株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏 | |
生年月日 | 1968年9月4日 |
プロフィール | 鹿児島出水市に生まれる。小学校に上がるタイミングで、東京の新宿に移り住み、以来、高田馬場などをホームグラウンドにしている。社長就任は、2017年1月のこと。 |
主な業態 | 「ティーヌン」「ペンシーズキッチン」他 |
企業HP | http://www.spiceroad.co.jp/ |
一人の人間と、こうも濃密に付き合えるものだろうか。株式会社スパイスロード、現社長、木下氏の話を聞いて、そう思った。「私が、創業者の故涌井会長と知り合ったのは、30年ちかく前です。当時は涌井会長も不良オヤジでね」と笑う。なんでも高田馬場をふらふらしていた時に、偶然、アルバイト募集の貼り紙をみつけたのが付き合いを始めるきっかけになったそうだ。
木下氏は、1968年9月4日生まれ。鹿児島県の出水市出身である。
「何もないところ」というのは、どちらかといえば少し大きくなって帰省した時の記憶によるものだろう。というのも6歳の頃に新宿に移り住んだため、それまでの記憶はまるでないと語っているからだ。鹿児島弁も、まるでしゃべれない。
「当時の新宿はまだ大都市じゃないんです。箱根山があって、夏はセミが獲り放題。まだ、空き地もふんだんあったんです」。1970年代前半の新宿は、まだワンパク小僧たちにとって、天国だったようだ。
「スポーツは、野球です。当時は、誰もが野球だった。私が住んでいた団地だけで、チームがいくつかあって。中学になっても、部活ではなく、そちらのチームで野球をしていました」。
野球少年。当時の、ごくふつうの選択。
高校は、渋谷にある都立高校に進んだ。渋谷の街をぶらぶらするのが、高校生、木下氏の日課になった。
「部活動もしていないですし、勉強もぜんぜんしない。校風は自由で、制服なんていうのもない(笑)」。お気に入りはリーバイスのジーパン、ヘインズのTシャツ。「高校生の時は、バイトもしました。マクドナルドが長かったですね。週2〜3回で、月5万円程度でした」。もっともバイト代は、センター街に消えた。
「日・東・駒・専なら、なんとかなると思っていたんですが、ぜんぜんだめでした(笑)。まったく勉強していないんだから、そりゃそうです。1年浪人したんですが、結局、駿台トラベル専門学校に進みます」。
ご両親は、大学に行かせたかったそうだ。「小さな頃から、勉強しろと言われたことがない」と木下氏。「それでも、2人とも大学に行っていないんで、『息子には』という思いはあったようです」と語っている。
専門学校で知り合った友人が、オーストラリアでの留学経験を語る。話を聞いて、憧れた。だから面接でも「いずれ留学を」と話していたそうだ。面接といっても、就職の話ではない。冒頭で、書いた、創業者の涌井氏と出会った時の話である。
「専門学校に進んでも、そう勉強するわけでもなく、いつも通り高田馬場をブラブラしている時、偶然、アルバイト募集の貼り紙が目に入るんです。お店もはじめてみたような。『こんな店あったっけ?』と思ってのぞいていると、トビラが開いて、『いらっしゃいませ』と(笑)」。
「その時、声をかけてくださったのは、涌井会長のお母さまだったんです。急にトビラが開いて、そんな風に言われたもんだから、とっさに「アルバイトの募集をみて」っていっちゃうんですよね。それがすべての始まりなんです」。
専門学校を卒業するまでアルバイトをした。「その頃、会長とはそう話をするでもなかったですね。夕方、私が出勤する頃にはもう、飲みに行かれていましたから(笑)」。不良オヤジの伝説は、この頃から始まる。
「卒業しても、就職はしませんでした。最初は面接で言った通り、留学するつもりだったんです。涌井会長からは『うちに来い』っていってもらっていたんですが。まだ20代でしょ。かりに就職するにしても、もっと恰好いい仕事があるはずだって思っていました。でも、結局、留学もせず、教材の販売会社に就職します」。
販売成績は上々だったそうだ。給料の大半は歩合給。月100万円を超えるトップセールスもいた。木下氏は、そこまではいかなかったが、それでも、かなりの額となった。しかし、「だんだんと良心の呵責というか(笑)。精神的にもきつくなって」と木下氏。半年くらいで、その会社を退職している。
「いまでも鮮明に記憶していますね」と、木下氏は、涌井氏との、もう一度の出会いを語りだす。「私がやることもなく、明治通りをフラフラしていると、黒いクラウンが横で止まって。会長が窓から顔をだして『ちょっと、来い。食わせたいもんがあるんだ』って。そう、いきなりです(笑)」。その時、涌井氏が食べさせたといったのが「トムヤムラーメン」だった。
「素直に旨かったですね。私がバイトしていたのは、インド料理の店だったんですが、タイ料理も少しだしていて。そういう慣れもあったんでしょうね」。
日本のラーメンにはない、酸味とスパイシーな辛味と甘みが、口のなかいっぱいに広がる。「ええ、このラーメンは、涌井会長のオリジナルです。タイの代表的なスープ『トムヤムクン』と『ラーメン』をコラボレートして、つくりだしたんです」。
「旨い」という木下氏をみて、涌井氏は満足げに笑い、つぶやいた。「店をやるから、手伝え」と。木下氏に、ノーはなかった。この2人のやり取りが、日本におけるタイ料理のさきがけとなる店をつくることになる。
1992年。高田馬場駅から歩いて15分。13坪にカウンター13席、日本初のタイラーメン専門店「タイ国ラーメンティ―ヌン」が開業する。
「最初は、ラーメン屋に就職したって、友人にいうのも恥ずかしくってね。しかも、ぜんぜん流行っていない店でしたから。当時は、だれも知らなかったんじゃないかな」。
オープン3日間は、半額セールのおかげで人が来たが、それを過ぎると1日20人も来ればいいほうだった。なかには、一口すすって『なんだこれは』って怒って帰る人もいたそうだ。
「タイ料理っていったって、だれも知らないわけですよ。たとえば、チャーハンっていったら、だいたいわかるでしょ。でも、トムヤンクンっていってもだれもわからない(笑)」。
いわば、未知なる食べ物である。
「早稲田の学生さんらが、逆にそれをおもしろがって。それが、救いでした」。ところが、そんな一部の人たちのみに知られていた店が、メディアでも注目されることとなる。導火線となったのは「夕刊の記事」だそうだ。「それがきっかけになってTVでも紹介されて」と木下氏。
放映中に電話が鳴るなど、「トムヤムラーメン」が話題となり、店には行列ができた。「当時、グリーンカレーが1500円くらいで、タイ料理はけっして安い料理じゃなかったんです。トムヤムラーメンは730円。それでも豚骨ラーメンと比べると高かったんですが、一般の人にも受け入れていただけました」。
タイのスパイシーな極上スープとラーメンのコラボ。その発想によって、13坪の店に、小さなタイの街が再現されることになる。
「それからも、たいへんな時はいくつもありました。『ティ―ヌン』の次に、バンコクの一皿飯『カオタイ』を出店するんですが、こちらも、大苦戦です。1000万円以上、投資しましたし」。ただし、こちらも半年程度で、ヒットする。「いちばん、たいへんだったのは、商業施設に初めて出店した時です。月100万円の赤字。定借だったので、辞めるに辞められない。5年以上、赤字をつづけました」。
すでに出店していた路面店が好調だったから救われたが、無謀すぎる挑戦だった。「それでも、涌井会長は、ぜんぜんめげないんですね(笑)。池袋の商業施設にも出店し、こちらも大失敗です。ただ、この時は、商業施設のほうから、『出ていけ』って言われました。タイ料理が否定されたようなもんですから、相当ショックを受けていたと思うんです」。
ティ―ヌン1号店、開業当時から、食材はタイから仕入れている。創業者、涌井氏の「タイ好き」、その思いは、料理の細部にまで宿っているといっていいだろう。
「私が、知り合った当時、涌井会長は、まだ不良オヤジだったんです。仕事を少しだけやって、あとは、好きなことばかりやっている。でも、そこが格好いいところだったんです。でも、いつくらいでしょうか。たぶん、タイが大好きになってしまった頃からでしょうか。今度は、仕事オヤジです。日本にタイ料理を広げるんだって。今年2017年、涌井会長は亡くなるんですが、最後まで、そう言いつづけていましたから。それほど、タイにほれ込んだんでしょうね」。
だから、「赤字を垂れ流したことより、『出ていけ』と言われたことのほうが、ショックだったはず」と木下氏は、涌井氏の心情を推し量る。
しかし、時代は移り、涌井氏がほれ込んだタイ料理は、今やすっかり日本に定着する。「出ていけと追い出された、商業施設にも、今はちゃんと復活しています(笑)」と木下氏。ちなみに、現在、タイ料理の店は2000店程度あると言われている。「トムヤムクン」をはじめ、「カオマンガイ」「マッサマンカレー」など有名なタイ料理も数多くある。とくにタイ料理は女性の心をわしづかみにした、と言っていい。
2017年5月1日に、明星食品株式会社、タイ国政府商務省とコラボした「トムヤムクンヌードル」のカップ麺が発売されました。
さて、昨年、涌井会長からバトンを受け、社長に就任した木下氏。「まだ社長になって4ヵ月」と笑いつつ、「自信はある」「心配はしていない」と明言する。
「会長は常々、『なんだかんだって言ったって、商売は、味とサービスだ。そこにどれだけ、こだわりがあるか、で決まる』とおっしゃっていました。その通りです。レシピ化も進めませんでした。人間の手でやることは、人間でしか管理できない、というのが会長の持論でした。私が受け継いでいかなければならない大事な考えの一つです」。
木下氏が、いちばん共感しているのは、涌井氏の「タイ料理を世界の食文化の中心にする」という思いだ。それを実現するのが、木下氏に課せられたのミッションでもある。
涌井氏からの最後の指令は、「タイ料理を通じて、世界を楽しくする」ことだそうだ。
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