりだしていく、そんな会社でありたいと思っています」。
この思いは、店づくりにも表れている。現在、店舗は7店舗あるが、それぞれオリジナルカラーに染められている。
では、もう少し時間をもどして、1号店からの話のつづきである。
「委託でスタートしたのは、神保町のお店です。1年ちょっとで単店でできることの限界を感じて、2号店目を出店します」。「たぶんに、ダイヤモンドダイニングの松村氏の影響が大きい」という。
「100業態、100店舗という発想に惹かれました。規模は違いますが、まさに『七色七人』の発想ですよね」。
1号店目は委託だから初期投資はゼロに近かったが、2号店目はそうはいかない。初期投資で1200万円。半分近くは貯めていたが、残りは知り合いから借り入れた。
「人から何かを借りるというのは、好きじゃなかったんです。でも、この時はそれ以外の選択肢はなかった。いまは、『借りる』ことも大事な選択肢の一つだとは思っているのですが、当時は、イヤだったから、とにかく、返済しか頭になかったですね。住んでいた家も解約して、店に寝泊まりして固定費を絞って…」。
中山氏は笑って言うが、600万円前後を、わずか2ヵ月で返済している。当然、店が大繁盛した証でもある。

今後の目標は、直営10店舗、FC50店舗。

2016年、インタビューした時点で中山氏はまだ29歳だ。社名に「センス」の一文字を取り入れるように、感度は高い。それは店にも表れている。将来の目標も伺った。
「今後の目標は、直営10店舗、FC50店舗です。そのためには組織づくりですね」。
組織作りにおいては、「スクール」の「S」が意味を持つ。
ホームページの従業員募集のページには、こんな一文が添えられている。
「教えるのは社長だけでなくみんなでサービスを作っていき、みんなでセンスのあるサービスを学んでいく。これが当社の最大の経営理念です」。
「みんなで」の一言がいい。
人に命令されるのが、イヤな中山氏らしい一言でもある。これからも「サービス」「センス」「スクール」の3つの言葉を大事に進んで欲しいと思った。
なぜならそれは「人が育つ場所」という意味にほかならないからだ。この3つの「s」を胸に、オリジナルカラーを生み出していく。それぞれのスタッフの活躍にも期待したい。

思い出のアルバム
 

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