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第588回 株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍(ちょう ぎょくりゅう)氏
update 17/04/25
株式会社グレートステージ
張 玉龍氏
株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍氏
生年月日 1985年6月3日
プロフィール 中国、浙江省湖州生まれ。子どもの頃から日本のアニメに興味を持ち、日本語の教科がある高校に進む。高校卒業後、来日。専門学校などを経て、東洋大学経営学部に進学。最終学歴は、大学院。学生時代にすでに起業し、卒業後、株式会社グレートステージを設立する。
主な業態 「うま粋」「鶏炎」他

きっかけは、アニメ。

今回、ご登場いただいた張 玉龍氏は1985年6月3日、中国の浙江省湖州で生まれた。湖州は上海から列車で1時間程度。沿岸都市で経済的にも発展しているそうだ。張氏の父は、湖州で従業員数80名の会社を経営している。
「私の家は、私ともう一人、妹がいます。一人っ子政策の時代なんですが」と張氏。一人っ子政策でも、そういうケースがあるのだそうだ。「ただ、学校で知り合った人たちは、やはりみんな一人っ子でした」。
1990年代の中国の様子はどうだったのだろうか。当時はたしか「世界の工場」と言われていたはずである。中国からすれば、欧米はもちろん世界の技術や文化をキャチアップしていた時代だったような気がする。
話は飛ぶが、張氏が来日したのは、氏が19歳の頃だ。1985年生まれだから2004年。それから6〜7年間は一度も帰国しなかったという。
ところで、どうしてアメリカではなく、日本を選択したのだろう。
「小さい頃から、勉強はぜんぜんしないんで、お母さんによく叩かれていました(笑)。得意なのは体育だけ。中学校からバスケットボールを始めるんですが、なぜ、バスケットだったのかというと、実は、『スラムダンク』の影響なんです」と張氏。
『一休さん』『ナルト』『ワンピース』と日本でお馴染みの題名が次々と張氏の口から飛び出してくる。「日本語に関心を持ったのも、実は漫画がきっかけ。最初は日本語がぜんぜんわからなくて。それで、勉強しようと思ったんです」。
アニメが、日本と中国の架け橋となった一例だ。

来日。

張氏は高校時代から親元を離れ、日本語を教える学校に進んでいる。寮で暮らすことになり、ルームメイトは4名。うち3名が来日し、張氏ともう1人がいまも日本に残っているそうだ。
「高校を卒業した年に単身、日本に来ました」。
憧れの日本である。しかし、親戚も、知り合いもいなかったそうだ。「日本はどうでしたか」と伺うと、「湖州も都市なんですが、スケールが違いました。なかでも路線がすごい(笑)。山手線ってなんなんだって。感動もしました。年配の方に道をたずねたんです。すると、そのおばあさんは、わざわざ目的地まで連れていってくれたんです」。
張氏は、いまもその時のことを宝物のようにして胸にしまっている。「来日して、不安な時ですからね。日本人にとってはめずらしくないことかもしれませんが、私は、大きなぬくもりを感じました」。
来日した張氏は、日本語の専門学校に進む。
「2年制なんですが、私は向こうで勉強していたので1年生が免除され、2年生からスタートしました。それから、駿河台専門学校に入り直し、日本の歴史などを勉強します。そういう勉強をしないと大学にも進学できないからです」。
張氏は日本語を巧みに操る。英語もできるそうだ。
「子どもの頃は、勉強しないタイプでしたが、そういうわけにはいきません。一旗あげるまで中国にも帰らないと誓っていましたから、覚悟もぜんぜん違います。専門学校を出て東洋大学に進み、今度は経営を勉強しました。会社を興すためです」。
張氏は、教授に勧められて大学院にも通ったと言っている。

起業。

大きな志を持った青年が日本に来た。この「飲食の戦士たち」でも、中国や韓国、台湾など海外から来られた経営者を多数紹介している。張氏も、そのうちの1人である。
しかし、どうして張氏もまた「飲食」だったのだろうか。「日本に来てすぐにアルバイトを始めました。来日してから1週間たった頃には、もう店に立っていました。コンビニ、居酒屋、定食屋、イタリアン…。学校では経営を大局的に学び、お店では実践を通して勉強させていただきました」。
アルバイトでも職位がつくと、レジ閉めなどもできるようになり、経営状況がおぼろげにもわかるようになる。それが、手本ともなり、モノサシともなった。
「それで、これならいけるんじゃないかなと思って、私も飲食店を始めるんです。池袋に1号店を出店しました」。
張氏のパワーは、どこからでてくるんだろう?
「父からは、『やるなら、やりきれ』と言われていました。だから、6〜7年間、家にも、中国にも帰らなかった。そう決めていたんで、とにかくやるしかなかったんです」。「てっぺんをめざす」と張氏はいう。そのために、日本のなかでも、いちばんの東京に来た。
起業は、必然の選択だったに違いない。

覚悟。

最初につくった創業店は池袋だったが、グレートステージでは八重洲や銀座といったより中心街に出店した。ここにも、「てっぺんをめざす」という張氏の強い意志が表れている。
ちなみに、2017年現在、張氏が経営する店は、「うま粋・香る銀座」や「日本橋 鶏炎」を含め、十数店舗に広がっている。現状についても伺ってみた。
「銀座店は、60坪です。家賃だけで200万円くらいかかります。それでも立地は大事です。年商はいま10億円くらいですが、来期は20億円をめざします。出店は、6店舗くらいを予定しています」。
大学院出のインテリ経営者である。しかし、飲食は、肩書だけでは通用しない。
「そうですね。時代をちゃんとみないといけない。平成25年の10月にグレートステージを創業し、今年で4期目ですが、この4年間で、ある程度、ベースはつくることができました。売上も、利益も、信用もそうです。最初に店をだした時は、お金を出しても、なかなか借りることができなかったから。それと比べると情報も向こうからたくさん入ってくるようになりました。だから、私自身、動きやすくなったことも事実です」。
情報がたくさん入ってくると、明晰な張氏の頭脳が、その一つひとつを整理し、未来を照らす光に置換する。「時代も、人も動いている。だから、いまいろんなことにチャレンジしようと思っているんです」と張氏。
どうやらキーワードは「融合」のようだ。
「ブラジル料理やメキシコ料理がいいかなと思っているんです。だからといって、ブラジルやメキシコの料理店をやろうと思っているわけではありません。それらの料理と、たとえば和食やイタリアンを融合させればどうなるか。どんな化学反応を起こすか、楽しみなんです」。
寿司とシュラスコ、タコスとスパゲティ…、たしかに、それらを融合させれば、どんな化学反応を起こし、どんな新ジャンルのお店が登場するのか楽しみである。
そういえば、京都に漬物を挟んだサンドウィッチがあって、人気になっているそうだ。あれも、和と洋の融合から生まれたものだろう。
「現在、うちが注力しているのは、集客です。料理が美味しいのはもちろんですが、知ってもらわないといけませんから」。これも、新ジャンルに挑戦する際の布石の一つかもしれない。
日本の経営者はもちろんだが、やはり中国など、海外から来日し成功している経営者と親しいそうだ。しかし、慣れ合っているわけではない。「絶対負けられない」と張氏はいう。やるからには、「頂点めざす」。これが張氏の流儀である。
「上場はすぐにできなくても、とにかく、100億円は突破したいですね」。現在のおよそ10倍。しかし、流ちょうな日本語でそう語る張氏にできないことはないと思った。
もし「できない」という人がいたら、それはたぶん、覚悟の違いである。
食を通じて、日中の架け橋になれる存在を目指す張氏は、日中の雇用を促進し新たなグレートステージへと駆け巡る。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2

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