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第583回 長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美氏
update 17/03/21
長岡商事株式会社
前川弘美氏
長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美氏
生年月日 1962年
プロフィール 服飾系の大学を卒業後、アパレルメーカーにて服飾デザイナーとして勤務。月刊誌の編集者を経て、結婚。2006年、10年間のブランクを経て、長岡商事に入社。2009年、1本390円のかぶりつきラムチョップや、ふっくらジューシーに炊きあげた本格パエリア1500円をはじめとしたリーズナブルなスペイン料理とワインが楽しめる『下町バル ながおか屋』をリリースする。
主な業態 「下町バル ながおか屋」「ビアバル NAGAOKAYA」「和食バル さしすせそ」「上野市場(系列店舗)」
企業HP 下町バル ながおか屋HP
http://www.uenodebal.com/
※コーポレートサイト
http://www.nagaokasyouji.co.jp/

始まり。

「あいつが男ならよかった」と、生前、創業者で当時、会長だった父は、常務にそう呟いていたそうだ。とはいえ、男なら良かったと言われた本人の前川弘美氏は「最後まで怒られてばかりだった」と笑う。前川氏は5人兄妹の末っ子。末っ子の前川氏が生まれた翌年、父は東京・上野に小さな喫茶店を開業する。それが長岡商事株式会社のはじまりである。
「父は早くに祖父を亡くし、15歳で1人、下関に引っ越します。旅館の丁稚奉公からスタートし、盛岡で財をなし、家族を呼び寄せました。戦争が大きな影を落とした時代でした。『塩を舐めて暮らした』と母は当時の様子をそう語っていました」。
盛岡でいくばくかの財をなした父は、前述通り、前川氏が生まれた翌年、つまり1963年に東京・上野に喫茶店を開業する。「上野は喫茶店発祥の地なんだそうです。当時若者の憩いの場は喫茶店になり、かなり繁盛したと聞いてます。喫茶店だけではなく焼肉店や、そうそうトリスバーも大ヒットしたそうです」。
敗戦から立ち直ろうとする時代が生んだ活力が、高度経済成長の時代を生み出した。上野は時代の象徴の一つとなっていく。上野の山に桜が咲くと人が集い、上野公園にパンダがやってくると人盛りができた。アメ横にも、たくさんの人が行き来した。
前川氏は、そういう上野をみて育った。
「不忍池でザリガニを釣ったりして、小学生の頃はわんぱくだったですね。末っ子で、兄たちの影響も少なくなかったと思うんです(笑)」。
大好きな兄、姉。「母も大好きでした。でも、父は苦手だった。怒りだすととまらないし…。」
反抗していた時代も長かったそう。「何度も家を出て行ってやろうと思ったこともあったんですが、そうすると母が怒られるから、思い切ることができなかった」とも語っている。
だから、子どもの頃には、いや社会に出てからも、父の仕事を引き継ぐとは思いもよらなかったそうだ。

服飾デザイナー

兄たちの影響もあり、中学から音楽をはじめた。高校では男子バスケット部のマネージャーを務めるかたわら、仲間といっしょにバンドを組んだりもした。
「子どもの頃は、かなり成績も良かったんですよ。でも、高校になるとぜんぜんだめ。勉強もしていないんですから、そりゃそうですよね。大学受験に失敗して、もういいやと思っていたんです。そうしたら、のちに医者になる一つ上の兄が、どうしても『受験しろ』といって。受験票を試験会場まで持ってきてくれたんです。私はディスコで朝まで踊って、しかたなく直行です(笑)。それで受験し、合格したのが『杉野女子大学』です。意に反した服飾系の大学に行くことで私の運命が動くんですから、わからないものですよね(笑)」。
卒業する頃には、デザイナーになろうと思っていたそうだ。実際、前川氏は服飾デザイナーとして6年、アパレルメーカーで勤務している。「最初は受付からのスタートです。でも、すぐに認めてもらうことができて、晴れてデザイナーの仕事をすることができました。私が手がけた作品がヒットし、ご褒美でヨーロッパ視察に行かせてもらいました」。
22歳からの6年間。前川氏は大好きなデザインの仕事に従事する。大学では、あそび専門だった彼女が、仕事を開始すると人がかわったように仕事に打ち込むようになる。
もっとも、「真夜中まで仕事をして、それから飲みに行くのが日課だった」と笑う。退職したのは、からだをこわし、それを知った父が激怒したからだという。前川氏のことを心配してのことなのだろうが、父の気持ちは前川氏にうまく届かない。
「それから、転職し、月刊誌の編集を手がけます。化粧品もつくっていた会社だったので、最初はパッケージのデザインからスタートしたんですが、編集も手がけるようになって」。映画監督など、いままで付き合ったことがないような人とも交流がはじまったのはこの時だ。「編集の仕事が面白くて、周りの人は5時にはさっさと引き上げるんですが、私はいつも10時、11時まで残って仕事をしていました」。
その仕事を辞めて、一度行ってみたかったという、チベットを訪れカイラス山を登山し、ネパールへと約1ヶ月旅に出る。出かける前に知り合ったご主人と結婚し、専業主婦となり、2人の子をもうける。
父と娘は、ひとつの線をひきながら、微妙な関係を保っていたのかもしれない。「主人が父に挨拶するために我が家にやってきた時、彼にも激怒するんじゃないかってびくびくしていたんですが、拍子抜けするくらい好意的な対応でした。宜しくお願いしますって。結婚しろ!と散々怒鳴られてはいたが、本当に結婚を望んでいたのだなとわかりました(笑)」。
父親の愛情をはきちがえていた、照れ隠しにも聞こえなくもなかった。

社会復帰。

「専業主婦は、10年くらいです。だから、ブランクいっぱい抱えての復帰です」と前川氏は笑う。
「すでに、いちばんうえの兄が社長を務めていました。もっとも会長になって父の影響力が薄くなったわけではなく、むしろ、その逆でした。いちばん上の兄が、社長で、次男が専務だったんですが、2人がかりでも父にはかないません」。
「口ごたえしていたのは、私だけだった」と前川氏。しかし、あくまで反抗が許されたのは私生活の話で仕事になればそうはいかない。それがわかっていながら、前川氏は、社会復帰とともに、はじめて一族の会社、長岡商事の敷居をまたいだ。
「私が復帰を決めたのは、社長だった兄がからだをこわしてしまったからなんです。正直に言いますと、お店もうまくいってなかった。私が子どもの頃と比べて上野もずいぶんかわって、もう風俗など夜の街になっていましたから、私たちのようなビジネスをつづけていくのはそうカンタンではなかったのでしょう。しかし、手をこまねているわけにはいかない。兄たちは、大きな賭けにでて、そして躓きます」。
専業主婦をつづけていた前川氏を動かしたのは、兄たちの窮状だった。大きな賭けに出た新店が心配で、制服デザインと製作、店内イベント企画と、自分ができることから手伝いはじめた。
「上野ってもうキャバクラ街みたいになっていて、私自身、この街で暮らしてきたから愛着もあって何とかしたいなと。それが、兄たちのビジネスを助けることもつながると思ったんです。それが、私が最初につくった新聞です」。
長岡商事の娘という身分を明かさず飲食店に足を運び、スポンサーを探した。突然の話に店主たちは首をふりつづけた。それでもいったんやると決めれば、そう簡単にあきらめられない前川氏である。
「寛永寺のご住職にも寄稿文をお願いして。上野動物園や美術館の情報も掲載して。イラストレーターを覚えながら4Pの新聞をつくって。観光連盟にも協力していただき、上野駅の片隅に特別に置いてもらったりもしたんです」。
もちろん、一度きりの発行ですべてがかわるわけはない。しかし、何かをする、それが最初の一滴になり、やがて大きなうねりになることも少なくない。時代は、どうかわっていくのだろう。
ちなみに現在、前川氏は、上野界隈の活性化のために、「食べないと飲まナイト」というイベントを開催しているが、当時から、「町ぐるみ」という発想があったことが伺える。

社内のほころび。

「社内を一つにするのは、私にしかできないと思ったんです」と前川氏は、復帰の思いを語る。
「兄がからだをこわすなどして、社内もいろいろごたついていて。私は最初、肩書のない事務員として入社するんですが、4人いた事務員に『会長の娘さんなんだから、会長室で昼寝でもしていてください』って言われるんです。事務員まで、そんなことをいうような状況だったんです。『私がそれはできない』というと『じゃぁ私たちは、全員、今月で辞めます』って」。
「どうぞ」と言ったそうだ。そんなところで負けているわけにはいかなかったから。「ただし、『私に全部教えてね。私、覚えるから』」って。そうしたら、ゴタゴタしながら3人辞めました。でも、いまもそのうちの1人はいっしょにやってくれています(笑)」。
事務員だけではなかった。立て直しのために入社したにもかかわらず、だれもがそっぽを向く。
「当時は、いくつものほころびがあって。会長の父と不在がちな兄。両者のやり方の違いに困惑する社員たちの間にも、いつのまにか大きな溝があった。私は、まずそのほころびを直すことから取り組みました。隠す体質から開けた体質へ。まず挨拶から。会長(父)が来社したら率先して大きな声で挨拶しましょうと。私はいままで父に反抗していたのですが、もう『ノーは言わない』と心に誓ったんです」。
発想を転換した。父との間に惹かれていた境界線を、自らの意思で乗り越えた。
「私は、父と兄だけではなく、父と従業員の間にも立ちました。社員に会長の話にはとにかくイエスと言い、文句があれば私に、と。父からは、言葉足りず荒っぽいが本当に言いたいことを汲み取り、私から社員に伝え報告する。するとだんだん父は私に直接色々な話をするようになって。尊敬される会長と信頼される社員の関係へ、地道な橋渡しと改善をしていったんです」。
ただ、社内が一つになることがむずかしいように、業績もなかなか好転しなかった。起爆剤となったのが、2009年、前川氏がプロデュースした下町バル「ながおか屋」である。もっとも、最初から起爆剤として機能したわけではなく、業態転換を迫られたこともある。「おまえはもうひっこんでいろ」と社長の兄から言われたこともあったそうだ。
最後に、その話をする。

下町の、ラムチョップ。

「兄は何件もお店をプロデュースし、繁盛させてきた人です。ながおか屋も、兄と2人でコンセプトを決めました。店のまんなかに炭火を置くなら、ラムチップだと勧めたのは私です。兄は、居酒屋をやりたかったそうですが、近くにも上野市場という居酒屋を経営していましたので、違った業態で行こうって」。
「そのときはOKをもらったんですが、なにぶん準備期間をくれない。兄には兄の考えがあって、上野だからオープンするなら、花見の季節か、年末なんだとゆずらない。スタッフもバーのスタッフをあてがう、と言って聞かない(笑)」。
着工からオープンまで、またたくまだった。
「なんとか花見には間に合って、3月25日にオープンします。初月から1000万を超せと兄からの指令。私は心のなかで、『寄せ集めで、それはできないよ、お兄ちゃん』って呟いていました。それでも社長の言葉です。めざさないわけにはいきません」。
結果はどうだったんだろう。
「散々でした。花見の月でも500万円もいかなかった。平日は10万円以下です。営業時間をのばし、朝4時まで仕事をしました。でも、ぜんぜん売上はアップしませんでした。『もう、やめろ』『おまえが諸悪の根源だ』とまで言われました。社長と社員の関係ですが、大好きな兄に言われたのが一番辛かった。何のために、私はがんばっているんだって」。
実際3ヶ月弱、前川氏は店を離れている。「でも、どうしても捨てきれなかったんです。だから、10月になって土下座をして、もう一度やらせて欲しいと言いました。ただ、やるからには、今度は私の好きなようにさせて欲しいと」。
だめだったら、今度こそ潔く身をひくという覚悟だったに違いない。それが、何を意味するか、いちばんよく理解しているにも関わらず。
「とにかく、まだラムチョップっていうのが一般的じゃなかったんですね。だから、一度、食べてもらわないといけないと思ったんです。それで、スゴロクやって、無料でプレゼントする企画をやったり…。そもそも、最初は青山や六本木から来てもらえるような店作りをしていたんですね。でも、それじゃだめだって。上野のご近所の人に来てもらおうと切り替えたんです。『下町バル通信』も発行しましたし、ベタなチラシをまいたりもしました。そういうのが、少しずつ実って。ラムチョップって案外、旨いじゃないかって。パエリアもいい、と」。
いつのまにか店には多くの人が集い、店内は笑い声で満ちるようなった。街の片隅で灯った一つの明かりが、上野界隈を明るく照らすようになった。兄もたいそう喜んでくれた。
「めざすのは、下町のソウルフード。ラムチョップで100万人をハッピーにしたいなって思っています」。下町の、ラムチョップ。家族を思う愛から生まれた、まさにソウルフードである。
ちなみに、現在は、同じビルの2F(2017年3月21日には4Fもフルオープン)にもフロアを拡張し、売上げは当初の5.2倍になっているそうだ。看板メニューの「かぶりつきラムチョップ」は、通算67万本を売り上げる人気商品となっている。

思い出のアルバム
 
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